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この作品、早稲田文学新人賞をいただけるところ、「すみません、同人誌に載ってしまいました」「二重掲載はできません」ということで、流れてしまいましたっけ。
「えらいことなった、思いましたわ。相手は、人妻だ。大きい声では言えませんけど、もっとも、もう、皆知ってはるやろど・・・なんですわ。焦りましたで、正直なとこ」
人気コメディアン、坂田とんびと私の写真が、スキャンダル専門の雑誌に載った。
われかえるような騒ぎになった。
夫は、黙って、離婚届けを差し出した。
「君に預けておく。提出するなり、握りつぶすなり、君の自由にすればいい」
「ごめんなさい。お仕事にさわるでしょう」
夫は、微かに笑った。
「予測できたことだ。気にする必要は、無い」
私は、坂田とんびの楽屋に向かった。
会いたかった。
「もう、来えへん思てたわ。自分、何しに来たんや」
「どんな顔してるか、見に・・・」
声が、詰まった。
「行こ」
彼が、私の肩を抱いた。
「とんびちゃん、ええのんか。また、騒ぎなるで。社長も怒ってたで」
「かまへん、かまへん。ほかしとき。行ってくるわ」
テレビで見たことのあるコメディアンが、無遠慮に、私の顔を眺めていた。
とんびは、彼からかばうように、私を抱いていた。
「マンションの前、張っとるやろな。あんた、困るやろ」
彼の車の中だ。
「泣きなや。泣くんやったら、偉そうなこと、言いなや」
「泣いてへん。ちょっと感傷的なっただけや」
「可愛無い女やな。僕と結婚せえ。それしか無いで。そしたら、主人の顔も立つやろ。このままやったら、主人がかわいそうや」
「私は?」
「顔も見た無い、言うたやろ」
「顔も見た無い女と結婚するん?」
「しゃー無いわ。僕、面倒みたらな、どこも行くとこ、無いんやから」
「とんびちゃん、優しい! そやから、好きや」
「さわるな。今、さわられた無いんじゃ。ちょっとくらい、もの考えたらどないや。主人のこととか、子供のこととか、いっぱい、考えることあるやろ」
「考えるん嫌いや。アホやから、何にも考えられへん」
「甘えるな。気色悪い。犯してまうぞ」
「うん」
「アホ。そんな気分になるか。もう、ずっとインポやわ。元気も何も、出て来いへん。僕といても、アカンで。もう一生、出来へんかもしれへん」
「かまへん。愛してるもん」
「ほんまかいな。よう、そんなこと、しゃあしゃあと言えるわ」
マンションの前まで来て、彼は車をUターンさせた。
「アカン。やっぱり、うじゃうじゃ居よるわ。どこに帰れ、言う気やろ。こうなったら、どっかアパートでも捜さんならん」
「ホテル、行こ」
「あのな、僕、真面目に言うてんねんで」
「ラブホ、違う。ビジネス・ホテル。部屋借りたらええわ」
「悪賢いおばはんや」
彼は、私の頭をつかむと、自分の胸に引き寄せた。
「危ないやろ、とんびちゃん。事故、起こる」
「かまへん。もう、事故、起こってる」
白一色のホテルの部屋。
ツインのベッドに腰を下ろし、私達は、向かい合った。
「こんなとこ、居ったら、腎虚になりそうやわ」
「きゃ、腎虚やて」
「笑うな。ほんまに、アカンねんから。寝るわ。ずっと、寝てへん」
「愛してる、言うて」
「愛してる、愛してる」
「心、こもってへん」
「やかまし。静かにせえ」
「一緒に寝て、いい?」
「ええけど、何にもせえへんで」
「一緒に、寝たいだけや」
「ほな、来いや」
彼の腕の中は、温かい宮殿。
子供に戻ったように、心が広がる。
「そうやって、おとなししてたら、かいらしいのに」
