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道化  作者: まきの・えり


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2/5

この作品、早稲田文学新人賞をいただけるところ、「すみません、同人誌に載ってしまいました」「二重掲載はできません」ということで、流れてしまいましたっけ。

「えらいことなった、思いましたわ。相手は、人妻だ。大きい声では言えませんけど、もっとも、もう、皆知ってはるやろど・・・なんですわ。焦りましたで、正直なとこ」

 人気コメディアン、坂田とんびと私の写真が、スキャンダル専門の雑誌に載った。

 われかえるような騒ぎになった。

 夫は、黙って、離婚届けを差し出した。

「君に預けておく。提出するなり、握りつぶすなり、君の自由にすればいい」

「ごめんなさい。お仕事にさわるでしょう」

 夫は、微かに笑った。

「予測できたことだ。気にする必要は、無い」

 私は、坂田とんびの楽屋に向かった。

 会いたかった。

「もう、来えへん思てたわ。自分、何しに来たんや」

「どんな顔してるか、見に・・・」

 声が、詰まった。

「行こ」

 彼が、私の肩を抱いた。

「とんびちゃん、ええのんか。また、騒ぎなるで。社長も怒ってたで」

「かまへん、かまへん。ほかしとき。行ってくるわ」

 テレビで見たことのあるコメディアンが、無遠慮に、私の顔を眺めていた。

 とんびは、彼からかばうように、私を抱いていた。

「マンションの前、張っとるやろな。あんた、困るやろ」

 彼の車の中だ。

「泣きなや。泣くんやったら、偉そうなこと、言いなや」

「泣いてへん。ちょっと感傷的なっただけや」

「可愛無い女やな。僕と結婚せえ。それしか無いで。そしたら、主人の顔も立つやろ。このままやったら、主人がかわいそうや」

「私は?」

「顔も見た無い、言うたやろ」

「顔も見た無い女と結婚するん?」

「しゃー無いわ。僕、面倒みたらな、どこも行くとこ、無いんやから」

「とんびちゃん、優しい! そやから、好きや」

「さわるな。今、さわられた無いんじゃ。ちょっとくらい、もの考えたらどないや。主人のこととか、子供のこととか、いっぱい、考えることあるやろ」

「考えるん嫌いや。アホやから、何にも考えられへん」

「甘えるな。気色悪い。犯してまうぞ」

「うん」

「アホ。そんな気分になるか。もう、ずっとインポやわ。元気も何も、出て来いへん。僕といても、アカンで。もう一生、出来へんかもしれへん」

「かまへん。愛してるもん」

「ほんまかいな。よう、そんなこと、しゃあしゃあと言えるわ」

 マンションの前まで来て、彼は車をUターンさせた。

「アカン。やっぱり、うじゃうじゃ居よるわ。どこに帰れ、言う気やろ。こうなったら、どっかアパートでも捜さんならん」

「ホテル、行こ」

「あのな、僕、真面目に言うてんねんで」

「ラブホ、違う。ビジネス・ホテル。部屋借りたらええわ」

「悪賢いおばはんや」

 彼は、私の頭をつかむと、自分の胸に引き寄せた。

「危ないやろ、とんびちゃん。事故、起こる」

「かまへん。もう、事故、起こってる」

 白一色のホテルの部屋。

 ツインのベッドに腰を下ろし、私達は、向かい合った。

「こんなとこ、居ったら、腎虚になりそうやわ」

「きゃ、腎虚やて」

「笑うな。ほんまに、アカンねんから。寝るわ。ずっと、寝てへん」

「愛してる、言うて」

「愛してる、愛してる」

「心、こもってへん」

「やかまし。静かにせえ」

「一緒に寝て、いい?」

「ええけど、何にもせえへんで」

「一緒に、寝たいだけや」

「ほな、来いや」

 彼の腕の中は、温かい宮殿。

 子供に戻ったように、心が広がる。

「そうやって、おとなししてたら、かいらしいのに」

「もっと言うて」

「なめたろか、こそばしたろか」

「やめて、やめて、死んでしまう」

「ほんま、殺したりたいわ」

「ええよ、殺しても」

 彼は、じっと、私の顔を見た。

「何で、こんな女に惚れたんやろ。なんて、マジに言うたりして。アカン、アカン、スランプや。何言うても、しらけるわ。自分がしらけてるから、客が遠いとこ、行ってしもてる。しゃべればしゃべるだけ、客と反対方向に走ってるのが、わかる。もう、何もかも、終わりやで」

