失恋
渡してしまったあと、
私は何もできなかった。
家に帰っても、
テレビの音は頭に入ってこない。
お風呂のお湯が熱かったのか、
それともぬるかったのか、
今ではよく覚えていない。
ただひとつ、
もう戻れない、ということだけは、
はっきり分かっていた。
彼は、
何も言わなかった。
次に会ったときも、
前と同じように挨拶をして、
前と同じように笑った。
それが、
少しだけ怖かった。
——なかったことに、
されてしまうのかもしれない。
それから数日後。
学校から帰ると、
郵便受けに、小さな封筒が入っていた。
私の名前が、
丁寧な字で書かれていた。
見覚えのある、
あの人の字だった。
心臓が、
一度、大きく跳ねた。
部屋に戻り、
ランドセルも下ろさないまま、
私は封を切った。
中には、
小さな箱と、
折りたたまれた便箋が一枚。
クッキーだった。
きれいに包まれた、
いかにも「お返し」らしいそれ。
手が、
少し震えた。
便箋を開く。
そこに書いてあった文字は、
私が知っている、
あの人の字だった。
――――――
チョコレート、ありがとう。
とても嬉しかったです。
気持ちを伝えてくれて、
本当にありがとう。
でも、奈々はまだ子どもで、
俺はもう大人です。
今は、その気持ちを
大切に胸の中にしまっていてください。
奈々が笑っていられることが、
俺にとっては一番大事です。
これからも、
変わらず、奈々の味方でいさせてください。
僕は奈々のことを、
妹として大切に、
そして大好きだと思っています。
――――――
最後まで、
ゆっくり読んだ。
一文字も、
読み飛ばさなかった。
書いてあることは、
全部、優しかった。
否定は、
どこにもなかった。
「好きじゃない」なんて、
一言も、書いていない。
それなのに。
胸の奥が、
じんわりと痛くなった。
——選ばれなかった。
そういうことなんだと、
私は理解してしまった。
涙は、
すぐには出なかった。
クッキーの箱を机に置いて、
手紙をもう一度たたんで、
引き出しのいちばん奥にしまった。
ちゃんと、
大切に。
その夜、
布団に入って、
目を閉じたとき、
ようやく涙が出た。
声を出さないように、
布団を噛んで、
肩が揺れないように、
必死に耐えた。
優しすぎる言葉は、
ときどき、
拒絶よりも残酷だ。
逃げ道を残したまま、
前に進めなくする。
それが、
私の初めての失恋だった。
翌日、
私は何事もなかったみたいに学校へ行った。
友達と笑って、
授業を受けて、
給食を食べた。
誰にも、
何も言わなかった。
ただひとつ、
変わってしまったことがある。
私はもう、
子どもじゃなかった。
——少なくとも、
心だけは。