「もっと言うて」
「なめたろか、こそばしたろか」
「やめて、やめて、死んでしまう」
「ほんま、殺したりたいわ」
「ええよ、殺しても」
彼は、じっと、私の顔を見た。
「何で、こんな女に惚れたんやろ。なんて、マジに言うたりして。アカン、アカン、スランプや。何言うても、しらけるわ。自分がしらけてるから、客が遠いとこ、行ってしもてる。しゃべればしゃべるだけ、客と反対方向に走ってるのが、わかる。もう、何もかも、終わりやで」
何か面白いことを言おうと思ったが、何も出て来なかった。
私は、彼の腕の中で、丸くなっていた。
「とにかく、寝よ」と彼は、言った。
一分も経たないうちに、彼は、眠っていた。
ホテルの窓からは、都会の空が見えた。
飛行機が、ゆっくり旋回している。
『落ちろ』
しかし、それで落ちたら、オカルトや。
全てが、荒涼として見えた。
スモッグのたれこめた重い空。
林立するビル群。
都市の雑踏。
「何時や?」
彼が、目を覚ました。
「仕事、行かなアカン。服、クシャクシャやな。脱いだら、よかった」
「私、買うて来たげる」
「ここに、来い」
彼は、私を手招いた。
「いらん心配、せんでええ」
彼は、強く私を抱くと、私の髪を撫でた。
「遅なるかもしれへん。あんたは、好きにしとき。帰ってもいいし、待っててくれてもいい」
「待っとれ、言うて」
「そんなん、言えるか。あんた、まだ、よその奥さんや。行ってくるわ」
「待ってる」
「ええて。言わんとき。もし、おらへんかったら、がっくりきて、立ち直れへん。当分、一人でここ居るし、帰り。駅も近いし、ちょうどええとこや」
ドアのところまで行ってから、彼は、もう一度、私の傍に戻ってきた。
「何か、行きにくいな。離れたないわ」
彼は、立ったまま、私を抱いていた。
「ピッタリ・サイズや。ちょうど、うまいこと抱ける。僕の腕の中に入る。ちょうどいいとこに、口があって、ちょうどいいとこに、背中がある。目も鼻もちょうどええ。何もかも、僕にピッタリや」
彼は、ちょっと、顔をゆがめた。
「行ってくるわ」
一人きりで、取り残された。
しばらくは、彼の気配が、部屋の中に漂っていた。微かな彼の匂い。
私は、しばらくの間、一人で彼を楽しんでいた。
そのうちに、空腹感が、私を襲った。
こっけいで、健康な、私の肉体。
ブラブラと街を歩いた。家に帰ることは、思い浮かばなかった。
「由起江さん」
誰かが、私の名前を呼んだ。
「あら、橋田さん」夫の、知り合いだった。
「お元気そうですね。聞きましたよ、とんびとのこと」
男は、ニヤニヤと好奇心をむきだしていた。
「デートの途中ですか? 遊びもたいがいにしないと、さすがの松本さんも怒りますよ」
「急ぎますので」
「坂田とんびのことで、いいこと教えてあげましょうか」
「結構ですわ」
「実は、松本さんに頼まれて、あなたを捜していたところなんです。ぜひ、由起江の耳に入れておいて欲しい、とおっしゃってました。聞いたら、ビックリしますよ。ここじゃ、まずいな」
相手のペースに乗せられていた。
『夫』と『とんび』ということばが、呪文のように、私を縛っていた。
「いやあ、あいかわらず、強いですな」
料理屋の一室。お銚子が並んでいた。
橋田は、あきれたように、私を見た。
「女の人は、ちょっと弱い目の方が、あいきょうですよ」
橋田は、坂田とんびについて、知る限りの情報を提供してくれた。
「無茶苦茶な男ですよ。私も、松本さんに頼まれて、調べて回りましたが、早いうちに、手を切った方が、身のためですよ」
「それも、松本に頼まれたの?」
「とんでも無い。これは、私の一存です」