 何か面白いことを言おうと思ったが、何も出て来なかった。

 私は、彼の腕の中で、丸くなっていた。

「とにかく、寝よ」と彼は、言った。

 一分も経たないうちに、彼は、眠っていた。

 ホテルの窓からは、都会の空が見えた。

 飛行機が、ゆっくり旋回している。

『落ちろ』

 しかし、それで落ちたら、オカルトや。

 全てが、荒涼として見えた。

 スモッグのたれこめた重い空。

 林立するビル群。

 都市の雑踏。

「何時や?」

 彼が、目を覚ました。

「仕事、行かなアカン。服、クシャクシャやな。脱いだら、よかった」

「私、買うて来たげる」

「ここに、来い」

 彼は、私を手招いた。

「いらん心配、せんでええ」

 彼は、強く私を抱くと、私の髪を撫でた。

「遅なるかもしれへん。あんたは、好きにしとき。帰ってもいいし、待っててくれてもいい」

「待っとれ、言うて」

「そんなん、言えるか。あんた、まだ、よその奥さんや。行ってくるわ」

「待ってる」

「ええて。言わんとき。もし、おらへんかったら、がっくりきて、立ち直れへん。当分、一人でここ居るし、帰り。駅も近いし、ちょうどええとこや」

 ドアのところまで行ってから、彼は、もう一度、私の傍に戻ってきた。

「何か、行きにくいな。離れたないわ」

 彼は、立ったまま、私を抱いていた。

「ピッタリ・サイズや。ちょうど、うまいこと抱ける。僕の腕の中に入る。ちょうどいいとこに、口があって、ちょうどいいとこに、背中がある。目も鼻もちょうどええ。何もかも、僕にピッタリや」

 彼は、ちょっと、顔をゆがめた。

「行ってくるわ」

 一人きりで、取り残された。

 しばらくは、彼の気配が、部屋の中に漂っていた。微かな彼の匂い。

 私は、しばらくの間、一人で彼を楽しんでいた。

 そのうちに、空腹感が、私を襲った。

 こっけいで、健康な、私の肉体。

 ブラブラと街を歩いた。家に帰ることは、思い浮かばなかった。

「由起江さん」

 誰かが、私の名前を呼んだ。

「あら、橋田さん」夫の、知り合いだった。

「お元気そうですね。聞きましたよ、とんびとのこと」

 男は、ニヤニヤと好奇心をむきだしていた。

「デートの途中ですか? 遊びもたいがいにしないと、さすがの松本さんも怒りますよ」

「急ぎますので」

「坂田とんびのことで、いいこと教えてあげましょうか」

「結構ですわ」

「実は、松本さんに頼まれて、あなたを捜していたところなんです。ぜひ、由起江の耳に入れておいて欲しい、とおっしゃってました。聞いたら、ビックリしますよ。ここじゃ、まずいな」

