クッキーと手紙
地元を離れてから、
私は少しずつ、
自分の生活を作っていった。
知らない街。
知らない人たち。
誰も、
私の過去を知らない場所。
最初は、
それが少しだけ寂しかった。
でも同時に、
とても楽だった。
「奈々」と呼ばれても、
そこに
“妹”の意味は含まれていない。
仕事をして、
失敗して、
笑って、
落ち込んで。
誰かの人生の「余白」じゃなく、
ちゃんと自分の足で立っている感覚があった。
友達もできた。
杏樹は、
地元が同じだった。
それだけで、
どこか安心できて、
気づけばすぐに仲良くなっていた。
「奈々ってさ、
無理してない感じがいいよね」
その言葉を聞いたとき、
胸の奥が、
少しだけあたたかくなった。
そんなある日、
彼に出会った。
特別な出会いじゃない。
ドラマみたいでもない。
杏樹が、
「合いそうだから」と
軽い調子で紹介してくれた人だった。
最初に思ったのは、
声が、
やけに落ち着いている人だな、
ということ。
同じ時間に、
同じ場所にいただけ。
ただ、それだけ。
でも彼は、
私の話を、ちゃんと聞いた。
過去を詮索せず、
未来を急かさず。
ただ、
「今の私」を
見てくれた。
「奈々はさ、
自分で思ってるより、
ずっと優しいよね」
その言葉を聞いたとき、
胸の奥が、
少しだけ熱くなった。
——守られる優しさじゃない。
対等に、
手を差し出される優しさ。
それが、
こんなにも安心するものだと、
私は初めて知った。
ある夜、
彼ははっきり言った。
「俺は、奈々を選びたい」
曖昧じゃない言葉。
逃げ道のない視線。
私は、
ちゃんと泣いた。
悲しい涙じゃない。
ようやく辿り着いた場所で、
張り詰めていたものが
ほどけていくような涙。
「……ありがとう」
それしか言えなかったけれど、
それで十分だった。
たまに、
しょう兄ちゃんから
LINEが来る。
「元気にしてるか?」
「最近、海行ってる?」
私は、
穏やかに返す。
「元気だよ」
「今は、ここが好き」
それはもう、
本当に、
兄と妹の距離だった。
初恋は、
叶わなかった。
でも、
無駄じゃなかった。
あの恋があったから、
私は知った。
——選ばれない苦しさも、
——それでも愛した
自分のことも。
そして今、
私はちゃんと選ばれている。
誰かの代わりじゃない。
誰かの影でもない。
ただ、
奈々として。
お兄ちゃんへの「好き」は、
きっと消えることはないのだろう。
でもそれは、
もう苦しい感情じゃない。
あの思い出と一緒に、
一生、
私の中で
大切にしまわれていく。
——バレンタインのお返しにもらった、
クッキーと、
あの手紙みたいに。




