第2話 長井とユイ
ドアを閉めた瞬間、部屋の空気が変わった。
外の雨音が遠くなり、代わりに「他人の生活音」が近くなる。
女は玄関で靴を脱ぎながら、部屋を見回していた。
散らかった机。
積んだままの参考資料。
洗ってないマグカップ。
そして、開きっぱなしのエディター。――真っ白な原稿。
「あ……」
女が小さく声を漏らした。
「……何」
「作家さん?」
「違う」
「え、違うの?」
なんで違うって言ったんだろう。聞かれて「そうだ」というのをためらってしまった。
「あ、いや……違わないけど」
女は、妙に納得した顔をした。
「だから雰囲気が死んでるんだ」
「なにその雰囲気って」
「書けないって雰囲気が部屋に出てるよ」
見透かされてる。
なんなんだ、この女。
見られたくないところを、初日から見られてしまった。
最悪だ。
知られたくない相手に、自分の性癖を知られてしまった時くらいに。
このイヤな話題を変えたいこともあり、とりあえずの避難場所を貸すにあたって聞くべきことはある。いや、聞く権利が僕にはあるはずだ。ちょっと苛立ちながら、そう思った。
「……キミさ」
「うん?」
「名前は?」
「今それ聞く?」
「必要だろ、今日だけとはいえ」
「……仮でいい?」
「ダメだろ。ホントなら身分証出して欲しいくらいだし」
「じゃあ、ユイ」
「それ本名?」
「……仮」
「……」
歩くときに右足から出すべきか、左足からだすべきかが分からなくなるようなのと、同じ感覚が僕を襲う。おっさんにとって若者は宇宙人と言うが、ユイはその中でも極まってる気がした。
「あなたは?」
ユイが聞いてくる。
「……長井。僕はちゃんと本名だ」
「……うーん、それはイヤ。……そうだなぁ、あ!先生ね!」
「え」
「先生でしょ?小説家の呼び方って」
「……それはやめろ」
女――ユイ(仮)は黙ったまま、僕をまっすぐに見つめた。
「じゃあ、先生で決まりね」
「やめろってば!『じゃあ』ってなんだよ、『じゃあ』て!」
ユイがニヤッと笑った。
その顔が無性に腹立つのに、なぜか少しだけ安心した。
ユイの顔が人間らしい表情だったから。
僕はタオルを投げた。
「とりあえず拭きなよ。風邪ひくよ」
ユイは受け取ったタオルに顔をうずめて匂いを嗅いでいた。
一瞬焦ったが、洗濯はキチンとやってるから大丈夫なはず。
ユイは顔をあげると少し笑う。
「優しいじゃん」
「別に優しさじゃない。仕方ないからなだけ」
「優しい人はみんなそう言うって、さっき隣のおばさんが」
「おばさんの哲学を持ち込むなって」
ユイはタオルで髪を拭きながら、キッチンを覗いた。
「……先生。ごはん、食べてない?」
「食べてない」
「じゃ、何か作るよ」
座っていたユイはぴょこんと立ち上がる。
「勝手に触るなって」
「触らないと死ぬ」
僕は小さく息を吐いた。
「キミの理屈、全部『死ぬ』だな」
「死なないと助けてくれないでしょ?」
ユイは笑って、冷蔵庫を開けた。
中は、ほぼ空だった。
卵が一個。水。期限切れ寸前の納豆。以上。
「先生さ」
「先生言うな」
「……じゃあ、隣人さん」
「やめろ」
ユイは無言で微笑みながら僕を指差す。
――先生って呼び方が一番いいでしょ?と言わんばかりに。
「先生。生活、終わってる」
「終わってない」
「終わってる人はみんなそう言う」
「おばさん哲学やめろって!」
ユイが、納豆を手に取って言った。
「これ、食べる?」
「……食べていいよ。腹減ってんだろ?」
「じゃあ、炊飯器は?」
「ない」
「は?」
