第27話 桜のふるさと
「さーくーらー」
誰かが呼ぶ声がする。明るくて縁側の陽だまりのみたいな、あったかい声だ。
この杜は桜にとってお気に入りの場所だった。
杜を含めた山全体は北半分は切り立った崖と谷川、南半分は鬱蒼とした原生林や下草で覆われている。
ここは、地元の人間が茸採りにくる狭い小道や動物のけもの道でさえも、外からの安易な侵入を許さない険しい表情で、周りの植林された山とは明らかに異なっていた。
しかし杜のふもとにある、灯篭が両脇に並ぶ意外と大きな石鳥居を見つけると、その理由に見当がつく人もいるだろう。
ここは古代より神域であり、神罰を畏れた人々によって、人間の知恵を絞って山にとり必要最小限の手入れをしつつ、逆に人の欲による干渉は堅く禁じ、その姿を古来より保っている。
それ故にこの地は、自然の森に宿る霊場の力と、人の信仰によって崇められる杜の持つ守護の力を高めており、霊力に鈍感な人にさえ何となく畏敬の念を抱かせるのだった。
その鳥居をくぐり、木々の枝葉で一年中薄暗い玉砂利の道を少し歩いて、突き当る場所まで来て見上げると、そこにはさらに杜の奥へと続く長い石段が伸びている事に気づかされる。
そして大人でも結構大変なその階段登りきると、やっとこの杜に祀られている神社の境内に到着できるのだ。
広い境内の入口では二頭の狛犬が座ってお出迎えしてくれる。
正面には城の大手門と見間違えるかのような山門が太いしめ縄ともに建ち、掛けられた白地の幕には、左右に、黒と見間違う濃い古代紫の菊紋と、神社の紋である菱に笹竜胆が染め抜かれている。
実はこの社殿は何度か造営し直されているが、最後の造営時は、領主の山城としての役割も担わされたため、武家の威風が建物のそこかしこに残っているのだ。
またこの神社は元々別神を祀っていたため、他にも印紋はあるが、現在は使われる事もなく、立て直された際に削られてからは、社の何処にも標されていない。
その山門の先には褪せた赤い本殿や三重之塔が立ち並ぶ。神気を浴び続けたそれらは、すでに古びた建物ではなく、悠久の中で座禅を続けるいきものだ。その塊は人の世を越えた森羅万象について
の問いと答えを黙したまま語る。
その姿は今や、大らかに苔むした巌として感じられるかもしれない。
そして自らの名前を繰り返し呼ばれる幼い女の子は、今その脇の社務所の裏に座っていた。
「さーくーらー?」
自分を探しているのはわかっていたが、桜は隠れた場所から出て行きはしなかった。
だって、母様は必ず見つけてくれるもん。
子供にとって、彼女は出来ない事などない存在だ。
いたずらだって絶対ばれちゃうし、隠した小学校のテストだって見つけちゃうんだから。
首から提げた両手の中の赤いお守りを握りながら、かくれんぼのつもりで息をひそめる桜だが、娘の遊び場を熟知している母親は、すぐにしゃがむ姿を発見した。
「桜、ここにいたの」
何度目かの呼びかけの後、近くから聞こえた母の声の方を見る。
そこには白の着物に緋の袴、典型的な巫女姿で困った表情の母がいた。そんな彼女へ照れた顔で笑いかけると、桜は社務所の裏の樹の下から飛び出して一目散に走り、母親へ抱きついた。
「もう、聞こえたらすぐ返事しなくちゃだめでしょ」
「うん、うん。わかってる」
平均女性に比べると少し背の高い自分の、腰のあたりに顔を擦り付けてうなずく愛らしい娘。その甘える様子に笑いかけながら、母親は娘のつややかなおかっぱ頭の黒髪を撫でて優しく叱る。
「桜はいつもそんな事言って。返事してくれないと帰っちゃうわよ」
母の言葉に桜は力をぎゅうっと込めてしがみ付き、真面目な顔を上げる。
「ごめんなさい母様。今度から必ず返事する」
母親は「しょうがないわね」と笑い、桜の頭をさらに撫でると「お願いよ」と言って許した。
◆ ◆ ◆
ここは、奥深い山の中にある、由緒ただしき神社の境内だ。
歴史は古く、今の正式な神社として造営されたのはは南北朝時代初期だが、古代から祀られていた神の時代を含めれば、どれほど昔からある霊場かを語れる人はいない。
昔はここの山林から木材を切り出して、丸太でいかだを組み河を下り、海の近くまで運んだらしい。
その頃は、幹線となる街道から枝分かれした別街道として、この山の中にも道が通り、国境の峠を越えて隣国との交流も盛んだったそうだ。