 相手のペースに乗せられていた。

『夫』と『とんび』ということばが、呪文のように、私を縛っていた。

「いやあ、あいかわらず、強いですな」

 料理屋の一室。お銚子が並んでいた。

 橋田は、あきれたように、私を見た。

「女の人は、ちょっと弱い目の方が、あいきょうですよ」

 橋田は、坂田とんびについて、知る限りの情報を提供してくれた。

「無茶苦茶な男ですよ。私も、松本さんに頼まれて、調べて回りましたが、早いうちに、手を切った方が、身のためですよ」

「それも、松本に頼まれたの?」

「とんでも無い。これは、私の一存です」

「そうでしょうね」

「今度のことでも、どうして、松本さんが手を回さないのか、皆、不思議がってますよ」

「あなたの時みたいに?」

「いやあ、参ったな。知ってるんですか」

 彼は、以前、女性問題で、夫に助けられたことがあった。

「それで、話は、お終いね。私は、帰るわ」

「そうは、いきませんよ。松本さんへの恩返しをさせてもらわないと」

 彼は、意外に強い力で、私に抱きついた。

「冗談は、およしなさい」

 彼は、私をはがいじめにすると、隣の部屋のふすまを開けた。

 毒々しい色の寝具が、目に飛び込んできた。

 私を夜具の上に放り出すと、橋田はふすまを閉めた。

「変なことしたら、殺してやる」

「殺せるもんなら、殺してみい」

 橋田は、突然大阪弁に変わり、私の心に、一瞬のすきが出来た。

「とんびなんか忘れさしたる。離れたらいやや、言わしたる」

 身体の自由がきかなかった。酔いが回り、頭が、まひしたように、かすんでいた。

 橋田は、私の身体を眺め回すと、当然のように、私に押し入ってきた。

「どうや。ええ気持ちやろ。男やったら、誰でもええ身体や」

 とんびの顔が、夫の顔が、何度も目の前を通り過ぎた。

「二度ととんびなんかと遊べんように、身体中に、キスマークつけといたるわ」

 男が離れた時、私は、泣いた。屈辱に身体が震えていた。

「泣くなんか、かわいいとこあるな」

「さわらないでよ」

「今さら気取っても、もう遅い。松本さんへのご恩返しや。あんたは、松本さんの恥や。私が、面倒みたる。人目に立たんように、ひっそりと暮らさしたる」

「手を放して。私、松本に話すわ」

 橋田は、おびえた表情を見せた。

「アホな。話せるわけ無いでしょう。何、馬鹿なことを言ってるんですか」

 ことばが、元に戻っていた。

「私は、松本さんのために・・・」

「それは、松本が判断するわ」

「冗談は、やめましょう。そんなこと、本気で話せるわけが無い」

「私は、話せるのよ。何も怖いものなんか無いんだから。あなたと違って」

 橋田は、しばらく私をにらんでいた。

「殺すの? 私を」

「そ、そんな・・・」

 彼は、明らかに、うろたえていた。

「用が無いなら、もう行きなさい。二度と私の前に現れないで。さあ早く、行きなさい」

 橋田が去った後、私は、一人で座っていた。疲れていた。

 お酒を飲んでみたが、アルコールは、私の身体を素通りして、どこかに消えて行った。

 坂田とんびに会いたかった。私は、ホテルに戻って行った。

 シャワーを浴びた。身体中に、橋田の跡が残っている。いくら洗っても、洗い流せなかった。

 着ていた服をゴミ箱に放り込むと、私は、裸のまま、ベッドにもぐり込んだ。

 ベッドには、かすかに、とんびの匂いが残っていた。

 涙が流れた。自分のためにではなく、彼のために。

 彼は、明け方近くになって、ホテルに戻って来た。

 私は、息をひそめて、ベッドの中に隠れていた。

 彼は、毛布の上から、私を抱いた。

「居った、居った」と彼は、はしゃいだ。

「おお、寒。一緒に入れてくれ」

「アカン」と私は、叫んだ。

 彼が、怖かったのだ。

「ええやないか。何で、アカンねん」

「アカン、アカン。やっぱり、アカン」

「おかしな女やな。何、隠れてんねん」

「見たら、アカン」

「裸で何やってんねん。何考えてんねん。何隠してるか、見せてみい」

「だめ、いや」

 彼は、ベッドから私を引きずり出した。私を揺すぶり、涙が四方に飛び散った。

 彼は、何も言わずに思い切り、私を殴った。痛くはなかった。

