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初めてワープロを買って、練習しようと思って、できた作品。
ワープロが作者かもしれない。
「それで、また、フォーカスされましてん」
何となく頼り無い感じのするお笑いタレントだった。多分、芸風なのだろう。おかしな出会いだ。
「ほんまに、最近は、素人のほうが、芸がうまいわ。もっとやって。勝手にやってて」
テレビの公開番組だった。私は、緊張を通り越し、むしろ逆上していた。テレビに映るのなど、もちろん、初めてだった。それに、以前から、坂田とんびのファンでもあったので、誰よりも目立ちたい、という気持ちもあった。
彼に向かい合ったとたん、自分の中から、もう一人の自分が抜け出したように感じた。
「あんた、ほんまに素人か?」
ステージの上で跳ね回る私を見て、彼は尋ねた。
観客が笑っているのが見える。おもしろそうに、大きな口を開けて笑っている。
私は、笑っていなかった。
とんびも、笑っていなかった。
『そうか。彼は、いつも、こんな目で、笑っている客を見ているのだ』
「あんた、もう、家、帰ったら、離婚されるで」
「おとうちゃーん、これ、やらせやでー。本気にしたら、アカンよー」
「もう、負けるわ。この人、子供三人いてまんねんで」
「一人は、とんびちゃんにソックリなんです。おとうちゃん、ごめんねー。嘘やでー。とんびとテレビ局が言わすねんでー」
「もう、帰って。僕、失業するわ。きっと、うちの社長がスカウトに行くから、待っときや」
「何やの、馬鹿にして。私かて、スカートくらい持ってるわ!」
「よろしいな、素人さんは。こんなギャグで、笑てもらえるんやから」
とんびだけは、笑っていなかった。今でも、あの時のとんびの表情が目に浮かぶ。目が、マジに真剣だった。
仕事の終わった後、彼は、不機嫌な顔で、私を見ていた。
私を待っていたのかもしれない、と思うと、心臓が急にドキドキし始めた。
「このまま帰れる思たら、間違いやで」と彼は言った。
「うれし! 誘てくれはるの?」
とんびは、まじめな顔をしていた。
「あんた、ほんまに、家族いるんやろ?」
「モチやわ。子供かって、三人いるわ」ととんびのギャグを繰り返した。
「かまへんのかいな」
「別に、かまへん。子供も、もう大きいねんよ。旦那は、いつも遅い。帰ってくるかどうか、わからへん」
「浮気でもしてるんか」
「そんなん違う。仕事が恋人やねん。昔からそうや。私は、別に、どうでもいい奥さんやねん」
目の端に、ちょっと涙がにじんだ。それを隠すために、私は、横を向いた。とんびが心配そうに、私を見ているのがわかった。
「そんな話、聞きた無いわ。舞台の時みたいに、おもろいこと言えや」
「あれは、世をしのぶ仮の姿や。これが、ほんまもんの、わ、た、し」
「パーッと飲みに行こか」
「行こ、行こ」
「ほんまにかまへんのか? 変なことするかもしれへんで」
「キャ、うれしい。変なことやて。変なことて、どんなことやろ。変なことなんか誰もしてくれへん。変なこと、して欲しい」
「僕、一人で帰るわ。怖なってきた。あんた、見かけによらず、どぎつい女やねんな。パッと見たとこ、ええとこの奥さんに見えるのに」
「私、見かけ倒しやねん。欲求不満のおばさんやねん。どこでも、とんびちゃんの好きなとこ、ついていく」
「あと、送ったるわ、早い目に」
「帰らへんでもいいよ」
「そんなん、こっちが困るわ。頼むから、帰ってくれよ」
彼は、行きつけらしい何軒かの店を回った。
「とんびちゃん、どこの奥さん連れてんの? また、フォーカスされるで」
「フォーカスしてもらお思て、付き合うてもらってるんですわ。そや、まだ、名前も知らんかったわ」
楽しかった。彼は、どこに行っても、人気者だった。すぐに、人を笑わせようとする。
「よう、疲れへんね。普通、仕事で人笑わす人間は、普段、無口やねんよ」
「性格やから、しゃーないやろ。ほっといてくれ」
「とんびちゃん、それだけ人間が優しいんやわ」
「突然、褒めんといて。気色わるい。もっと飲み。ええとこ、連れてったるから」
「あのね、とんびちゃん、私、お酒、強いねんよ。なんぼ飲んでも、酔わないの」
「かなん女やなあ。どないしたら、ええんやろ。えらいことなるんと違うやろか」
「大体、酔うてから何かしよう思うんが、きたないんと違う? かまへんやん、しらふでも」
「あかん。こっちの方が酔うてきた」
「だらしないなあ。どこでもいいから、行こ」
ロマンチックとは程遠いロマンスだ。いや、スキャンダルかな?