領主の雅な街づくりにより、宿場町周辺が奥京都と呼ばれた頃もあった。
しかし、現代は木材産業も海外からの輸入が大半を占めて寂れてしまい、高齢者の多い鄙びた消えかける山村の一つになってしまった。
そんな中にあっても、この神社は地元の人々から敬意をもって崇められており、同時にいまや何も無い村の、心の拠り所となる誇りでもあった。
しかし、幼い桜にとってそんな話はどうでもいい。
緑が溢れる山里には遊ぶ場所がいっぱいあったし、川の瀬で釣れる魚も美味しい。
春の山桜の散る際の吹雪や、朧月が映える段々の水田だって美しい。
夏の空に漂う沢山の蛍、陽の中で冷たくて気持ちの良いせせらぎ。
秋の燃えるような紅葉や、下のあぜ道から見上げると金色の流れの如く、棚田から滝の様に頭を垂れる稲穂。
何もかもが綺麗だし、冬だって寒いけど新雪が月の光できらきらする景色には見惚れてしまう。
そんな村には桜を大事にしてくれる家族や知り合いがいる。
神社には荒っぽく桜をあぐらの上に乗せて昔話をしてくれる、怒りんぼの大爺(曽祖父)がいる。
いつも穏やかで桜を肩車してくれる神主の祖父と、村の噂話を開けっ広げに桜に教えてくれ、最後になって「内緒だよ」と笑う祖母もいる。
そうそう、若禰宜の聡兄は大人しいけどちょっと頑固だ。
私が「聡兄」って言う度、「兄じゃなくて伯父」って言い直させる。
だけどいつも私の話を楽しそうに聞いてくれる。ただ近頃考え込んでいることが多いけど、やっぱり桜にとても優しい。
それからそれから、他の巫女の皆や村の人達も桜に気安くて親切だし。
そして今、桜の隣で手をつないで微笑む母様がいる。
桜は、ここにあるもので十分だったし、満足していた。
あらためて幸せなんて考える必要も、全然なかった。
神社の社務所から塀を裏に回って少し道を行くと、神主家族の生活する家がある。典型的な和風建築だが、さすがに江戸時代の様な家ではなく、昭和の後半に建て替えられた後も改装されて、アルミサッシが家の窓に嵌っていた。
◆ ◆ ◆
「何を言っておるんじゃっ!」
桜と母親が家の裏口から中へ入ろうとすると、怒声が響き渡った。
声からすると大爺らしかったが、短気な彼にしても、こんな大きな声を出すのは聞いたことがなかったので、桜は自分が怒られらた様に思わず首をすくめてしまった。
「そうでもしないと駄目になるんだよ!」
今度は聡兄の大声だ。彼はいつも落ち着いて話すので、こんな興奮した声を聞くのも初めてだった。
なんとなく不安になって、桜は母の巫女姿の袴をつかむ。
母は、そんな彼女に大丈夫よと笑いかけ、土間から上がってすぐの食堂の椅子に娘を座らせる。
そして和菓子とお茶と用意し、桜にも「ここで食べなさい」と渡す。
残りはお盆の上に盛りつけると、手に持ったまま廊下を通り、声がした居間へ扉を開けて入っていく。
「どうしたのお祖父さん、そんな大声だして。近所に聞こえるわよ。あら、聡兄さんも怖い顔しないで。まあまあ、話は私が聞いてあげるから、取りあえず二人とも座りなさいよ」
そういって落ち着いた口調で割り込む母の声と、「お前には関係ないんじゃ」だの、「楓は妹のくせに黙ってろ」だの、大爺と聡兄が母に反論する声が聞こえた。
「口論続けるにしてもこれ食べてからにしたら。腹が減っては戦はできないでしょ」
再び母の言葉が聞こえると、ぶつぶつ文句を言う声と共に居間のドアが閉まり、やがて静かになった。 どうも、母の仲裁に負けて、和菓子とお茶を食べ出したらしい。
やっぱり母様はすごいよね、と桜は母が誇らしい。
あの怒りんぼの大爺と頑固な聡兄の喧嘩を収めるなんて。
私なんて大爺のかみなりが落ちたら、我慢してても涙がでちゃうのに。
でも珍しいこともあるなあ。
聡兄は、大爺をあんなに怒らせるほど変な事を言うような不良じゃないのに。むしろ大爺の自慢の孫だもん。神主のお祖父さんの跡継ぎだって、村の皆からも若禰宜さんって呼ばれて頼られているぐらいなんだから。
でも聡兄が人にほめられると、大爺は「まだまだ未熟モンじゃ」と言う。内心はとっても嬉しいんだよね。
だって赤ちゃんの時から何度もあぐらの上に座って、大爺を下から見ててきた私には、大爺が照れると耳の下が赤くなるのを知ってるんだから。
さては、聡兄も大爺自慢の大盆栽を壊したかな?それで焦って下手な言い訳して大爺を逆上させたとか?
