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道化  作者: まきの・えり


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1/5

初めてワープロを買って、練習しようと思って、できた作品。

ワープロが作者かもしれない。

「それで、また、フォーカスされましてん」

 何となく頼り無い感じのするお笑いタレントだった。多分、芸風なのだろう。おかしな出会いだ。


「ほんまに、最近は、素人のほうが、芸がうまいわ。もっとやって。勝手にやってて」

 テレビの公開番組だった。私は、緊張を通り越し、むしろ逆上していた。テレビに映るのなど、もちろん、初めてだった。それに、以前から、坂田とんびのファンでもあったので、誰よりも目立ちたい、という気持ちもあった。

 彼に向かい合ったとたん、自分の中から、もう一人の自分が抜け出したように感じた。

「あんた、ほんまに素人か?」

 ステージの上で跳ね回る私を見て、彼は尋ねた。

 観客が笑っているのが見える。おもしろそうに、大きな口を開けて笑っている。

 私は、笑っていなかった。

 とんびも、笑っていなかった。

『そうか。彼は、いつも、こんな目で、笑っている客を見ているのだ』

「あんた、もう、家、帰ったら、離婚されるで」

「おとうちゃーん、これ、やらせやでー。本気にしたら、アカンよー」

「もう、負けるわ。この人、子供三人いてまんねんで」

「一人は、とんびちゃんにソックリなんです。おとうちゃん、ごめんねー。嘘やでー。とんびとテレビ局が言わすねんでー」

「もう、帰って。僕、失業するわ。きっと、うちの社長がスカウトに行くから、待っときや」

「何やの、馬鹿にして。私かて、スカートくらい持ってるわ!」

「よろしいな、素人さんは。こんなギャグで、笑てもらえるんやから」

 とんびだけは、笑っていなかった。今でも、あの時のとんびの表情が目に浮かぶ。目が、マジに真剣だった。


 仕事の終わった後、彼は、不機嫌な顔で、私を見ていた。

 私を待っていたのかもしれない、と思うと、心臓が急にドキドキし始めた。

「このまま帰れる思たら、間違いやで」と彼は言った。

「うれし! 誘てくれはるの?」

 とんびは、まじめな顔をしていた。

「あんた、ほんまに、家族いるんやろ?」

「モチやわ。子供かって、三人いるわ」ととんびのギャグを繰り返した。

「かまへんのかいな」

「別に、かまへん。子供も、もう大きいねんよ。旦那は、いつも遅い。帰ってくるかどうか、わからへん」

「浮気でもしてるんか」

「そんなん違う。仕事が恋人やねん。昔からそうや。私は、別に、どうでもいい奥さんやねん」

 目の端に、ちょっと涙がにじんだ。それを隠すために、私は、横を向いた。とんびが心配そうに、私を見ているのがわかった。


「そんな話、聞きた無いわ。舞台の時みたいに、おもろいこと言えや」

「あれは、世をしのぶ仮の姿や。これが、ほんまもんの、わ、た、し」

「パーッと飲みに行こか」

「行こ、行こ」

「ほんまにかまへんのか? 変なことするかもしれへんで」

「キャ、うれしい。変なことやて。変なことて、どんなことやろ。変なことなんか誰もしてくれへん。変なこと、して欲しい」

「僕、一人で帰るわ。怖なってきた。あんた、見かけによらず、どぎつい女やねんな。パッと見たとこ、ええとこの奥さんに見えるのに」

「私、見かけ倒しやねん。欲求不満のおばさんやねん。どこでも、とんびちゃんの好きなとこ、ついていく」

「あと、送ったるわ、早い目に」

「帰らへんでもいいよ」

「そんなん、こっちが困るわ。頼むから、帰ってくれよ」

 彼は、行きつけらしい何軒かの店を回った。

「とんびちゃん、どこの奥さん連れてんの? また、フォーカスされるで」

「フォーカスしてもらお思て、付き合うてもらってるんですわ。そや、まだ、名前も知らんかったわ」

 楽しかった。彼は、どこに行っても、人気者だった。すぐに、人を笑わせようとする。

「よう、疲れへんね。普通、仕事で人笑わす人間は、普段、無口やねんよ」

「性格やから、しゃーないやろ。ほっといてくれ」

「とんびちゃん、それだけ人間が優しいんやわ」

「突然、褒めんといて。気色わるい。もっと飲み。ええとこ、連れてったるから」

「あのね、とんびちゃん、私、お酒、強いねんよ。なんぼ飲んでも、酔わないの」

「かなん女やなあ。どないしたら、ええんやろ。えらいことなるんと違うやろか」

「大体、酔うてから何かしよう思うんが、きたないんと違う? かまへんやん、しらふでも」

「あかん。こっちの方が酔うてきた」

「だらしないなあ。どこでもいいから、行こ」

 ロマンチックとは程遠いロマンスだ。いや、スキャンダルかな?