『その時』が、本当にやって来るなんて、やって来た後でも、信じられない気持ちだった。
「何か知らんけど、あんたとは離れられへん気がする」
二人で並んで横になったまま、彼が言った。
快楽の名残が、身体中に残っていた。
「私が、いい女やから? 嬉しいわ」
「茶化すんは、やめーや。あんたは、何でも、本気と違うやろ」
とんびのまじめな顔は、何だか物哀しかった。
「とんびちゃん、ほんまは、ものすごい真面目なんと違う?」
「いやな女やなあ。主人の気持ちが、わかるわ」
言ってしまってから、彼が、慌てているのがわかった。
「今の嘘でっせー」と彼は、ふざけた。
「ええのに」と私は言った。
「そんなに優しいと、自分が損するだけやのに。捨てられても、嫌われても、だまされても、別にかまへんのに」
「そんな生き方、やめとけや。僕にできることやったら、何でもしたる」
「ほんと? じゃ、もう一回」
「ほんまかいな。僕、終いに死ぬんちゃうやろか」
「若いんやから、大丈夫やて。死なへん死なへん。死ぬ時は、一緒に死んだげる」
「ほんまか?」彼は、また、まじめな表情を見せた。
「ほんまに、約束できるんか?」
「約束したいんやったら、してもええよ」
「ほな、約束や」
彼は、突然、「ゆーびきりげんまん、うそついたら、はりせんぼん、のーます」と調子外れに、歌い出した。
私は、笑った。
「僕といる時は、いっつも笑っててや。笑ってたら、中学生みたいや」
「中学生なんかいややわ。せめて高校生にして。いつか、セーラー服、着てあげる」
「平気でどぎついこと言うんやな。僕、そんな変態、違うで。いつも言うてんのは、仕事やからや」
「うそ、うそ。仕事にかこつけて、言うてんのや。私は、変態やねん。そのうち教えてあげる。ろうそくたらしたり、むち持ったり」
私は、彼の顔を見て、再び、笑った。
「うそ、うそ。私は、普通のおばさんや。口年増やねん」
「普通のおばさんと、今度、いつ会える? 『いつか』なんか言うても、あかんで」
「毎日、楽屋に通ったげる」と言ってから、私は、言い直した。
「とんびちゃんの言うとこに通ったげる。心配せんでも、とんびちゃんの迷惑になること、せえへんわ」
言いながら、彼と私との距離を感じていた。
一夜きりの相手と思われても、仕方がないのだ。
彼は有名人で、私はファンの一人にすぎないのだから。
「フォーカスなんか、怖いことないわ。こっちから、売り込んだる」
「無理して。いいやん、適当に会うたら。そういう運命やったら、また会えるわ」
「運命なんか信じてるんか? そんなもん信じて、どないするんや。運命も、神さんも、何にもしてくれへんわ。自分のことぐらい、自分で決められんと、どないするんや。神さーん、バチだけ当てんといてくださいねー」
彼は、ジッと私を見た。
「一緒に暮らしても、かまへんねんで」
「ふふ、嬉し。邪魔にならへん女やからかな。おらんようになったらええな、思たら、すっと、おらんようになってあげるわ」
彼は、怒ったように、私に鍵を渡した。
「僕のマンションの鍵や。場所、教えとくし、好きな時に、来たらいいわ」
「それで、じーっと、とんびちゃんが帰って来るの、待ってんの? そんなん、いややわ。そんなん・・・」
今と、一緒やわ。
「自分の家に、押しかけるわけには、いかんやろ」
「かまへんよ。来てくれても。亭主は、大抵おらへんし、子供は、別棟に住んでるし」
「えらい金持ちみたいやな」
「亭主はね。私のお金なんか、一円も無いわ。みな、亭主のものばっかりや。私のものなんか、何にもあらへん」
家に着いたら、夜が明けかけていた。珍しく、夫が家に帰っていた。
「朝帰りとは、いい身分だね」と夫が言った。
「ごめんなさい。お帰りにならないと思っていたから」
夫は、読みかけの書物に視線を戻し、それきり、会話は途絶えた。
いつものことだ。
「おやすみなさい」
「おやすみ。もうじき出掛けるから、起きなくても、かまわないよ」
なぜ、何のために、同じ家に住んでいるのだろう。