 二度目に殴られた時、あたりが虹色に見えた。いい気持ちだった。

「もう、ええ」と彼は、言った。

「もう、気、すんだ」

 彼は、私を抱いた。

「本気で殴ってしもた。痛かったやろ。顔、腫れるやろな。顔、腫れたら、かわいそうや」

「とんびちゃん、好き。ほかに何にもいらん」

「ほかに何にもいらんもんが、こんだけ、キスマーク集めるか。誰や、こんなえげつないこと、しよったん」

「聞かんといて」

「まさか、主人、違うやろ?」

「うん」

「こんなマーク、もう一回、つけ直したる。浮気された思たら、急に元気なってきたわ」

「私、いや」

「アカン。そんなこと、言わさへん」

 彼を愛しているのが、わかった。

 心と身体の両方が、彼に向かって開いていく。

 彼は、その存在ごと、私の中に入り込む。

 何度も意識が遠くなる。

 快楽のためではなく、彼の存在の故に、私は、彼を愛する。

 彼は、私をジッと見つめていた。私は、彼に微笑んだ。

「僕の名前、呼んだ」

 彼は、それだけ言うと、眠った。

 もう、日が高く昇っていた。

 いくつか、片づけなければならない問題が残っていた。私自身の問題だ。

「しばらく、時間をちょうだい」

「その前に、メシ食いに行こ。腹へった。食欲出たん、ひさしぶりや。何も、のど、通らへんかったもんなあ。何、笑てんねん。僕に食欲無かったら、おかしいんか」

「おかしないけど、やっぱり、おかしい。アハハハハ」

 彼と一緒に通りを歩いていると、人が集まってきた。

「いや、とんびが歩いてる」

「ほら、あれが、例の女ちゃうか」

「寄らんといて。見せ物ちゃうで」と彼は、おどけた。

「とんびちゃーん」

 若い女の子の一群が叫んだ。

「一、二の三。大好きや、とんびちゃーん。がんばってねー」

「ありがとー。アカン。人集まったら、芸してしまう。走ろ。どっか入ろ」

 どこに行っても、大勢の人々がいた。

「この国、今日、お祭りやってんのと違うか」ととんびは、首をかしげる。

「いや、とんびやわ。とんびがいるわ」

「女の人と一緒やわ。あの人ちゃうか」

「かなんなあ。食べた気せえへん。もう帰ろ。知ってる店あるけど、あそこも、いっしょやろなあ」

 彼は、私を見た。私は、彼の服を身につけていた。

「あんた、全然平気やねんな。太い神経してるわ」

「だって、とんびちゃんと一緒やもん。ほかに怖いもん、あらへん」

「僕の服も、よう似合うわ。若、見える。かわいい」

「うふふ」と私は、笑った。

「嬉し。ほめてもらった」

「やらしいわ。とんびちゃんにイチャイチャして。いい年したおばはんが」

 背後の若い女の子達の声が、胸に刺さった。

「ダーリン、もう出よか」

 彼は、私の肩を抱くと、頬にキスをした。

「ちょっと。キスなんかしてはる。ショックやわあ」

 外に出た。雑踏の中でも、彼は、私にキスをした。

「ようやる」という声が、聞こえてきた。

「場所考え、場所。あ、坂田とんびや」

「とんびが、街中で、女とキスしとる」

「悪いんか」と彼は言った。

「僕かて、人間や。好きな女とキスくらいするわ」

「とんび、女に惚れたんか」

 酔っぱらいが、彼の肩を叩いた。

「しっかり頑張ってや。わし、あんたのファンやさかい。外野に負けたらアカンで」

「おおきに。おっちゃんも頑張りや」

「ええな。若いもんは。人生、これからやもんなあ」

「おっちゃんかて、まだまだ、これからや」

「女、泣かしたらアカンで。女は、可愛がったったらええねん」

「おっちゃん、哲学者やな」

 女子校生が近づいてきた。

「とんびちゃん、サインしてくれへん? ブラウスの襟に書いて欲しい」

「ここか? ええのんか? 二度とこれ着られへんで。と、ん、び、これでええか?」

「ありがとう!」

 彼は、私の肩を抱いた。

「人気、無くなるよ、おばさん抱いてたら」

 彼は、ちょっと、私を見た。

「今の人気なんか、風が吹いたら、どっか飛んでくわ。あっという間に消えて行った人間、ようけ知ってる。皆、今は、誰も覚えてない。身体さえ丈夫やったら、何やっても生きていける。言うたら、やくざな仕事やで。何や、何、笑てんねん」