『その時』が、本当にやって来るなんて、やって来た後でも、信じられない気持ちだった。

「何か知らんけど、あんたとは離れられへん気がする」

 二人で並んで横になったまま、彼が言った。

 快楽の名残が、身体中に残っていた。

「私が、いい女やから? 嬉しいわ」

「茶化すんは、やめーや。あんたは、何でも、本気と違うやろ」

 とんびのまじめな顔は、何だか物哀しかった。

「とんびちゃん、ほんまは、ものすごい真面目なんと違う?」

「いやな女やなあ。主人の気持ちが、わかるわ」

 言ってしまってから、彼が、慌てているのがわかった。

「今の嘘でっせー」と彼は、ふざけた。

「ええのに」と私は言った。

「そんなに優しいと、自分が損するだけやのに。捨てられても、嫌われても、だまされても、別にかまへんのに」

「そんな生き方、やめとけや。僕にできることやったら、何でもしたる」

「ほんと? じゃ、もう一回」

「ほんまかいな。僕、終いに死ぬんちゃうやろか」

「若いんやから、大丈夫やて。死なへん死なへん。死ぬ時は、一緒に死んだげる」

「ほんまか?」彼は、また、まじめな表情を見せた。

「ほんまに、約束できるんか?」

「約束したいんやったら、してもええよ」

「ほな、約束や」

 彼は、突然、「ゆーびきりげんまん、うそついたら、はりせんぼん、のーます」と調子外れに、歌い出した。

 私は、笑った。

「僕といる時は、いっつも笑っててや。笑ってたら、中学生みたいや」

「中学生なんかいややわ。せめて高校生にして。いつか、セーラー服、着てあげる」

「平気でどぎついこと言うんやな。僕、そんな変態、違うで。いつも言うてんのは、仕事やからや」

「うそ、うそ。仕事にかこつけて、言うてんのや。私は、変態やねん。そのうち教えてあげる。ろうそくたらしたり、むち持ったり」

 私は、彼の顔を見て、再び、笑った。

「うそ、うそ。私は、普通のおばさんや。口年増やねん」

「普通のおばさんと、今度、いつ会える? 『いつか』なんか言うても、あかんで」

「毎日、楽屋に通ったげる」と言ってから、私は、言い直した。

「とんびちゃんの言うとこに通ったげる。心配せんでも、とんびちゃんの迷惑になること、せえへんわ」

 言いながら、彼と私との距離を感じていた。

 一夜きりの相手と思われても、仕方がないのだ。

彼は有名人で、私はファンの一人にすぎないのだから。

「フォーカスなんか、怖いことないわ。こっちから、売り込んだる」

「無理して。いいやん、適当に会うたら。そういう運命やったら、また会えるわ」

「運命なんか信じてるんか? そんなもん信じて、どないするんや。運命も、神さんも、何にもしてくれへんわ。自分のことぐらい、自分で決められんと、どないするんや。神さーん、バチだけ当てんといてくださいねー」