空気のような存在と言えば、聞こえはいいが、お互いに、相手は何の意味ももっていない。
一度結婚したという事実があるだけだ。
別れるだけの理由もエネルギーも無い。
生活自体は、可もなく不可もなく、流れていく。
情熱も何もない、死んだような生活。
不足を言う根拠すら、どこにも見つからない。
先祖譲りの広大な敷地。
近代的な住居。
快適な暮らし。
何もする必要がない。
親の決めた理想の結婚相手。
すぐに、二人の子供の母となった。
無我夢中の十数年は、またたきする間に、過ぎていった。
二人の子供も中学生。私とは共有できない世界に行ってしまった。
夫は、仕事が恋人だ。家には滅多に寄りつかない。いつまで立っても、他人行儀な私達。
夫が傍らにいると、息が詰まりそうになる。
会話は少しも弾まない。
夫の心は、仕事に占められていて、私のはいりこむ隙間も、無い。
共通の話題も、どこかに行ってしまっている。
夫には私が見えないし、私にも夫がわからない。
広い家は、まるで、誰か他人の住居のようだ。私の居場所は、どこにもなかった。
あてもなく、家中を徘徊する生活にも疲れてきた。
肌の衰えと、年齢的な焦りが、私を何かに駆り立てる。
何でも、いい。どんなことでも。
もう、私には、失うものなど、何も無いのだから。
「今に、ばちが当たるわ」と母は言っていた。
「旦那さんのどこが気にいらへんの。あんな人あたりのいい、腰の低い人、いてはらへんで。女遊びするわけやなし、お酒飲んで暴れるわけやなし。ようけ稼いでくれはるわ、あんたの言うこと、何でも聞いてくれはるわ、言うことないやないの。一体、何が、不満やの?」
「夫婦生活もないねんよ」
「何や、そんなこと言うてんのかいな。それは、女の責任やで。あんたの努力が足りへんねん。うちの人なんか、三日もせえへんかったら、鼻血、出さはったわ」
「誰も、お父ちゃんの話なんか、聞いてへんわ。私、絶対、浮気するから」
「何や、前も、そんなこと言うてたなあ。やめとき、やめとき。浮気なんか、何もええことないで。それに、人妻と浮気なんかする男に、ろくな者、いてへんで。そんなんより、旦那さん、大事にして、何かええもん買うてもらい。そのほうが賢いで」
「私、賢いことないねん。あほで、ええねん」
「私かてな、一回くらい浮気したろ思てたけど、お父ちゃん、愛してたから、とうとう出来へんかった。今さら、他の男、気持ち悪いわ」
「お母ちゃんなんかに言うたんが間違いやった。今度、テレビに出るねんよ。私の書いたコント、採用されてん。とんびが出てる番組やねん。とんびと浮気でも、したろかな」
「何やの、そのとんびたら言うん」
「坂田とんびやん。今、人気あるねんよ。お母ちゃん、遅れてるわ」
「何や。芸人か何かやろ? やめとき、芸人みたいなもん。そんなもん、やくざやで」
「もう、お母ちゃんとは、口きかへんわ。私、とんびのファンやねん」
「私は、ずっと喜多村一郎さんのファンや。女学生の時からや」
「古いなあ。もう、死なはったんと違うの?」
「あほなこと、言わんといて。まだ、生きてはるわ。テレビなんか、滅多に出て来はれへんけど、ちゃんとレコード出したはるわ。この前、コンサート、行って来たんよ。やっぱりステキやった。ポーッとなってしもたわ。今日びのチャラチャラした若い歌手とは比べもんにならへんわ」
「お母ちゃん、若いねんな」
「そうや。まだ、現役やもん」
母は、第二の青春を楽しんでいる。
「なんせ、戦争中は、青春なんか、あらへんかったもんなあ」というのが、母の口癖だ。
私は、戦争を知らない。
パーッと派手に戦争でも起こって、何もかも灰になってしまえばいい、と無責任に思う。
戦争には、花火のイメージがある。
ドカンと爆発して、後に何も残らない。
これが、核戦争世代の戦争観だ。
地球も月も太陽系も、何もかもが無くなってしまう。
幸福も不幸も、その時には、平等に消滅するのだ。
私の目には、荒涼とした、世紀末的な砂漠が見える。
