第18話 魔術師と邪な実験
この国はいにしえから精霊に好かれるのか、それとも長年に渡り隠された霊的な場所を多く建設した成果か、魔力が集まり易い。この街も産業革命以前から、錬金術の街として栄えてきた。
それは輝かしき海洋国家として植民地を世界中に持ち、女王を頂く連邦時代の御世の遙か昔から、連綿と続く魔術師の努力と叡智の賜物である。
今もその業績を受け継ごうと切磋琢磨する者達が集い続ける知識の殿堂として、この街の評価は揺るいでいない。
しかし、確固とした全てのものに影ができる如く、知識にも陰の様な存在は生じてしまう。
それは、道を極めんとした苦悩による狂気であったり、欲望に囚われた醜悪な行動であったり、形は様々ながら、歪んだ心の澱となって積み重なっていく。
そんな妄執の徒に、誰でも堕ちる可能性を秘めているのが魔術師の業ともいえた。
◆ ◆ ◆
男が座っている。
容姿は五十代後半と思えたが、近づいてみるとその顔に刻まれた皺の深さと多さから、七十歳以上だったかと考え直すかもしれない。
荒い彫刻刀で無理やり削ったさまは、この男の魔術師としての遍歴が過酷であったと語っている。
右腕は義手になっているが、これは非常に魔法防御能力の高い魔法具であり、武器や攻撃魔法による危険から彼を守っている。この魔法具の価値は小さな国家の十年分の予算を超えるだろう。
それほどの成功を収めたはずのその眼には、それを誇る光の代わりに地底の奥で揺らめく鬼火が宿っており、よく見れば、彼の性格が常人の規範をすでに逸脱している事に気付くだろう。
涼平が襲われたカマイタチの主人など、この男に比べれば赤ん坊と変わらない。
男は自らの人生で、様々な魔法実験を繰り返した。
その中には、社会的はもちろん、魔術師として共通に禁止されている内容も多かった。男は最初、彼の師匠の助手として恐れおののきながら、おぞましい実験を手伝っていた。
こんなにも師匠が壊れているとは、師弟契約をした当時は気づきもしなかった。
ベッドで目を閉じると、生贄達の悲鳴や絶叫が耳に甦り、朝まで震えながら後悔して過ごした。
しかし回数を重ねる内、通常の魔術師では触れることも出来ぬ景色を垣間見る事で、心の柔らかい部分は磨耗し尽くし、実験結果への歓喜が抵抗感を上まわっていった。
そして師匠がある召喚実験に失敗し、代償として師の体が一瞬に腐り落ちてからは、男自身が望んで、禁忌を犯す暗い喜びとともに師匠以上の残酷な呪法や実験に手を染めていった。
部屋の扉を控えめにノックする音が聞こえる。
男はそれを無視して、この建物周辺の結界強度を確認する事に集中している。
単なる侵入者や敵対する魔術師の使い魔程度なら、庭の結界範囲に入った時点で魔法の罠に掛かり命はない。
なんとか魔術師本人が建物に押し入ったとしても、より密度の高い罠と命を持たぬ魔法兵の刃にかかっては、二階へ上がる間もなく生きて帰れはしない。
彼は、禁忌の魔法実験の成果を秘密情報として提供したり、あらたな魔法具の作成に反映させる事で、大きな評価と莫大な財産を魔術師の間で築いている。
その高い名声を表立って非難する魔術師は誰もいなかった。
しかし、その知識を得るための所業を薄々知る者からは毛嫌いされており、同じ類の裏家業を持つ魔術師と敵対する事も少なくなかった。
男は、自分の攻撃魔法の能力については人並みと割り切り、その分を防御、結界といった盾の魔法へ集中した。
治癒の能力も高めたかったが癒しの心から遠い彼の性格は、その種の精霊に好かれるはずもなく、魔法回復薬による治癒を中心とするしか仕方がなかった。
「だが、傷を負わなければ、回復など不要だ」
彼は独白すると、自らが纏う高い魔法防壁を付与された衣服、装飾品に働く結界や加護の魔法効果が、常時発動しているかを再確認する。
その上で、手に持った魔術書の呪文を詠唱し、身体強化、防毒、麻痺無効などの強化系魔法を継続。
さらに魔力探知や存在欺瞞など、危険をいち早く察知し、居場所を欺く魔法を二重、三重に発動する事も欠かさない。
この異常とも言える魔法防御への拘りが、彼の実験継続への狂気と敵対者に対する恐怖心を如実に表していた。
ノックの音がゆっくりと、だが、止むことなく繰り返される。男は、ようやく扉に向かって声をかけた。
「なんだ」
しかし、扉を開いて室内に入る者はいない。この部屋に入れるのは魔法を掛けた男だけだからだ。それ以外の誰かが足を踏み入れれば、たちまち腐り堕ちてしまうだろう。
「用意が整ったとの事です」
怯えた弟子の一人からの報告を聞くと、彼はゆっくり答えた。
「直ぐ行く」
男は、今夜試される邪な術式へ費やした準備期間を思い浮かべ、成功への自信と、その成果への期待に顔が笑うのを止められなかった。
その歪んだ表情はもはや人ではなく、犠牲者の血を求める邪悪な何かに似ていた。