私が村の展覧会で特等だった松の鉢を落とした時は、空から突然石が降ってきて鉢を割ったととぼけたんだけど、「そうか、では桜のおでこにも石を降らしてやる」だったもんね。
大爺のげんこつ、あれは痛かったよ、目から火花が飛んだもん。
ようやくいつもの落ち着きが家に戻ってきた事に安心して、桜は和菓子を頬張り、喉につかえない様両手でお茶を飲みながら、あとで聡兄をなぐさめに行って、盆栽壊し仲間としての友情を育てることにした。
◆ ◆ ◆
「それで、いったい何なの?」
お茶をすすりながら、桜の曽祖父にあたり、楓には祖父の大爺と、楓の兄の聡に、ゆっくりと問いかける楓。
家族で話し合いをすると、なぜか楓が仕切る事になるのだが、皆それをいぶかしく思いつつ、結果として他の者がやるより良い話し合いや結果になる。
今では大爺や聡だけでなく、楓の父母も何時の間にかその役割に慣れているのだった。
「聡の馬鹿が、途方も無い事をしでかすつもりなんじゃ」
まだ怒りが収まらないのか、大爺は厳しい調子で聡を責める。
「馬鹿じゃない」
聡も興奮が収まらないのか、売り言葉に買い言葉になっている。
「お祖父さん、言い方を変えてね」
楓は、一息入れた雰囲気を壊さない様に、祖父を穏やかにたしなめると、兄に対しては、その考えを|披露するように勧める。
「それで、兄さん、何を考えているの?」
「……この村をなんとか活性化できないかと思ってさ」
聡も、楓の冷静さに、自分も普段の感情ではなかったと気づいて、深呼吸して気持ちを鎮めると、大爺に言おうとする前に怒鳴られた件について説明を始めた。
「活性化?」
楓はいきなり村の役場の、いや今は市の支所の人が言うような表現を聞いて面食らう。
「ああ、ここは良い村だ。俺もここで育ってきたから愛着も深い。だけど、産業も無くて、若い奴は仕事を求めて街に去ってしまう。俺の同級生もほとんど居なくなった。今じゃ、正月とお盆に以外は、家族の葬式に帰ってくるぐらいさ」
聡は寂しそうに笑う。
大爺はまだ過疎化がここまで酷くない頃を知っており、兄の話に思うこともあるらしく、黙って聞いていた。
「このままだとお年寄りばかりになって、俺が神主を継ぐ頃には限界集落を超えて、廃村状態になるかもしれない。 そんなのは我慢できないんだ。皆の故郷を残したいんだよ」
聡は訥々と自分の思いを楓に語る。
楓も子供や自分と同じ年頃の村人が少ない事はもちろん知っている。女の子でもこの村で結婚しない限りは、一人暮らしを支える仕事が無い。
だが、そもそも夫になる男の仕事が少ないのだから、この村に嫁ぐ事が出来ないし、当然子供も生まれない。
結局、男女とも街へ出て、生活を営むことになり、この村は年老いた両親が残される形になるのだ。そんな悪循環の結果が、現在の過疎化だった。
楓は、大人しく神職の修行に励む兄がこんな事を考えていたのかと驚いたが、さすが地域の信徒をまとめる次代の神主と見直しもした。
「そんな事は役所の仕事だ」
だが大爺は兄の考えに渋い顔だ。そんな彼に、孫の聡は確かめるように問う。その顔はすでに普段の聡だった。
「お祖父さんが神主の時から、なんだかんだやってきたけど、結局過疎化は止まらなかったし、市町村合併してからは、どうしようもないじゃないか。
村の役場は市役所の出先に格下げされて、道路の補修だって他の交通量の多い地域が優先だって引き伸ばされる。小中学校も児童が少ないからって統合した。おかげで子供の桜達は片道一時間以上もかけて通学用バスで通うはめになった。」
「だからと言って、神降ろしなどと」
大爺も聡の心情が分かったのか、さっきの様に怒鳴ることはしないが表情は、苦りきったままだ。