「そうでしょうね」
「今度のことでも、どうして、松本さんが手を回さないのか、皆、不思議がってますよ」
「あなたの時みたいに?」
「いやあ、参ったな。知ってるんですか」
彼は、以前、女性問題で、夫に助けられたことがあった。
「それで、話は、お終いね。私は、帰るわ」
「そうは、いきませんよ。松本さんへの恩返しをさせてもらわないと」
彼は、意外に強い力で、私に抱きついた。
「冗談は、およしなさい」
彼は、私をはがいじめにすると、隣の部屋のふすまを開けた。
毒々しい色の寝具が、目に飛び込んできた。
私を夜具の上に放り出すと、橋田はふすまを閉めた。
「変なことしたら、殺してやる」
「殺せるもんなら、殺してみい」
橋田は、突然大阪弁に変わり、私の心に、一瞬のすきが出来た。
「とんびなんか忘れさしたる。離れたらいやや、言わしたる」
身体の自由がきかなかった。酔いが回り、頭が、まひしたように、かすんでいた。
橋田は、私の身体を眺め回すと、当然のように、私に押し入ってきた。
「どうや。ええ気持ちやろ。男やったら、誰でもええ身体や」
とんびの顔が、夫の顔が、何度も目の前を通り過ぎた。
「二度ととんびなんかと遊べんように、身体中に、キスマークつけといたるわ」
男が離れた時、私は、泣いた。屈辱に身体が震えていた。
「泣くなんか、かわいいとこあるな」
「さわらないでよ」
「今さら気取っても、もう遅い。松本さんへのご恩返しや。あんたは、松本さんの恥や。私が、面倒みたる。人目に立たんように、ひっそりと暮らさしたる」
「手を放して。私、松本に話すわ」
橋田は、おびえた表情を見せた。
「アホな。話せるわけ無いでしょう。何、馬鹿なことを言ってるんですか」
ことばが、元に戻っていた。
「私は、松本さんのために・・・」
「それは、松本が判断するわ」
「冗談は、やめましょう。そんなこと、本気で話せるわけが無い」
「私は、話せるのよ。何も怖いものなんか無いんだから。あなたと違って」
橋田は、しばらく私をにらんでいた。
「殺すの? 私を」
「そ、そんな・・・」
彼は、明らかに、うろたえていた。
「用が無いなら、もう行きなさい。二度と私の前に現れないで。さあ早く、行きなさい」
橋田が去った後、私は、一人で座っていた。疲れていた。
お酒を飲んでみたが、アルコールは、私の身体を素通りして、どこかに消えて行った。
坂田とんびに会いたかった。私は、ホテルに戻って行った。
シャワーを浴びた。身体中に、橋田の跡が残っている。いくら洗っても、洗い流せなかった。
着ていた服をゴミ箱に放り込むと、私は、裸のまま、ベッドにもぐり込んだ。
ベッドには、かすかに、とんびの匂いが残っていた。
涙が流れた。自分のためにではなく、彼のために。
彼は、明け方近くになって、ホテルに戻って来た。
私は、息をひそめて、ベッドの中に隠れていた。
彼は、毛布の上から、私を抱いた。
「居った、居った」と彼は、はしゃいだ。
「おお、寒。一緒に入れてくれ」
「アカン」と私は、叫んだ。
彼が、怖かったのだ。
「ええやないか。何で、アカンねん」
「アカン、アカン。やっぱり、アカン」
「おかしな女やな。何、隠れてんねん」
「見たら、アカン」
「裸で何やってんねん。何考えてんねん。何隠してるか、見せてみい」
「だめ、いや」
彼は、ベッドから私を引きずり出した。私を揺すぶり、涙が四方に飛び散った。
彼は、何も言わずに思い切り、私を殴った。痛くはなかった。
二度目に殴られた時、あたりが虹色に見えた。いい気持ちだった。
「もう、ええ」と彼は、言った。
「もう、気、すんだ」
