第22話 海水浴
「美雨さん、何かあったのかな」
里緒は、九時を過ぎた手首の時計の針を見ながら、マリーナ側の少し高い位置にある堤防道路へ視線を送っている。
「もうすぐ来るだろ」
龍真は落ち着いた様子で、柵に囲まれたヨットハーバーの整備スペース内に上がった、ヨットのキールを洗っているクルーを見ていた。その様子を三人で眺めながら、里緒が再度俺に確認してきた。
「スズちゃん、ちゃんと時間教えたんでしょうね」
「当たり前だ」
俺はぬれぎぬを着せられてはたまらんので、即効で返事をする。店も今日は休みだし、彼女の車なら十分もかからないはずだ。
「青色のが美雨さんだから」と説明すると、里緒も本気で言ったわけではないらしく、からかう様に笑う。
「そうね、スズちゃんが美雨さんの水着を見逃すわけないもんね」
「お前、自分の水着に魅力ない事に自覚あるんだ。えらいぞ」
「うるさいっ」
すかさず言い合う俺達を見ながら、龍真はいつもの光景だと止めもしなかった。
夏休みに入った俺達は、美雨を誘って海水浴に行こうと、待ち合わせ場所である、海浜公園の駐車場の奥に設置されたあずまやのベンチに集合して座っていた。
このあたりは、リゾート地のイメージから南国風の建物や椰子の木の街路などでデザインされており、マリーナの施設内には、イタリア料理店やフランスのお菓子を提供するカフェなども営業している。
ここに係留している船の持主は、県外在住者が多く、たまの休みにやってきては、セイルを広げて沖合いを帆走していた。
しかしここから堤防道路を少し歩くと、海浜公園を過ぎたあたりの海側には松林が広がる。そして林の切れ目からは、昔ながらの屋台やよしずに囲まれた休憩所が並ぶ、ちょっと懐かしい海水浴場が広がっている事がわかるのだ。
そこは、地元の人たちが集まってくる海水浴場で、たいした施設もなかったが、のんびりした風景や砂の白さ、澄んだ海の色は、一度来た海好きなら、なんとなくまた来たくなる味わいも持っていた。
◆ ◆ ◆
「あ、来た!」
里緒が声を上げる先には、紺碧の三千CC四ドアセダンが、タイヤから煙を吹きそうな勢いで、堤防道路から海浜公園の駐車場へと下ってくる様子が見えた。
車はそのままの勢いで駐車スペースとして区切られた白線を無視し、駐車してある他の車をスラローム用のコーンの如く避けつつ、ぐんぐん対角線上に俺達へと迫ってくる。
この時間はまだ止まっている車が少ないからいいが、昼なら迷惑行為そのものだ。
俺が冷や汗をかき、里緒が思わず龍真へしがみつきかけたタイミングで、車はブレーキとタイヤに悲鳴を上げさせると、軽くドリフトをかましつつ、あずまやに一番近い駐車スペースへ一発駐車に成功した。
ゴムの焦げるような匂いをかぎながら、俺は自分の使い魔に挨拶する。
「美雨さん、おはよう」
「おはようございます。涼平さん、里緒さん、龍真さん」
車の窓を開けた美雨は、何もなかった様ににこやかに挨拶を返した。美雨は、皆の前では俺の事を涼平さんと呼ぶ。
「いつもの事だけど、アグレッシブな運転だね」
そう言う俺に、龍真と里緒はこそこそと話かけてくる。
「おい、涼平、いつもこうなのか?」
「美雨さんって元ヤンの人?」
二人とも店でのんびり接客している店長の美雨と、いまの暴走車の運転手が頭の中で一致しないらしい。
「知りたかったら、店長に同乗して車で材料調達に行くんだな」
俺の台詞に、幼馴染達は揃えたかの動きで首を横にふる。
「すいません、遅れてしまって」
申し訳なさそうにあやまる美雨だったが、二人ともさっきの印象が強すぎて、そんな事はどうでもいいらしい。立ち直った里緒は、少しテンションが上がった様子で話かけていた。
「美雨さんてば、運転激しすぎっ。 まるでレースしてるみたいだったよ」
そんな里緒を見ながら、美雨はふんわりと答える。
「一応、国内ならA級も持ってますし、草レースに出た事もあるんですよー」
「すごいね。美雨さんってどう見てもお嬢様なのに」
里緒は、美雨の意外な一面にすっかり興味深々で、話込んでしまいそうな勢いだ。
そこでいつもまでもここで座っていたくない俺は、女性陣に声を掛けた。
「そろそろ、海水浴場へいかねえ?」