「神降ろし?」
楓は巫女修行の時代に聞いた言葉が、なぜ今ここで出てくるのか不思議に思い問い返す。
「ああ、行政の力で出来る事は手を尽くした感じだし、今は物が溢れかえって、物質的満足は飽和しているから、精神的な充実こそが求められている。だから、癒しとか、パワースポットなんて言葉も流行っているわけさ」
楓は、聡が言いたい事がなんとなく分かってきた。そしてその問題点も。しかし、口を挟むことはせず、最後まで兄の話を聞く。
「この神社はパワースポットとしては無名だけど古代から連綿と続く由緒ある霊場だ。ここを中心にして村おこしをすれば、きっと観光客が集まってくる」
「それと 神降ろしとはどう繋がるの?」
楓は自分の不安が的中した事に戦慄を感じる。
「ただの癒しの場所なら全国どこでもあるし、有名な場所に勝てやしない。だから、本当に神通力が顕現する場所として、神降ろしを行えばきっと噂を聞いて、全国から人が集まってくる。
そうすれば、それで商売できるようになって、みんなこの村で暮らせる」
考え方としては昔からあるものだ。
そもそも門前町というのは大きなお寺や神社の前にできた、信徒目当ての商売人の町なのだから。逆に言えばとっくの昔に確立し手垢の付いた地域振興策といえるだろう。
だが問題は、実際に神降ろしなど、出来る方法がわからない事だ。いや、術式は一部が欠損しながらも古文書に記されている。しかし、成功率は書かれていない。過去、成功した記録もあるが、極めて少ない。
またこの場合の神降ろしとは、いわゆる恐山のイタコの様な、術者へ神を憑依させる術ではなく、本物を一部なりとも降臨させる召喚術だ。
世間では、叶うかどうかわからないが、どうにも困ってイチかバチかで願う行為。それが一般で言われる「神頼み」だ。神を本当に降臨させて願い奉るのとは話が違う。
例えば、強い霊力のある術師が祈祷する事で、間接的に神に請い、魔法効果を発揮する事はそれなりに可能かもしれない。
だがそもそも人々の持つ全ての願いを叶える事など不可能だ。神は人のために在る便利屋ではない。
大きな願いには、願い以上の対価を求められる事もある。
また神の内なる部分を全て忖度する事など出来るはずもない。例えば、気まぐれな神ならばスポーツでの怪我を治した翌日、同じ人が交通事故で死にかけても助けないかもしれない。
そして、神へ魔法による請願代行などという無茶な祈祷方法では、術師がすぐに精神、肉体の両面で過労死するだろう。
幾らなんでも、そんな不確実な事を出来ると宣伝したあげく失敗したら、この神社の信用や、村人の信仰心は致命的な打撃をうける。
結局、世間の理解と同じ「神頼み」こそが、人と人ならざる存在の程よい距離なのだと、神に近い巫女であるからこそ、楓はそう思っている。
「聡兄さんは、神降ろしができるの?」
そこで楓は、最も肝心な部分を質問する。
聡は正直に「出来ない」と答えた。
「では、話にもならんじゃろうが」
大爺は、息を吐くと、話はこれで終わりだという態度で冷めてしまったお茶を飲み干す。だが、聡は諦めるつもりはないようだ。大爺と楓を見渡すと、ゆっくりと種を明かす。
「先月、冬の魔術師のバザールで術者の会議があった。そこで、召喚術について研究している高名な魔術師にあったんだ」
「お前、まさか」
大爺は思わず立ち上がって聡を睨む。聡も立ち上がり、引かずに言葉を連ねる。
「ああ、来てもらうつもりだ。もちろん直ぐに何が出来るわけじゃない。その魔術師も事前調査に来るだけだって言ってた。」
楓は兄の言葉に口を挟めない。彼の声に悲壮なほどの決意があったからだ。