全てが灰になり、その灰が、何らかのエネルギーの余波に、ゆらゆらと蠢いている。
どの灰も同じだ。同じ質量を持っている。
あなたの灰も、私の灰も、無い。
永遠の平和。
人類の切望し続けたことが、人類の死に耐えた後に、訪れる。
アイロニー。
その時、私は、何らかの思念の波となる。
『思い』となって、灰を見つめ、『思い』となって、宇宙の彼方に飛び去ろう。
「約束破り」ととんびは、言った。
「毎日来る、言うたやろ。針千本、飲ましたろか」
「そやから、来たやん」
「服、脱げ」
「そんなとんびちゃん、嫌いやわ」
彼は、乱暴に、私の衣服を剥ぎ始めた。
あちこちが、悲鳴をあげるような音を立てて、裂けていった。
「今日は、家、帰らさへんぞ。明日も明後日も、帰してやらへん。どんだけ待ってた思てんねん」
「いや、嬉し。忘れてはるか、思た」
彼は、性急だった。急激に感情が高まった。
彼のマンションの中だ。
頭の中が、真空になっていく。
快感と呼ぶのもおぼつかない、激しい感覚に満たされていく。
私の両眼からは、悲しみのためではない涙が流れた。
「離れられへん」と彼は、言った。
「主人と別れてくれ。僕と一緒に住んでくれ。自分が、また、他の男のいる家に帰っていくかと思うと、気が狂いそうになる」
私は、ぼんやりと微笑んでいた。
快楽のために、頭がハッキリしなかった。
「自分は、何にも考えてへんやろ。考えてるのは、これのことだけやろ」
彼は、再び、私の上になった。去りかけていた快楽が、引き返してきた。さっきよりも、もっと深い感覚が、私を襲う。
「あ、もう、だめ・・・」
彼は、私の髪をつかんでいた。
「噛んで」と私は叫び、彼は、おそるおそる、私の肩を噛んだ。
「もっと強く。あなたの跡をつけて」
彼は、両腕で私を抱いていた。指で、私の肩を撫でている。
「ごめん。ほんまに、跡、つけてしもた。つい、興奮して。困るやろ」
「困らへん。次、会う時まで、大事にしとく」
「次、会う? 帰さへん、言うたやろ」
ふふ、と私は、笑った。
「もう、私が帰ること、知ってて言うてる。帰さへんのやったら、何で、噛んだこと、心配するん?」
「そやな」と彼は、言った。
「あんたは、賢いわ。僕と家庭を両立させるつもりやな。好きにし。そのかわり、毎日、自分の家の周り、うろついたるわ」
「嬉し! ほんまに、うろついてくれる?」
「変わってるわ、自分は」
車で送る間、彼は、私の破れた服を、気にかけていた。
「かまへん、て言うてるでしょう」
「ちょっと待ってて」
彼は、途中で、車を止めた。紙袋を抱えて、走って戻ってきた。
「多分、似合うで、これ」
彼は、嬉しそうに、ピンクのワンピースを取り出した。
「派手やわ。それに、きっと、サイズが合わへんわ。おばさんサイズでないと、アカンのよ」
しかし、その服は、あつらえたように、ピタリと身体にフィットした。
「まかして」と彼は、得意そうに言った。
「さすがやね、とんびちゃん」
「あかん。ムラムラしてきた」
車が、脇道に止まった。
「私、いやよ、こんな所で」
「こんなとこやから、ええんやないか」
「絶対に、いや」
彼は、私の顔を見て、諦めた。
「どこでも、同じことやろ」と彼は、不服そうに言った。
「おんなじと違う。そんなとんびちゃん、嫌いや」
「見られるんが、心配なんか?」
私にも、わからない。多分、もう、欲望が残ってはいないのだ。
家の近くで、車から降りる時、私は、彼に口づけた。彼は、じっと私を見ていたが、強い力で、私の身体を引き寄せた。
「平気で帰れるんか。何とも思わへんのか」
「愛してる。大好き」
私は、もう一度、彼にキスをした。
「悪い女や」と彼は、つぶやいた。
ウキウキして、家に帰ると、夫が待っていた。
「お帰りなさい。今日は、早いんやね」
「下品な言い方をするな」と夫が言った。
夫は、関西のことばが嫌いだった。
関西の生まれだが、母親は、関東の人間だったのだ。
この大阪で、関西弁を否定して、暮らしている。