 彼は、ジッと私を見た。

「一緒に暮らしても、かまへんねんで」

「ふふ、嬉し。邪魔にならへん女やからかな。おらんようになったらええな、思たら、すっと、おらんようになってあげるわ」

 彼は、怒ったように、私に鍵を渡した。

「僕のマンションの鍵や。場所、教えとくし、好きな時に、来たらいいわ」

「それで、じーっと、とんびちゃんが帰って来るの、待ってんの? そんなん、いややわ。そんなん・・・」

 今と、一緒やわ。

「自分の家に、押しかけるわけには、いかんやろ」

「かまへんよ。来てくれても。亭主は、大抵おらへんし、子供は、別棟に住んでるし」

「えらい金持ちみたいやな」

「亭主はね。私のお金なんか、一円も無いわ。みな、亭主のものばっかりや。私のものなんか、何にもあらへん」


 家に着いたら、夜が明けかけていた。珍しく、夫が家に帰っていた。

「朝帰りとは、いい身分だね」と夫が言った。

「ごめんなさい。お帰りにならないと思っていたから」

 夫は、読みかけの書物に視線を戻し、それきり、会話は途絶えた。

 いつものことだ。

「おやすみなさい」

「おやすみ。もうじき出掛けるから、起きなくても、かまわないよ」

 なぜ、何のために、同じ家に住んでいるのだろう。

 空気のような存在と言えば、聞こえはいいが、お互いに、相手は何の意味ももっていない。

 一度結婚したという事実があるだけだ。

 別れるだけの理由もエネルギーも無い。

 生活自体は、可もなく不可もなく、流れていく。

 情熱も何もない、死んだような生活。

 不足を言う根拠すら、どこにも見つからない。

 先祖譲りの広大な敷地。

 近代的な住居。

 快適な暮らし。

 何もする必要がない。

 親の決めた理想の結婚相手。

 すぐに、二人の子供の母となった。

 無我夢中の十数年は、またたきする間に、過ぎていった。

 二人の子供も中学生。私とは共有できない世界に行ってしまった。

 夫は、仕事が恋人だ。家には滅多に寄りつかない。いつまで立っても、他人行儀な私達。

 夫が傍らにいると、息が詰まりそうになる。

 会話は少しも弾まない。

 夫の心は、仕事に占められていて、私のはいりこむ隙間も、無い。

 共通の話題も、どこかに行ってしまっている。

 夫には私が見えないし、私にも夫がわからない。

 広い家は、まるで、誰か他人の住居のようだ。私の居場所は、どこにもなかった。

 あてもなく、家中を徘徊する生活にも疲れてきた。

 肌の衰えと、年齢的な焦りが、私を何かに駆り立てる。

 何でも、いい。どんなことでも。

 もう、私には、失うものなど、何も無いのだから。


「今に、ばちが当たるわ」と母は言っていた。

「旦那さんのどこが気にいらへんの。あんな人あたりのいい、腰の低い人、いてはらへんで。女遊びするわけやなし、お酒飲んで暴れるわけやなし。ようけ稼いでくれはるわ、あんたの言うこと、何でも聞いてくれはるわ、言うことないやないの。一体、何が、不満やの?」

「夫婦生活もないねんよ」

「何や、そんなこと言うてんのかいな。それは、女の責任やで。あんたの努力が足りへんねん。うちの人なんか、三日もせえへんかったら、鼻血、出さはったわ」

「誰も、お父ちゃんの話なんか、聞いてへんわ。私、絶対、浮気するから」

「何や、前も、そんなこと言うてたなあ。やめとき、やめとき。浮気なんか、何もええことないで。それに、人妻と浮気なんかする男に、ろくな者、いてへんで。そんなんより、旦那さん、大事にして、何かええもん買うてもらい。そのほうが賢いで」

「私、賢いことないねん。あほで、ええねん」

「私かてな、一回くらい浮気したろ思てたけど、お父ちゃん、愛してたから、とうとう出来へんかった。今さら、他の男、気持ち悪いわ」

「お母ちゃんなんかに言うたんが間違いやった。今度、テレビに出るねんよ。私の書いたコント、採用されてん。とんびが出てる番組やねん。とんびと浮気でも、したろかな」

「何やの、そのとんびたら言うん」

「坂田とんびやん。今、人気あるねんよ。お母ちゃん、遅れてるわ」

「何や。芸人か何かやろ? やめとき、芸人みたいなもん。そんなもん、やくざやで」

「もう、お母ちゃんとは、口きかへんわ。私、とんびのファンやねん」

「私は、ずっと喜多村一郎さんのファンや。女学生の時からや」

「古いなあ。もう、死なはったんと違うの?」

「あほなこと、言わんといて。まだ、生きてはるわ。テレビなんか、滅多に出て来はれへんけど、ちゃんとレコード出したはるわ。この前、コンサート、行って来たんよ。やっぱりステキやった。ポーッとなってしもたわ。今日びのチャラチャラした若い歌手とは比べもんにならへんわ」