ユイは呆れた顔で僕に振り返った。
「……離婚の時に、持ってかれたんだ」
――しまった。
関係ないヤツに関係ないことを意識せずに言ってしまった。
後悔が脳内をぐるっと一周した頃、部屋が一瞬だけ静かになった。
ドタバタが止まる。
「そっか」
ユイは納豆を冷蔵庫にしまって、軽く頷いた。
「じゃあ、今日はコンビニでいいや」
「……お金は?」
「ない」
「は?」
「スマホも止まってる」
「……」
僕は頭を抱えた。
今日だけのはずが、もう今日だけで済む気がしない。
「でもさ、電源切れてるとメッチャ焦るけど、止められると、なんかスマホ依存してた自分がアホらしくなるよね? ―― 先生、分かる?デジタル・ボトックスってヤツ?」
「……デトックスな。――語感は似てるけど」
「アハハ、先生やっぱ頭いいね。あたしバカだからさ、ニュアンスでしか知らないわ」
「ニュアンスでも知ってるだけマシじゃない?」
「あ、先生優し~。心に無くても、その言葉は染みるねぇ」
「無くはないよ、何にも知ろうとせずに生きてるヤツはたくさんいるよ」
「そのトゲ、逆に刺さるかも。……学生の時、もっと勉強しとけば良かったよ。人生投げ出して、毎日遊んでばっかで、結局、最後は風俗堕ち……、あッ、ヤベ……」
さっきまでのユイの強気が、一瞬だけ薄くなる。
「……聞こえたよね」
「ごめん。ちゃんと聞こえた」
部屋の空気が少しツンとした。
「……ごめん。こんなヤツと一緒にいるの迷惑だよね」
ユイの目線が床に落ちた。
僕は、机の真っ白な画面を見た。
何日も動かなかったカーソルが、今は妙に現実的に瞬いている。
迷惑だ。
面倒だ。
巻き込まれたくない。
でも――
「迷惑だよ」
僕は言った。
「……先生、冷た」
ユイが、少しだけ顔を強ばらせる。
「でも、放り出すのも面倒なんだよ。後味悪いから」
「なにそれ」
「僕の都合」
ユイは、しばらく僕を見ていた。
それから、ふっと笑った。
「……じゃあ、私も私の都合で生きる」
「勝手にしたら?」
「うん。勝手にする。だから――」
ユイは転がってたガムテープを見つけて勝手に貼った。
そこにペンで太い字を書く。
『明日も明後日も一緒にいる』
「おい!」
「これ『わたしたちルール』ね」
「誰が許可した」
「私」
「……」
ユイはもう一枚貼った。
『一日一行でも書け』
僕の喉が、変な音を立てた。笑いとも、ため息ともつかない。
「……お前さ」
ちょっと僕はイラついていた
「なぁに?」
ユイは、ちょっと首を傾げながら微笑を浮かべる
「今日だけのはずだぞ」
「でも、私の都合で自由に生きていいって、先生言ったもん」
論理は正しい。間違っていない。
ゆえに言葉を失った。
ユイは、濡れた段ボールを抱えて、廊下じゃなく部屋の中に踏み込んだ。
その足取りが、やけに堂々としていた。
玄関の狭い空間に、他人の荷物と勝手な貼り紙が増えた。
それはまるで最悪な契約を一方的に結ばれたような気分になった。
そして僕は思った。
たぶん――目が合った時点で、もう終わってたんだ。
一人、晴れない霧が漂う日々。
SNSで講釈を垂れる日々。
そして、書けない日々。
ユイがいる日々が僕の歯車を強制的に動かした。
ただ、この時、僕はただの邪魔者が僕の人生に入り込んで来たくらいにしか思っておらず、まったく気付いていなかった。
ユイとの出会いが僕の人生を大きく変えていくことを。
ただ、それよりも今は「風俗堕ち」というパワーワードで頭がいっぱいになる自分がいることは否定しようのない事実だった。