彼は、私を抱いた。
「本気で殴ってしもた。痛かったやろ。顔、腫れるやろな。顔、腫れたら、かわいそうや」
「とんびちゃん、好き。ほかに何にもいらん」
「ほかに何にもいらんもんが、こんだけ、キスマーク集めるか。誰や、こんなえげつないこと、しよったん」
「聞かんといて」
「まさか、主人、違うやろ?」
「うん」
「こんなマーク、もう一回、つけ直したる。浮気された思たら、急に元気なってきたわ」
「私、いや」
「アカン。そんなこと、言わさへん」
彼を愛しているのが、わかった。
心と身体の両方が、彼に向かって開いていく。
彼は、その存在ごと、私の中に入り込む。
何度も意識が遠くなる。
快楽のためではなく、彼の存在の故に、私は、彼を愛する。
彼は、私をジッと見つめていた。私は、彼に微笑んだ。
「僕の名前、呼んだ」
彼は、それだけ言うと、眠った。
もう、日が高く昇っていた。
いくつか、片づけなければならない問題が残っていた。私自身の問題だ。
「しばらく、時間をちょうだい」
「その前に、メシ食いに行こ。腹へった。食欲出たん、ひさしぶりや。何も、のど、通らへんかったもんなあ。何、笑てんねん。僕に食欲無かったら、おかしいんか」
「おかしないけど、やっぱり、おかしい。アハハハハ」
彼と一緒に通りを歩いていると、人が集まってきた。
「いや、とんびが歩いてる」
「ほら、あれが、例の女ちゃうか」
「寄らんといて。見せ物ちゃうで」と彼は、おどけた。
「とんびちゃーん」
若い女の子の一群が叫んだ。
「一、二の三。大好きや、とんびちゃーん。がんばってねー」
「ありがとー。アカン。人集まったら、芸してしまう。走ろ。どっか入ろ」
どこに行っても、大勢の人々がいた。
「この国、今日、お祭りやってんのと違うか」ととんびは、首をかしげる。
「いや、とんびやわ。とんびがいるわ」
「女の人と一緒やわ。あの人ちゃうか」
「かなんなあ。食べた気せえへん。もう帰ろ。知ってる店あるけど、あそこも、いっしょやろなあ」
彼は、私を見た。私は、彼の服を身につけていた。
「あんた、全然平気やねんな。太い神経してるわ」
「だって、とんびちゃんと一緒やもん。ほかに怖いもん、あらへん」
「僕の服も、よう似合うわ。若、見える。かわいい」
「うふふ」と私は、笑った。
「嬉し。ほめてもらった」
「やらしいわ。とんびちゃんにイチャイチャして。いい年したおばはんが」
背後の若い女の子達の声が、胸に刺さった。
「ダーリン、もう出よか」
彼は、私の肩を抱くと、頬にキスをした。
「ちょっと。キスなんかしてはる。ショックやわあ」
外に出た。雑踏の中でも、彼は、私にキスをした。
「ようやる」という声が、聞こえてきた。
「場所考え、場所。あ、坂田とんびや」
「とんびが、街中で、女とキスしとる」
「悪いんか」と彼は言った。
「僕かて、人間や。好きな女とキスくらいするわ」
「とんび、女に惚れたんか」
酔っぱらいが、彼の肩を叩いた。
「しっかり頑張ってや。わし、あんたのファンやさかい。外野に負けたらアカンで」
「おおきに。おっちゃんも頑張りや」
「ええな。若いもんは。人生、これからやもんなあ」
「おっちゃんかて、まだまだ、これからや」
「女、泣かしたらアカンで。女は、可愛がったったらええねん」
「おっちゃん、哲学者やな」
女子校生が近づいてきた。
「とんびちゃん、サインしてくれへん? ブラウスの襟に書いて欲しい」
「ここか? ええのんか? 二度とこれ着られへんで。と、ん、び、これでええか?」
「ありがとう!」
彼は、私の肩を抱いた。
「人気、無くなるよ、おばさん抱いてたら」