「お母ちゃん、若いねんな」

「そうや。まだ、現役やもん」

 母は、第二の青春を楽しんでいる。

「なんせ、戦争中は、青春なんか、あらへんかったもんなあ」というのが、母の口癖だ。

 私は、戦争を知らない。

 パーッと派手に戦争でも起こって、何もかも灰になってしまえばいい、と無責任に思う。

 戦争には、花火のイメージがある。

 ドカンと爆発して、後に何も残らない。

 これが、核戦争世代の戦争観だ。

 地球も月も太陽系も、何もかもが無くなってしまう。

 幸福も不幸も、その時には、平等に消滅するのだ。

 私の目には、荒涼とした、世紀末的な砂漠が見える。

 全てが灰になり、その灰が、何らかのエネルギーの余波に、ゆらゆらと蠢いている。

 どの灰も同じだ。同じ質量を持っている。

 あなたの灰も、私の灰も、無い。

 永遠の平和。

 人類の切望し続けたことが、人類の死に耐えた後に、訪れる。

 アイロニー。

 その時、私は、何らかの思念の波となる。

『思い』となって、灰を見つめ、『思い』となって、宇宙の彼方に飛び去ろう。


「約束破り」ととんびは、言った。

「毎日来る、言うたやろ。針千本、飲ましたろか」

「そやから、来たやん」

「服、脱げ」

「そんなとんびちゃん、嫌いやわ」

 彼は、乱暴に、私の衣服を剥ぎ始めた。

 あちこちが、悲鳴をあげるような音を立てて、裂けていった。

「今日は、家、帰らさへんぞ。明日も明後日も、帰してやらへん。どんだけ待ってた思てんねん」

「いや、嬉し。忘れてはるか、思た」

 彼は、性急だった。急激に感情が高まった。

 彼のマンションの中だ。

 頭の中が、真空になっていく。

 快感と呼ぶのもおぼつかない、激しい感覚に満たされていく。

 私の両眼からは、悲しみのためではない涙が流れた。

「離れられへん」と彼は、言った。

「主人と別れてくれ。僕と一緒に住んでくれ。自分が、また、他の男のいる家に帰っていくかと思うと、気が狂いそうになる」

 私は、ぼんやりと微笑んでいた。

 快楽のために、頭がハッキリしなかった。

「自分は、何にも考えてへんやろ。考えてるのは、これのことだけやろ」

 彼は、再び、私の上になった。去りかけていた快楽が、引き返してきた。さっきよりも、もっと深い感覚が、私を襲う。

「あ、もう、だめ・・・」

 彼は、私の髪をつかんでいた。

「噛んで」と私は叫び、彼は、おそるおそる、私の肩を噛んだ。

「もっと強く。あなたの跡をつけて」

 彼は、両腕で私を抱いていた。指で、私の肩を撫でている。

「ごめん。ほんまに、跡、つけてしもた。つい、興奮して。困るやろ」

「困らへん。次、会う時まで、大事にしとく」

「次、会う? 帰さへん、言うたやろ」

 ふふ、と私は、笑った。

「もう、私が帰ること、知ってて言うてる。帰さへんのやったら、何で、噛んだこと、心配するん?」

「そやな」と彼は、言った。

「あんたは、賢いわ。僕と家庭を両立させるつもりやな。好きにし。そのかわり、毎日、自分の家の周り、うろついたるわ」

「嬉し! ほんまに、うろついてくれる?」

「変わってるわ、自分は」

 車で送る間、彼は、私の破れた服を、気にかけていた。

「かまへん、て言うてるでしょう」

「ちょっと待ってて」