「うちのお母ちゃんが、同じこと言うてたわ。それ、思い出してん」

「賢いお母さんやないか。大事にせなアカン。僕、孝行するもん、誰もいてへん」

「私に孝行し。長生きしたげるから」

「ほんまやで。病気もけがもしたアカン。何もせんでええ。長生きして、ずっと、そばに居ってくれ。ずっと、丈夫で居ってくれ」

「私、帰るわ。帰って、きちんと別れてくる」

「ついてこか?」

「アホ。子供と違うわ。もう、れっきとしたおばさんやねんよ」

「何か心配や。何か頼り無い。主人の顔見たら、すぐ、気変わるような気がする。やっぱり、ついてくわ」

「私のことや。一人でやらせて」

 彼は、やにわに、私を抱きしめた。

「行かせた無い。心配でたまらん」

 私は、ゆっくりと、彼の腕を振りほどいた。

「じゃ、また。成功を祈っててよ」

 私は、片手を差し出し、彼は、それを振り払った。

「はよ、行け」と彼は、言った。


 自分の家が、見知らぬ空間のように思えた。

 子供達は、別棟で生活している。

 妻とは言っても、名ばかりのもの。家事一切は、大勢のメイドがこなしていた。

 私は、人形のように、妻という場所を与えられていた。じっと私は、いつになるかわからない夫の帰りを待っていた。

 マスコミは、ここにまでは追いかけては来ない。強い者には弱いのだ。

 夫は、関西政財界の影の実力者だった。私の行動も、情報網を通して、既に、夫の耳に届いているはずだ。

「ただいま。どうしたんだい、今日は。とんび君のところじゃないのかい?」

 夫が服を着替える間、メイド達が、影のように動いていた。

「決心がついたようだね」

 夫は、無表情に、私を見た。

「橋田は、こちらで処分する。海外に飛ばせばいいだろう。君の気がすまないようなら、別の方法を考えてもいい」

「結構ですわ」

 一時に、感情がたかぶった。

「あなたは、知っていて・・・」

「誤解しないでくれ。報告を受けたのは、事後のことだ。ほかに面倒な問題もあってね。ずっと徹夜が続いている。君の問題も、気にはなっていたんだが」

 夫が、ひどく弱々しく見えた。初めてのことだ。

「細かいことは、弁護士と相談するといい。何もしないでいると、彼は、つぶされるよ」

「どういうこと?」

「私に義理立てしたい人間が、あちこちにいる。私にも、実態がつかめない。事前に相談でもあれば、取るべき手段もあるが、橋田の場合のように、自分の一存で行動されると、手の打ちようがない」

「彼を傷つけたら、許さないわよ」

「私には、そんなつもりはないよ」

 夫は、疲れたように、私を見た。

「私は、どこか、間違っていたんだろう。一番信頼していた人間に、去られるということは」

「ひどいわ」と私は、言った。

「今頃、そんなことを言うなんて」

「正直、君をどう扱っていいのかわからなかった。私は、不器用な人間でね。君の不満は、理解していたつもりだ。君は、いい母親だったし、いい妻だった。子供達が大きくなり、いざ、君に向かい合ってみると、気のきいたことばの一つも出て来ない。ビジネスは得意だが、人に愛されることには、不慣れでね。彼のように、人を喜ばせることは、不得手なんだ。正直のところ、生まれて初めての敗北だ。なす術もなく、敗れた。彼には、完敗だ」