彼は、ちょっと、私を見た。
「今の人気なんか、風が吹いたら、どっか飛んでくわ。あっという間に消えて行った人間、ようけ知ってる。皆、今は、誰も覚えてない。身体さえ丈夫やったら、何やっても生きていける。言うたら、やくざな仕事やで。何や、何、笑てんねん」
「うちのお母ちゃんが、同じこと言うてたわ。それ、思い出してん」
「賢いお母さんやないか。大事にせなアカン。僕、孝行するもん、誰もいてへん」
「私に孝行し。長生きしたげるから」
「ほんまやで。病気もけがもしたアカン。何もせんでええ。長生きして、ずっと、そばに居ってくれ。ずっと、丈夫で居ってくれ」
「私、帰るわ。帰って、きちんと別れてくる」
「ついてこか?」
「アホ。子供と違うわ。もう、れっきとしたおばさんやねんよ」
「何か心配や。何か頼り無い。主人の顔見たら、すぐ、気変わるような気がする。やっぱり、ついてくわ」
「私のことや。一人でやらせて」
彼は、やにわに、私を抱きしめた。
「行かせた無い。心配でたまらん」
私は、ゆっくりと、彼の腕を振りほどいた。
「じゃ、また。成功を祈っててよ」
私は、片手を差し出し、彼は、それを振り払った。
「はよ、行け」と彼は、言った。
自分の家が、見知らぬ空間のように思えた。
子供達は、別棟で生活している。
妻とは言っても、名ばかりのもの。家事一切は、大勢のメイドがこなしていた。
私は、人形のように、妻という場所を与えられていた。じっと私は、いつになるかわからない夫の帰りを待っていた。
マスコミは、ここにまでは追いかけては来ない。強い者には弱いのだ。
夫は、関西政財界の影の実力者だった。私の行動も、情報網を通して、既に、夫の耳に届いているはずだ。
「ただいま。どうしたんだい、今日は。とんび君のところじゃないのかい?」
夫が服を着替える間、メイド達が、影のように動いていた。
「決心がついたようだね」
夫は、無表情に、私を見た。
「橋田は、こちらで処分する。海外に飛ばせばいいだろう。君の気がすまないようなら、別の方法を考えてもいい」
「結構ですわ」
一時に、感情がたかぶった。
「あなたは、知っていて・・・」
「誤解しないでくれ。報告を受けたのは、事後のことだ。ほかに面倒な問題もあってね。ずっと徹夜が続いている。君の問題も、気にはなっていたんだが」
夫が、ひどく弱々しく見えた。初めてのことだ。
「細かいことは、弁護士と相談するといい。何もしないでいると、彼は、つぶされるよ」
「どういうこと?」
「私に義理立てしたい人間が、あちこちにいる。私にも、実態がつかめない。事前に相談でもあれば、取るべき手段もあるが、橋田の場合のように、自分の一存で行動されると、手の打ちようがない」
「彼を傷つけたら、許さないわよ」
「私には、そんなつもりはないよ」
夫は、疲れたように、私を見た。
「私は、どこか、間違っていたんだろう。一番信頼していた人間に、去られるということは」
「ひどいわ」と私は、言った。
「今頃、そんなことを言うなんて」
「正直、君をどう扱っていいのかわからなかった。私は、不器用な人間でね。君の不満は、理解していたつもりだ。君は、いい母親だったし、いい妻だった。子供達が大きくなり、いざ、君に向かい合ってみると、気のきいたことばの一つも出て来ない。ビジネスは得意だが、人に愛されることには、不慣れでね。彼のように、人を喜ばせることは、不得手なんだ。正直のところ、生まれて初めての敗北だ。なす術もなく、敗れた。彼には、完敗だ」
「私・・・」
「馬鹿だな。何を泣くことがある。母や子供達には、私から、時機をみて話そう。君のお母さんには、自分で話せばいい。言いにくければ、私が話そう」