「だけど、始めないと。この村の将来は変わらないんだ。お祖父さんの代は良かった。今の親父の代も保つかもしれない。
だけど、俺の代にはきっと駄目になってしまう。だから、今からでもやるだけやらしてくれ。故郷や信徒の皆の未来のためだ。」
声を荒げるわけではないが、そこには故郷の未来の神主としての覚悟が現れていた。睨みあう二人だったが、やがて最初に目をそらしたのは大爺の方だった。
彼は背を向けると出口へと歩き出し、扉の所で立ち止まる。
「現在の神主であるお前の父にも話せ」
そう言って肩を少し落としながら居間を出て行く。そして最後にもう一度呟いた。
「馬鹿モンが」
◆ ◆ ◆
大爺が去った部屋に二人で残り、楓は兄に質問した。
「兄さん、神降ろしの危険も知ってるでしょ?」
「ああ、失敗すれば術者は贄となって死ぬ」
それは召喚術につきもののリスクだ。先代神主の大爺もそれがわかっているからこそ大反対するのだ。
「そう」
兄の応えに、楓はそれ以上何も言えなくなる。正直馬鹿げた考えだと思うし、もっと地道な方法があるのではとも言いたい。
だけど、村の内側で子供の頃からその衰退を見てきた楓には、聡の気持ちも痛いほどわかった。
若禰宜と呼ばれる楓の兄は、妹の痛ましいものをみる眼差しを感じていた。確かに聡は苦悩していた。今も、村の人口は減っている。都会に惹かれて、望んで去っていくなら仕方が無い。しかし、街に行った友人達の多くは、口を揃えて言うのだ。
「村が好きだ」と。「生活ができれば、一生あそこで暮らしたかった」と。
それでも若い彼らは、新しい環境に馴染むことができるだろう。
聡のとっての村は、行政の単位ではない。
自分が愛する故郷、そこに住む人々や自然も含めた意識の上の言葉だ。
行政的に吸収合併という形になったこの村は、すでに地図上では単独の村ではなく、村の名前も市の下の住所になってしまった。行政単位としての村は、いくつかの市町村の集まりによる新市の一部になったのだ。
そして広域化した行政の中では、人口が減少し、山間の一部地域になってしまったこの旧村へ公共投資が積極的に行われる事はもはやないだろう。
むしろ、民間企業が撤退した代わりに村が運営補助していた支援バスは、市の赤字財政改善の名目で廃止された。広域行政のメリットを求める中で、山の中で開発が難しいこの地域へ将来も特別な目が注がれる事は難しい。
そして旧村の活気は、人が居なくなった家屋の如く徐々に朽ち果て、山の雑草に埋もれていくだけだ。
それは聡にとって故郷が廃村になり、ゆるやかに衰弱死する事と同じだ。もし人が住める状態ではなくなった場合、あの人の良いお年寄りの村人達が、住み慣れた土地から去って、幸せになれるのだろうか。
そんな保証はどこにも無い。
しかし、聡は、故郷の過疎化を憂うという建前以上に、もっと個人的な意味で村おこしをしたかった。
彼は生まれた時からここで神職の修行をし、神主の座を継いで、信徒と共に神を祀って生きていく定めを受け入れていた。
しかし、彼にも違う夢はあり、友人の都会での生活を聞けば、戻りたいという彼らの話が、実は新たな土地で苦心しながらも成し遂げた暮らしへの、密かな自負の裏返しだと感じる事もあった。
そして自分もこんな時の止まったような辛気臭い場所から飛び出して、自分の夢だけを追求したくて悩んだ日々だってあったのだ。
しかし、家族や村人の期待と、穏やかな時を経て、ようやくその運命を当たり前に受け入れる事が出来る様になったというのに。
ここで村が滅べば、その信仰の場所としての神社はどうなるのか。
単純な意味では、祀る神には全国に信仰者がいるのだから、何も問題は無い。引っ越した村人も同じ神が祀られる、新住所近くの神社に行けばいい。