 彼は、途中で、車を止めた。紙袋を抱えて、走って戻ってきた。

「多分、似合うで、これ」

 彼は、嬉しそうに、ピンクのワンピースを取り出した。

「派手やわ。それに、きっと、サイズが合わへんわ。おばさんサイズでないと、アカンのよ」

 しかし、その服は、あつらえたように、ピタリと身体にフィットした。

「まかして」と彼は、得意そうに言った。

「さすがやね、とんびちゃん」

「あかん。ムラムラしてきた」

 車が、脇道に止まった。

「私、いやよ、こんな所で」

「こんなとこやから、ええんやないか」

「絶対に、いや」

 彼は、私の顔を見て、諦めた。

「どこでも、同じことやろ」と彼は、不服そうに言った。

「おんなじと違う。そんなとんびちゃん、嫌いや」

「見られるんが、心配なんか?」

 私にも、わからない。多分、もう、欲望が残ってはいないのだ。

 家の近くで、車から降りる時、私は、彼に口づけた。彼は、じっと私を見ていたが、強い力で、私の身体を引き寄せた。

「平気で帰れるんか。何とも思わへんのか」

「愛してる。大好き」

 私は、もう一度、彼にキスをした。

「悪い女や」と彼は、つぶやいた。

 ウキウキして、家に帰ると、夫が待っていた。

「お帰りなさい。今日は、早いんやね」

「下品な言い方をするな」と夫が言った。

夫は、関西のことばが嫌いだった。

 関西の生まれだが、母親は、関東の人間だったのだ。

 この大阪で、関西弁を否定して、暮らしている。

「あの下品なアクセントを聞くと、頭が痛くなる」と言っていた。

 私には、関西も関東もなかった。

 どちらのアクセントも使うことができた。

 つまり、自分のことばというものが、どこにもないのだ。

 ことばになど、嫌悪も愛着もない。

 ことばは、単なる記号だ。

 意思を伝達する一手段にすぎない。

 それも、あまり上等ではない手段だ。

 思いは、ことばの隙間から、ボロボロとこぼれていくのだから。

「坂田とんびと交際があるんだってね」

 夫のことばからは、何の感情も読み取れなかった。

「よく知っているのね」と私は、答えた。

「あなたの仕事にさわるのなら、やめてもいいのよ」

「君の好きにすればいい」と夫は、言った。

「君の人生なんだから、君が決めればいいことだ」

 一度に、疲れが出るのを感じた。

「おやすみなさい」

 眠ることが、出来なくなった。

 一人で寝るのは、淋しかった。

 最初の子供が生まれて以来、私達は、寝室を別にしていた。

 夫にとって、私は子供の母だったのだ。

 子供の小さいうちは、それでもよかった。

 子供達は、私の孤独を補って、余りある存在だった。

 私は、子供達を、愛した。


 下の息子が中学生になった時、夫は、子供達のために、別棟を建てた。

 子供の独立心を養うためだそうだ。

 子供達が、夫の意見に賛成した時、私の『刑』は、確定した。

 無期懲役。

 人としての喜びの剥奪。

 永遠の牢獄生活。


「なにぜいたく言うてんの。私ら、家のローンで、ひいひい言うてんのに。子供さんらも一流の私立に行ってはるし、よう出来はるんでしょう? 私ら、家のことから、学校のことから、全部やって、その上、パートに出んと食べていけへんのよ。カルチャー・センターかなんかに通わはったらいいのと違う? ようするに、暇なんやわ」