「ずっと、あなたを愛してきたわ。愛されてないと思っていた。砂を噛むような生活だった。口も心もジャリジャリしていた」
「仕事一途の人生でね。感情を表現する暇も、機会も無かった。淋しい思いをさせているのは、わかっていても、どうすることもできなかった。もう一度、人生をやり直したとしても、きっと、同じ結果に終わるだろう。今度、生まれ変わる時は、神様にお願いして、彼のようにしてもらおうか」
夫は、ゾッとするくらい、孤独な声で笑った。
夫には、私が必要なのだ。私がいたから、彼は、社会で、力を発揮できたのだ。
坂田とんびは、何度もフォーカスされていた。その度に、相手が違った。
私は、以前と変わりなく、日々を送っていた。
彼のことは、いつの間にか、意識に上がらなくなっていた。
夫の帰りは、あいかわらず不規則で、以前と同じように、会話ははずまなかった。
しかし、もう、気にはならない。
ダンス教室に通い、英会話を習った。
「ええんやで、それで」と母は言った。
「普通やったら、ほり出されても、文句言われんとこや。とんびたらいうん、色んな女と遊んで、ほんま、クセ悪い男や。えらいことになるとこやったんやで」
「そやそや。お母ちゃんの言う通りや」
彼が、母に孝行するように言っていたことを思い出した。微かに胸が痛んだ。
ダンスのレッスン日だった。
余り気が進まず、ノロノロと準備をすませた。
「あと、お願いね」
メイドに声をかけた。彼女の態度がおかしかった。
「どうしたの。何かあったの?」
メイドが、青白い顔で、横に動いた。
坂田とんびが、メイドの後ろから現れた。懐かしかった。
「いや、とんびちゃん。来てくれた。嬉しいわ」
「アホか」と彼が言った。
「何しに来た、思てんねん」
彼が、何かを、服の下に隠しているのがわかった。
「この人に用があるの。奥に行ってて」
私は、メイドに命じ、メイドは姿を消した。
「警察、呼ぶん、違うやろな」
「大丈夫。心配ない。奥には、電話ないから」
「怖ないんか」
「何で、怖いの。とんびちゃんやないの」
「一緒に来い。自分、殺しに来てんで。一緒に来んかったら、殺したろ思て」
「アホやな、とんびちゃん」
私は、彼を見た。彼は、手に包丁を握っている。手が震えていた。怖くはなかった。
「一緒には、行かれへん。主人のとこ、いるわ。主人、私がおらへんとアカンねん」
「そんなん、僕かて一緒や。今さら、よう、そんなこと言えるな」
「ごめん。けど、もう決めてん」
「覚悟せえ」
「もう、覚悟できてる。殺すんやったら、早して。ちゃんと狙って、あんまり痛ないように、一突きで殺して」
「アホか。また、冗談や思ってるやろ。本気やねんぞ」
「わかってるって。けど、震えてるやないの。怖いんか」
彼は、両手で包丁を握りしめた。泣きだしそうな顔で、私をにらんでいる。
彼は、少し走り、私の身体にぶつかってきた。
鈍い痛みだった。私は、胸を押さえた。
一歩下がった彼が、駆け寄ろうとするのが見えた。
「アホ。何してんの。はよ逃げ。はよ」
「自分、死んでしまうやないか」
「殺しに来たんやろ。それで、ええの」
「待っとれ。すぐ、救急車呼ぶから」
「奥様」とメイドが、顔をのぞかせた。
「奥に行ってて。そう言ったはずよ。用があれば、呼びます」
メイドは、再び、姿を消した。
「殺す気なんかなかったんや。一緒に来て欲しかっただけや」
彼が、私を抱くのがわかった。
「何してんの。こけた言うたげる。はよ逃げなアカンやん」
「こんなつもりやなかった」
「アホ」
意識が消えた。