すると里緒も今日の目的を思い出したのか、張り切って声をあげた。
「そうだった! 美雨さん、リョウちゃん、さっそく行きましょう!」
あれ?俺の名前が無いんですけど。
「スズちゃんは、これもって付いて来て」
里緒は、足元においてあった、くそ重たいクーラーボックスを指差す。
「あー。そうだったな」
タオルなどビーチバッグに入れた物以外で、それぞれが持ち寄ったジュース類を、集合時、龍真が用意したこの箱に氷と一緒に詰め込んである。そして誰が運ぶかを三人でさっき決めたのだ。
「家来なんだから、ほんとはスズちゃんに決まっていたのに、私やリョウちゃんも勝負に参加したんだから、文句ないでしょ」
龍真が持ってくれると言ったんだが、里緒は俺に持てと言う。俺は公平に決めようと主張して、最後は里緒を押し切ったと言うのに。
……ジャンケン弱すぎだろ、俺。
まだ午前中だというのに、砂浜はそれなりに混んでいた。
家族連れや、カップル、友達のグループなど、いろんな組み合わせがいて、俺達もそんな海水浴客の一部なのだった。
砂浜の上にカラフルなビニールシートを敷き、その傍に休憩所からレンタルした大振りなパラソルを立てると、すぐに準備は完了だ。休憩所の中には更衣室もあるが、俺達は中に水着着用で来ているので、
着替える必要はない。
帰りも浜のシャワー室で軽く流したあとは美雨さんの車で店に戻って、そこでゆっくりシャワーを浴びるつもりだった。
海浜公園の駐車場まで歩く内に水着も乾いてしまうので地元民の夏は大抵こんな感じだったし、この気楽さが楽しいのだった。
しかし、今回俺は到着と同時にクーラーボックスをシートに置くと、ぐったりと膝を抱かえていた。
「スズちゃん、体力ないねー」
「おま、それ酷くねえ。ここまで結構距離あったぞ」
わかっているくせに突っ込む里緒に対し、今の俺は返しもできない状態だ。
「リョウちゃんなら平気だよ」
「わかってたんなら、龍真に持たせろよ」
容赦ない彼女の言葉に俺は音をあげかける。
「公平な勝負でしょ」
「なら、里緒が負けてたら、持ったんだろうな」
そうだ、その可能性だってあったはずだと思い付く。そんな俺にとぼけた表情で里緒はいかにもわがまま姫らしい回答をする。
「えーとリョウちゃんが助けてくれるか、家来が引き受けてくれるはず」
「……おまえなあ」
ごめんごめんと言う顔で、里緒はボックスを開ける。
「ごほうび」
そう言って炭酸を取り出すと俺に手渡す。
「スズちゃんにしてはよくがんばった」
こんなわがまま姫に、もはや何もいう気になれず、俺は蓋を開けて喉を潤す事にした。
とりあえず休憩したい俺は、龍真と里緒に、先に泳いで来いと勧める。
「情けないなあ」
そう言いつつも、まんざらでもない里緒は、龍真を誘って、上着の薄手のヨットパーカと膝上スカートを脱いで水着になる。龍真と俺は普通にポロシャツ。下は水着にサンダルだ。
今日の里緒は、赤に白ドットのセパレート、胸元に白いリボンが付いており、腰には同じドットのミニスカートを巻いていた。
ポニーテイルはバンドでまとめてあったが、水着にあわせて、赤と白のエナメル系の花飾りがついていた。
合唱部にくせに、運動部に近いぐらいの体に弛んだ様子はなく、ウエストから腰や腿、さらにふくらはぎまでのラインは、若い敏捷な鹿を連想させる。
胸もことさら大きくはないが、十分に胸の谷間を形作り魅力的だった。早速、彼女は防水の日焼け止めクリームを体に塗っている。
一方龍真はごく普通の、膝の少し下あたりまであるサーフトランクスだ。黒からグレーのグラデーションでサイドに波をモチーフにした白ラインが入っている。
さすが、鍛えているだけあって、厚い胸板や太い二の腕は、下手なライフセーバーよりも立派ではないだろうか。彼は屈伸運動等を始めると、里緒にも同じように準備体操をさせている。
「ま、とにかく行ってこい」
里緒は炭酸を飲みながら手を振る俺に目をやって、次に美雨さんを見る。広めの鍔の帽子と南国風柄の入ったの麻のロングワンピースの姿で日傘をたたみ、シートが影になる部分に座っている。
「私も日焼け止めを塗ってから行きますので、気にしないでください」
