第3話 約束
なんという失態をしてくれたんだ。
正直、僕はそう思った。
「風俗堕ち」
名前だけの名刺が段ボールの隙間から見えたときは、あまり気にしていなかったのに、彼女のうっかり発言とともにそれは現実味を帯びた。
ユイという得体の知れない生き物だったはずが、ユイという女性がそこに現れてしまった。
僕は深く息を吐いた。なぜか彼女の顔を見たいと思えず、視線を逸らした。
「ねぇ」
逸らした視線に割り込むように、ユイが吐息が掛かりそうなほど、僕の顔との距離を詰めてきた。
「先生、そのため息は何? 軽蔑?」
彼女の、人との距離感はバグってると思った。
「違う、そんなことは思ってない」
「じゃあ何?ちゃんと言って」
――じゃあ何?ちゃんと言って。
この言葉と彼女の仕草に、僕は不覚にも、とうに忘れていた胸がキュッとなる感覚が呼び起されてしまった。
「あ、うん。なんていうか、キミを知ってしまった事に対してだよ。――決して……」
言い淀んだ。僕なりの配慮のつもり。
「決して何? それとユイ! キミじゃない!」
「偽名でしょ?」
「いいの! 次、キミって言ったら蹴る」
「……分かったよ。 決して職業をバカにしたわけじゃないよ、ユイ。勘違いさせたなら謝るよ」
「いいよ、先生。許したげる」
ユイは笑っていた。
まるで恋人同士の痴話喧嘩。
彼女の距離感のバグり方と相手との心の距離の詰め方、掴み方。
正直、上手いな。と思った。
それと同時に、僕の生活を侵食する異物感もやっぱり感じた。
何となく感じてしまった高揚感と、少しの心地良さは、まるで麻薬だ。
やっぱり彼女には早々に出て行ってもらうべきだ。
そう僕の心が囁いていた。
「……先生はお腹、減ってない?」
沈黙を破ったのはユイだった。
「あー、うん、減ってる」
「じゃあ買い物いこ。冷蔵庫、終わってるし」
「今から?」
「今から。こういうのは勢い」
僕の返事を待たずに、ユイは財布らしきものを探すふりをして、すぐに諦めた。
「お金、ないけど」
困ったような笑顔を僕に向ける。
「知ってる」
「先生、ある?」
「あるけど……」
「じゃ、決まり。一緒にいこ」
決まり、ってなんだ。
気づけば僕は財布を掴んで立ち上がっていた。
◇◇◇
夜のスーパーは思ったより混んでいた。
カゴを持つユイは、やけに楽しそうだった。
「ねえ、先生。卵買お。あと味噌汁の素。あ、あと、お肉。お肉あると元気出る」
「元気出る理論が雑だな」
「雑でも元気は出るよ」
彼女は値段をちゃんと見ていた。
安いものを選び、迷い、戻し、また選ぶ。
風俗堕ち、なんて軽い言葉の裏に、ちゃんと生活があったのだと気づく。
その手の世界の子は、こんな感覚はないと勝手に決めつけていた。
でも、目の前には等身大の普通の女性がそこにいることに、僕はちょっと反省した。
「先生、ネギ刻める?」
「あぁ、できるよ」
「ほんと?」
「一応、一人暮らししてる大人だからね」
「頼りになるじゃん」
その一言に、妙に胸がくすぐったくなった。
――なんなんだ、この感覚は。
◇◇◇
帰宅後、ユイは迷いなくキッチンに立った。
「触るなって言わないの?」
こちらに振り返り、意地悪く笑う。
「……もう言うの面倒」
頼まれたネギを刻むと、僕はキッチンをあとにした。
ユイの包丁の音が、部屋に響く。
トントン、トントン。
その音を背に、僕はパソコンの前に座った。
真っ白な画面。
カーソルが点滅している。
一行。
たった一行でいい。
書けばいい。
指が動かない。
キッチンから、味噌の匂いがした。
「先生ー、味見して」
「……今、無理」
「こら、逃げるな」
振り返ると、ユイがスプーンを差し出していた。
仕方なく口に含む。
「あ……」
味が口に拡がった瞬間、不意を突いて声が出た。
「どう?」
「……マジうまい」
「でしょ♪」
テーブルに並んだのは、簡単な炒め物と味噌汁と白ご飯。
久しぶりに、ちゃんとした食事を見た気がした。
「いただきます」
自然に言葉が出た。
食べながら、ユイがぽつりと言った。
「先生さ」
「なに」
「なんで書けないの?」
真正面から来る。
「……分からない」
「書きたいことは?」
「それも分からない」
ユイは黙っていた。
食後、僕が再びパソコンに向かうと、彼女は本棚から一冊抜き取った。
僕の昔の小説。
ページをめくる音が、やけに大きく感じる。
過去の自分が、そこにいる。
今よりずっと、無鉄砲で、傲慢で、でも、熱があった。
今は違う。
一行目。
――僕は、まだ何者にもなれていなかった。
書いて、消した。
違う。
違う。
何かが違う。いや、何が違うんだ?
椅子を押し、立ち上がった。
「風呂入る」
「逃げた」
「うるさい」
僕は逃げるようにその場を去った。
風呂から出ると、ユイが僕の本を抱えたまま座っていた。
「これ、面白いよ」
「……昔のだよ」
「だから何?」
「その頃の僕はもう今はいないってこと」
「でも、先生は先生でしょ?」
何も言い返せなかった。
「ユイも風呂入りなよ。タオルとかは向こうにあるから使っていいよ」
「ありがと、そうする」
彼女が風呂に行ったあと、一人考えた。
今日はとても乱された一日だった。
乱されているのに、それを少し心地よいと思ってしまった自分もいる。
――いや。これはたまたま非日常が訪れた事で、一時的に気持ちが高揚しただけ。
こんな感情に何かを期待してはいけない。
ユイはたまたま距離感がバグってるだけの女。
明日には出て行ってもらう。
そうすれば、元の生活。
ユイのことも、しばらくすれば忘れる。
なによりも書けない事が人生の致命傷なんだ。
それをなんとかしなきゃ。
風呂上がり、肌艶が良くなったユイが髪を乾かしながらこちらを見た。
「ねえ、先生」
「また何?」
「約束、果たさなきゃね」
「……え」
「昼間、先生が言った条件の話だよ」
心臓が嫌な音を立てた。