「私・・・」

「馬鹿だな。何を泣くことがある。母や子供達には、私から、時機をみて話そう。君のお母さんには、自分で話せばいい。言いにくければ、私が話そう」

「ずっと、あなたを愛してきたわ。愛されてないと思っていた。砂を噛むような生活だった。口も心もジャリジャリしていた」

「仕事一途の人生でね。感情を表現する暇も、機会も無かった。淋しい思いをさせているのは、わかっていても、どうすることもできなかった。もう一度、人生をやり直したとしても、きっと、同じ結果に終わるだろう。今度、生まれ変わる時は、神様にお願いして、彼のようにしてもらおうか」

 夫は、ゾッとするくらい、孤独な声で笑った。

 夫には、私が必要なのだ。私がいたから、彼は、社会で、力を発揮できたのだ。


 坂田とんびは、何度もフォーカスされていた。その度に、相手が違った。

 私は、以前と変わりなく、日々を送っていた。

 彼のことは、いつの間にか、意識に上がらなくなっていた。

 夫の帰りは、あいかわらず不規則で、以前と同じように、会話ははずまなかった。

 しかし、もう、気にはならない。

 ダンス教室に通い、英会話を習った。

「ええんやで、それで」と母は言った。

「普通やったら、ほり出されても、文句言われんとこや。とんびたらいうん、色んな女と遊んで、ほんま、クセ悪い男や。えらいことになるとこやったんやで」

「そやそや。お母ちゃんの言う通りや」

 彼が、母に孝行するように言っていたことを思い出した。微かに胸が痛んだ。


 ダンスのレッスン日だった。

 余り気が進まず、ノロノロと準備をすませた。

「あと、お願いね」

 メイドに声をかけた。彼女の態度がおかしかった。

「どうしたの。何かあったの?」

 メイドが、青白い顔で、横に動いた。

 坂田とんびが、メイドの後ろから現れた。懐かしかった。

「いや、とんびちゃん。来てくれた。嬉しいわ」

「アホか」と彼が言った。

「何しに来た、思てんねん」

 彼が、何かを、服の下に隠しているのがわかった。

「この人に用があるの。奥に行ってて」

 私は、メイドに命じ、メイドは姿を消した。

「警察、呼ぶん、違うやろな」

「大丈夫。心配ない。奥には、電話ないから」

「怖ないんか」

「何で、怖いの。とんびちゃんやないの」

「一緒に来い。自分、殺しに来てんで。一緒に来んかったら、殺したろ思て」

「アホやな、とんびちゃん」

 私は、彼を見た。彼は、手に包丁を握っている。手が震えていた。怖くはなかった。

「一緒には、行かれへん。主人のとこ、いるわ。主人、私がおらへんとアカンねん」

「そんなん、僕かて一緒や。今さら、よう、そんなこと言えるな」

「ごめん。けど、もう決めてん」

「覚悟せえ」

「もう、覚悟できてる。殺すんやったら、早して。ちゃんと狙って、あんまり痛ないように、一突きで殺して」

「アホか。また、冗談や思ってるやろ。本気やねんぞ」

「わかってるって。けど、震えてるやないの。怖いんか」

 彼は、両手で包丁を握りしめた。泣きだしそうな顔で、私をにらんでいる。

 彼は、少し走り、私の身体にぶつかってきた。

 鈍い痛みだった。私は、胸を押さえた。

 一歩下がった彼が、駆け寄ろうとするのが見えた。

「アホ。何してんの。はよ逃げ。はよ」

「自分、死んでしまうやないか」

「殺しに来たんやろ。それで、ええの」

「待っとれ。すぐ、救急車呼ぶから」

「奥様」とメイドが、顔をのぞかせた。

「奥に行ってて。そう言ったはずよ。用があれば、呼びます」

 メイドは、再び、姿を消した。

「殺す気なんかなかったんや。一緒に来て欲しかっただけや」

 彼が、私を抱くのがわかった。

「何してんの。こけた言うたげる。はよ逃げなアカンやん」

「こんなつもりやなかった」

「アホ」

 意識が消えた。




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