「そうや。暇は確かや。何でも、お手伝いさんが、してくれはるし」

「一度、そんな生活してみたいわ」

「私も、一度、代わってみたいわ」

「そやけど、私のしてるような生活、由紀江さんには、絶対無理やわ」

「なんでやの?」

「由紀江さんて、ぜいたくが当たり前や、思たはるから」

 誰とも、ことばが通じない。


「それがまた、三十過ぎのえらいおばはんですねん。家まで押しかけてきて、炊事・洗濯したい言うんですわ。僕かて、選ぶ権

利ありますねんで。『頼むから帰って』言うて、帰ってもろたとこを、フォーカスされましてん。どうせフォーカスされるなら、もっと前途ある若者とされたい・・・」

 彼が、熱演していた。

 テレビに映る観客は笑い転げている。

 私は、テレビの画面から視線をそらした。

『三十すぎのおばはん』

『炊事・洗濯』

『若い女』

 私の被害妄想だ。

 彼にとっては、仕事なのだ。

 しかし、フッと、彼が遠くに行った。

 夕方近く、彼のマンションの周りをうろついた。鍵はあるのだ。中に入って、待てばいいのだ。

 しかし、私には、マンションの中に入る勇気がなかった。

 私の傍に車が止まった。

 見慣れた車だった。

 私は、じっと、彼が車から降りてくるのを見ていた。

 彼は、私を見て、立ち止まった。

 車の中には、若い女の姿があった。

「部屋で待ってて」と彼は、私の耳元でささやいた。

「あの子、送ってくるから」

「彼女?」と私は、尋ねた。

 声が微かに震えるのを感じていた。

「そんなんと違う」と彼は、平静に言った。

「仕事の仲間や。じゃ、行ってくるわ」

 彼は、再び、車に乗り込んだ。

 女の子に微笑みかけている彼は、見知らぬ若い男のように見えた。

私は、二人に背を向けて、歩き去った。

 心の中の空洞が、以前より、存在を主張する。

 しばらく歩いていると、気分が晴れてきた。

 一台の車が、私の横に止まった。ドアが開き、中から腕が伸びてきた。

 アッと思う間に、私は、車の中にいた。

「助けてー。誘拐犯だ」と私は叫んだ。

「何で、待ってへんかった」と彼が言った。

「自分、人の気持ち、考えたことないんやろ」

「何か、おもしろいこと、言うてよ」

「こんな時に、おもしろいことなんか言えるか。捜し回ったんやぞ」

 涙が頬を伝った。

 嬉しかった。

「私を捜してくれる人も、いるねんね」

「そら、あほな男、どこにでもいるわ。あほな男に、心配さすな」

 彼の腕の中は、温かくて安全な国だ。

「このまま寝てしまいたい」

「かまへんで、寝ても。大事に連れて帰ったる」

「あの子、いくつ?」

「あの子て、さっきの子か? 十八や、言うてたわ」

「若いんやね。私と倍も違う」

「何、気にしてんねん。僕とかて、それぐらい違うわ」

「えらいさば読んで」

「あんなん、ほんまの子供やないか」

「でも、じき大人になるわ。とんびちゃんが、大人にするのかもしれへん」

 彼の部屋は、殺風景だ。

 必要最小限の家具しかない。

 部屋に入ったとたん、彼は、私を強く抱いた。

 熱い息が、私の耳を暖めた。

「ほら、捕まえた。もう帰さへん」

 彼の肉体は若く、激しく私を愛した。その度に私の感覚は深まり、全てが快楽の淵に投げ込まれた。

 時折、意識が薄れた。

「びっくりした」と彼は、言った。

「死んでしもたか、思た」

「新聞記事が、目に浮かんだでしょう?」

 私は、かすれた声で、言った。

「おもろい。それ、今度、使お」

「いい気持ち。このまま、死んでしまいたい」

「もう一遍、死なしたろか」

 若い肉体は、疲れを知らない。

 完全に意識がなくなった。

 彼が、心配そうに、私の顔を覗き込んでいた。

「よかったあ。今度こそ、ほんまもんや思た」

「あなた、好きだわ」

 私は、彼の顔を撫でた。

「何や、その気色悪い言い方」と彼は言った。

「そんなん、行かずの東京弁、言うて、馬鹿にされるんやで、なんて言っちゃったりして」

 私達は、しばらく、関西のことばと関東のことばをチャンポンにして、笑い転げた。

「自分、主人のこと、好きなんやろ」と彼が言った。

「さっき、主人の名前、呼んでたで」

 意外だった。

「そんなん、嘘やわ」

「嘘、違う。けったいな発音で、呼んでたわ」

「困ったな」

「そんなこと、こっちが言いたいわ。主人なんか別れさせたろ、思てたのに。うまいことフォーカスされて、大・大・大スキャンダルにしたろ、思てた。予定が狂う」

「何でも、大きいのんが好きやわ。私、大・大・大スキャンダル、大好き。かまへんから、予定通りやって」

 彼は、じっと、私の顔を見た。

「好きな主人と、ごっつい家住んで、何が不満やねん」

「何もかもや」

「何もかもか。付き合いきれへんな。主人とさえ別れたら、自分は幸せになれるもんや、思てたわ」

「甘かったな」

 私は、笑った。

「あんたは、無手勝つ流やな。自分は、何にも失わへん」

「何にもないもん。失いようがない」

「わがままや。苦労したことないんやろ。そやから、他人の気持ちもわからへん。自分の気持ちもわからへん」

「捨てんといて。捨てたらいやや」

 坂田とんびは、私の髪をつかんだ。

「引きずり回してやりたいわ。殴り殺してやりたいわ。何もかも、遊びやねんな。人の心を弄んで、楽しんでるんやな。退屈で退屈で、どうしようもないんやろ」

「生きてることは退屈や。何も、面白いことない。死んでしまうほどの情熱もないし、空気になりきるほど、偉いこともない」

「かわいそうやな」

「かわいそうやろ? とんびちゃんに捨てられても、きっと、同じように生きていくんやわ」

「僕が捨てるんと違う。自分は、最初から、人生、捨ててるんや」

「帰るわね、もう会いたくないわ」

「帰れ。顔も見たないわ」

「笑って別れようよ。楽しかったやないの」

「何が楽しいねん。もう最後や。家まで送ってったるわ」

「いらん。送られるん、嫌いやわ」

「送る」

「送られたない」

「送って行く」

 マンションのドアを開けると、閃光が目に飛び込んできた。

 カメラのフラッシュだ。

「あほう。もう、遅いわ」と坂田とんびが、叫んだ。

 自分が無意識のうちにポーズを取っているのに、気がついた。

 やっと、待ち望んだ日がやってきた。

 自分の周りの世界が、カタカタと崩れていくのが、見えた。



ワープロ一号君、ありがとう。

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