「あの下品なアクセントを聞くと、頭が痛くなる」と言っていた。
私には、関西も関東もなかった。
どちらのアクセントも使うことができた。
つまり、自分のことばというものが、どこにもないのだ。
ことばになど、嫌悪も愛着もない。
ことばは、単なる記号だ。
意思を伝達する一手段にすぎない。
それも、あまり上等ではない手段だ。
思いは、ことばの隙間から、ボロボロとこぼれていくのだから。
「坂田とんびと交際があるんだってね」
夫のことばからは、何の感情も読み取れなかった。
「よく知っているのね」と私は、答えた。
「あなたの仕事にさわるのなら、やめてもいいのよ」
「君の好きにすればいい」と夫は、言った。
「君の人生なんだから、君が決めればいいことだ」
一度に、疲れが出るのを感じた。
「おやすみなさい」
眠ることが、出来なくなった。
一人で寝るのは、淋しかった。
最初の子供が生まれて以来、私達は、寝室を別にしていた。
夫にとって、私は子供の母だったのだ。
子供の小さいうちは、それでもよかった。
子供達は、私の孤独を補って、余りある存在だった。
私は、子供達を、愛した。
下の息子が中学生になった時、夫は、子供達のために、別棟を建てた。
子供の独立心を養うためだそうだ。
子供達が、夫の意見に賛成した時、私の『刑』は、確定した。
無期懲役。
人としての喜びの剥奪。
永遠の牢獄生活。
「なにぜいたく言うてんの。私ら、家のローンで、ひいひい言うてんのに。子供さんらも一流の私立に行ってはるし、よう出来はるんでしょう? 私ら、家のことから、学校のことから、全部やって、その上、パートに出んと食べていけへんのよ。カルチャー・センターかなんかに通わはったらいいのと違う? ようするに、暇なんやわ」
「そうや。暇は確かや。何でも、お手伝いさんが、してくれはるし」
「一度、そんな生活してみたいわ」
「私も、一度、代わってみたいわ」
「そやけど、私のしてるような生活、由紀江さんには、絶対無理やわ」
「なんでやの?」
「由紀江さんて、ぜいたくが当たり前や、思たはるから」
誰とも、ことばが通じない。
「それがまた、三十過ぎのえらいおばはんですねん。家まで押しかけてきて、炊事・洗濯したい言うんですわ。僕かて、選ぶ権
利ありますねんで。『頼むから帰って』言うて、帰ってもろたとこを、フォーカスされましてん。どうせフォーカスされるなら、もっと前途ある若者とされたい・・・」
彼が、熱演していた。
テレビに映る観客は笑い転げている。
私は、テレビの画面から視線をそらした。
『三十すぎのおばはん』
『炊事・洗濯』
『若い女』
私の被害妄想だ。
彼にとっては、仕事なのだ。
しかし、フッと、彼が遠くに行った。
夕方近く、彼のマンションの周りをうろついた。鍵はあるのだ。中に入って、待てばいいのだ。
しかし、私には、マンションの中に入る勇気がなかった。
私の傍に車が止まった。
見慣れた車だった。
私は、じっと、彼が車から降りてくるのを見ていた。
彼は、私を見て、立ち止まった。
車の中には、若い女の姿があった。
「部屋で待ってて」と彼は、私の耳元でささやいた。
「あの子、送ってくるから」
「彼女?」と私は、尋ねた。
声が微かに震えるのを感じていた。
「そんなんと違う」と彼は、平静に言った。
「仕事の仲間や。じゃ、行ってくるわ」
彼は、再び、車に乗り込んだ。
女の子に微笑みかけている彼は、見知らぬ若い男のように見えた。
私は、二人に背を向けて、歩き去った。
心の中の空洞が、以前より、存在を主張する。
しばらく歩いていると、気分が晴れてきた。
一台の車が、私の横に止まった。ドアが開き、中から腕が伸びてきた。
アッと思う間に、私は、車の中にいた。
「助けてー。誘拐犯だ」と私は叫んだ。
「何で、待ってへんかった」と彼が言った。
「自分、人の気持ち、考えたことないんやろ」
「何か、おもしろいこと、言うてよ」
「こんな時に、おもしろいことなんか言えるか。捜し回ったんやぞ」