美雨は里緒に微笑んで、そう言いつつバッグから日焼け防止オイルを取り出す。
里緒はそれを見て見て頷いた。
「じゃあ、行って来るねっ。リョウちゃんこっちだよ!」
笑いながら龍真の手を引いて砂浜を海に向かって駆出していく。
◆ ◆ ◆
俺と美雨は、すこし離れた水際で水を掛けてふざけあう二人をぼーっと見ていた。
美雨は、さっきのオイルを塗らずにもてあそんでいる。何も語らないが、こっちへ意識を向けている事はわかった。
あー、絶対心の中で笑っているよ、美雨さん。
「何か言いたい事でも?」
なんの話かわかっていたけど、俺は沈黙に耐えられなくてこちらから尋ねてしまった。
「いえ、夏の気温が高いのは苦手ですけど、やっぱり海や川が近いと耐えられますね」
「水辺が近いと大丈夫なんだよなあ」
「そうですね、魔力としては泉から貰う方が純度は高いですけど、お願いすれば分けてもらえますし、あとは水属性としての気分の問題ですね」
俺が、自分の思い過ごしかと安心したところで、我が師匠は本題にはいった。
「ところで、今日も里緒さんって可愛いですよね」
「そうかな?」
美雨の方が美人だと言うと、「ありがとうございます」と素直にお礼を言われた。
確かに美人は下手に謙遜しないほうが、好感もてるよなあ。
ただ美雨はその件はさらりと流し、顔だけこちらを向けて話を続ける。
「里緒さんが持ってきた炭酸って、主のお気に入りですよね」
「そうだな」
俺は、美雨と向かいあわないようにしながら答える。正確には、龍真と俺が両方好きな味だったはずだ。まあ正直、龍真だけが好きな青汁系ジュースじゃなくて良かった。
「それから」
美雨は、全て知ってますよと言わんばかりの聖母の顔で微笑む。
「里緒さんが上着を脱いだ瞬間、目をそらした純情な主は好きですよ」
「いや、べつに興味ないし」
美雨さんはほんとどこ見てるんだよ、まったく。
彼女は俺が目を合わせないので、諦めたようにため息をつく。
「主も可愛いですね」
「べつに可愛くないし」
俺はちょっと意地になっている。
うん、美雨さんだからね。意地になって甘えているんだよ。
「……そうですか」
美雨は「これ以上はからかいません」と声の響きで俺に教えると、そのまま口を閉じた。俺は気を使ってくれた美雨にちょっとすまない気がして、話題を変えながら話だす。
「まあ、最後の夏休みだしさ」
「主……」
「すこしは思い出づくりもいいかなっと」
美雨は、それで全部わかってくれた。
だから、ここからは事務的な口調で使い魔に確認する事にした。
「準備は?」
「はい、成功すれば二学期初日には、主は夏休み中に急遽転校した事になっています」
美雨も感情を交えず、予定される未来について事実だけを報告してくれる。
うん、ありがとう美雨さん。
「あとは、八月末までに計画を実行するだけか。十年近く懸けて準備してきた事だから、心の覚悟も済んでいたはずだけど、いざその時期が近づくとなかなかそうもいかないんもんだよな」
俺の独白に静かに相槌をうってくれる使い魔。
「それが普通だと思いますよ」
俺は美雨に感謝しつつ、ちょっとした思い付きで尋ねてみる。
「美雨さんも、店や屋敷のお世話してもらう必要があるし、なんならここに残……」
その瞬間、熱気に溢れる夏の海岸が凍りついた。いや、俺の周辺だけ気温が氷点下になった様に感じた。実際、前髪がパキパキ固まったのは幻とは思えない。
それだけじゃない。
周りの波や、遊んでいる子供達の歓声、全ての音が聞こえなくなった。
世界がいきなり沈黙してしまった。
「えーと、美雨さん?」
隣を見るのがさっきとは全然違う理由で嫌だけど、このままでは唯で済みそうもないので、無理やり美雨の方を向く。
「あ・る・じ?」
彼女はささやくように俺を呼ぶと、とてもとてもゆっくりと微笑んで、深海の様な瞳でじいっと俺の顔を見つめてくる。
その黝い瞳は、次に答える言葉を十分に吟味する様、俺に無言で警告していた。
「すいません、冗談です」
とりあえず、即行で土下座して謝ることにした俺。周りに夏の暑さと音が戻ってきている事に気づいて、冷や汗だかなんだかわからない汗をどっと体中から吹きだしたのだった。
こえええええ、俺の使い魔ってマジ怖えええええ。