だが、この霊場に縛られる神社の神主はどうか。
ここは由緒正しき神社であり、そんなに簡単に社を廃する事など不可能だ。ならば自分の足元が枯死していく事を、その地域の信徒をまとめる長は座視するしかないのか。
打ち捨てられた故郷の人も来ない神社に残る神主は、まるで死者の村の墓守のようではないか。祀る神との繋がりは残るが、この世との繋がりは絶無になる。
遠くからたまに来るお参りの生者だけが、せめてもの生きている事の証というわけか。
夢と引き換えに選んだ自らの一生が、そんな終わりのために費やされる事には絶えられない。
聡は、自分が長の代に故郷の最期を見取る事に、自分の未来を重ねる。
それは背後から目に見えぬ何かに、今際の際で「お前の生は無駄だった」と、残酷に宣告される恐怖さえ伴って、彼の心中を凍えさせるのだ。
「まあ、直ぐにどうって話じゃないさ。とにかく桜が大好きな、この故郷を守るためにがんばるよ」
聡は、あの笑顔を思い浮かべるだけで暖かい気持ちになる、可愛い姪の名前をあげて、気分を入れ替えるように楓に笑いかける。
「そうね、そんな簡単に出来るわけないし。良いアイデアが浮かんだら私も相談するわ」
楓も兄のそんな心に気づき、わざとらしい話題転換に乗る事にした。
「頼むよ。そうだ。楓が巫女さんの服で、喫茶店をするのなんてどうかな?都会では他の職業の服を着て店で働くのが流行ってるらしいぞ。街にいる漫画好きな友達が電話で話してたよ」
聡の情報にさらりと楓は反応する。
「ああ、コスプレ喫茶ね。でもそれならメイドの方がいいかもよ」
「コスプレ?」
聡は真面目な上修行三昧なだけあって、そっち側には興味が無いので、突然でた楓の専門用語を鸚鵡返しで尋ねる。
楓はしまったと思いつつ、下手に興味を持ち出すと根気良く調べる兄に、気にしないでと、へらへらした顔でとぼけることにした。
「ああ、なんでもないから。それより本物の巫女の服で店に出たら、村のお年寄り達に罰が当たるって叱られちゃうわよ」
「ああ。お祖父さんなら少ない髪で怒髪天を衝く勢いのまま店内で大暴れするな」
「だけど母さんは、案外ダイエットの為に自分も働くと言い出すかもしれないわよ」
母が張り切って昔の巫女装束を箪笥から引っ張り出す姿とそれを必死止める父の姿が思い浮かび、楓は朗らかに笑う。
「それと桜は絶対お手伝いするって譲らないでしょうね」
「腕白坊主顔負けな元気者のくせに、おままごととか好きだしな」
「芯はとっても女の子なんだから、腕白坊主なんて言ったら聡伯父さんは口も聞いてもらえなくなるわよ」
「それは嫌だな。そうそう、あと親父は反対しながら、結局楓が心配で毎日様子を見に来そうだ」
兄妹はそうなった時の家族の状況をあれこれ想像し目を合わせると、こらえ切れず声を上げて本当に笑い出す。
二人はこの神社の跡継ぎと巫女として幼い頃から一緒に厳しい修行をしてきたのだ。考えは違ってもその仲に溝が出来る事などない。
「まあ、聡兄さんの気持ちはわかったから、あんまり根つめたりしないでね。自分でも言ったように、直ぐなんとかなるもんじゃないんだから」
楓は、雰囲気が軽くなった所で兄に無茶はしないでと本心から願った。聡も、妹が自分を心から労わる気持ちがわかって微笑む。
「ありがとう、楓。俺もそんな事はわかっているのさ。それでも何か希望がほしい」
そこまで言うと彼は俯く。
「そうしないと……」
「兄さん?」
彼は最後まで語らなかった。ただ顔を上げると、楓を見ずに居間を出ていった。
ここでは村=ごく身近な故郷のイメージで語っております。
応援ありがとうです。