涙が頬を伝った。
嬉しかった。
「私を捜してくれる人も、いるねんね」
「そら、あほな男、どこにでもいるわ。あほな男に、心配さすな」
彼の腕の中は、温かくて安全な国だ。
「このまま寝てしまいたい」
「かまへんで、寝ても。大事に連れて帰ったる」
「あの子、いくつ?」
「あの子て、さっきの子か? 十八や、言うてたわ」
「若いんやね。私と倍も違う」
「何、気にしてんねん。僕とかて、それぐらい違うわ」
「えらいさば読んで」
「あんなん、ほんまの子供やないか」
「でも、じき大人になるわ。とんびちゃんが、大人にするのかもしれへん」
彼の部屋は、殺風景だ。
必要最小限の家具しかない。
部屋に入ったとたん、彼は、私を強く抱いた。
熱い息が、私の耳を暖めた。
「ほら、捕まえた。もう帰さへん」
彼の肉体は若く、激しく私を愛した。その度に私の感覚は深まり、全てが快楽の淵に投げ込まれた。
時折、意識が薄れた。
「びっくりした」と彼は、言った。
「死んでしもたか、思た」
「新聞記事が、目に浮かんだでしょう?」
私は、かすれた声で、言った。
「おもろい。それ、今度、使お」
「いい気持ち。このまま、死んでしまいたい」
「もう一遍、死なしたろか」
若い肉体は、疲れを知らない。
完全に意識がなくなった。
彼が、心配そうに、私の顔を覗き込んでいた。
「よかったあ。今度こそ、ほんまもんや思た」
「あなた、好きだわ」
私は、彼の顔を撫でた。
「何や、その気色悪い言い方」と彼は言った。
「そんなん、行かずの東京弁、言うて、馬鹿にされるんやで、なんて言っちゃったりして」
私達は、しばらく、関西のことばと関東のことばをチャンポンにして、笑い転げた。
「自分、主人のこと、好きなんやろ」と彼が言った。
「さっき、主人の名前、呼んでたで」
意外だった。
「そんなん、嘘やわ」
「嘘、違う。けったいな発音で、呼んでたわ」
「困ったな」
「そんなこと、こっちが言いたいわ。主人なんか別れさせたろ、思てたのに。うまいことフォーカスされて、大・大・大スキャンダルにしたろ、思てた。予定が狂う」
「何でも、大きいのんが好きやわ。私、大・大・大スキャンダル、大好き。かまへんから、予定通りやって」
彼は、じっと、私の顔を見た。
「好きな主人と、ごっつい家住んで、何が不満やねん」
「何もかもや」
「何もかもか。付き合いきれへんな。主人とさえ別れたら、自分は幸せになれるもんや、思てたわ」
「甘かったな」
私は、笑った。
「あんたは、無手勝つ流やな。自分は、何にも失わへん」
「何にもないもん。失いようがない」
「わがままや。苦労したことないんやろ。そやから、他人の気持ちもわからへん。自分の気持ちもわからへん」
「捨てんといて。捨てたらいやや」
坂田とんびは、私の髪をつかんだ。
「引きずり回してやりたいわ。殴り殺してやりたいわ。何もかも、遊びやねんな。人の心を弄んで、楽しんでるんやな。退屈で退屈で、どうしようもないんやろ」
「生きてることは退屈や。何も、面白いことない。死んでしまうほどの情熱もないし、空気になりきるほど、偉いこともない」
「かわいそうやな」
「かわいそうやろ? とんびちゃんに捨てられても、きっと、同じように生きていくんやわ」
「僕が捨てるんと違う。自分は、最初から、人生、捨ててるんや」
「帰るわね、もう会いたくないわ」
「帰れ。顔も見たないわ」
「笑って別れようよ。楽しかったやないの」
「何が楽しいねん。もう最後や。家まで送ってったるわ」
「いらん。送られるん、嫌いやわ」
「送る」
「送られたない」
「送って行く」
マンションのドアを開けると、閃光が目に飛び込んできた。
カメラのフラッシュだ。
「あほう。もう、遅いわ」と坂田とんびが、叫んだ。
自分が無意識のうちにポーズを取っているのに、気がついた。
やっと、待ち望んだ日がやってきた。
自分の周りの世界が、カタカタと崩れていくのが、見えた。
ワープロ一号君、ありがとう。




