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天文台の夜、輝朗の部屋を訪れた野口が“星暦盤の秘密”を告げる。 ―― 雪に閉ざされた観測室で、隠されていた戦場の真実が明かされる。 静寂の代償は、過去の記憶か、それとも未来の命か。

噂というものは、山あいの村においては雪のように静かで、しかし一夜の吹雪で谷を覆うほどに広がる。――星を読む先生に頼めば、悪夢を消してくれるらしい。夜ごと吹雪に閉ざされる谷で、その噂は暖炉の火にくべられた薪のようにぱちぱちと音を立て、あっという間に村人の間を駆け巡った。


最初に天文台の扉を叩いたのは、泣きはらした娘だった。恋に破れ、涙に濡れたまま眠れぬ夜を過ごしていた彼女は、盤の前に座らされると、力なく目を閉じた。翌朝、娘は嘘のように晴れやかな顔をして天文台を訪れた。しかし、その唇からは恋人の名は二度とこぼれなかった。誰と別れ、誰を愛していたのか――その記憶ごと霧散していた。


次に現れたのは、飢饉の責めを一身に負い、家族を餓死させてしまった老人だった。悔恨に押し潰され、己の胸を掻きむしりながら生きてきた老人は、盤に手を置き、後悔を述べた。その夜も泣きながら眠りに落ちたが、翌朝には穏やかな笑顔を浮かべていた。だがその瞳は空ろで、亡き娘の名を、二度と発することはなかった。


さらに、産後の不安に苛まれる若い母も訪ねてきた。夜ごと赤子の泣き声に怯え、眠れぬ日々を送っていた彼女もまた、盤に触れた翌朝には柔らかな笑みを浮かべて立ち上がった。しかし――その鼻は、自らの子と他人の子の匂いを区別できなくなっていた。


人々の心が軽くなるたびに、記憶は薄皮を一枚ずつ剥ぐように削がれていった。救いの影には、確実に「失われるもの」があった。


谷に広がった噂は、救済と恐怖の両方を孕みながら、静かに村を揺さぶっていった。


天文台を訪れる誰もが同じだった。「もう心配はいりません。悪夢は獣が喰らい、つらい記憶ごと消してくれるでしょう」輝朗(てるあき)の低い声が観測室に響くと、相談者の呼吸は落ち着き、涙に濡れた頬はすっと乾いていった。そして、翌朝になると、誰もが笑顔で礼を述べ、軽やかに去っていった。だが敦史は気づいた。――彼等の口から、親しい人の名がひとつも出なくなったことに。人の記憶がなければ、共に生き抜いた証や思い出の情景そのものも、記憶からだんだんと剥がれ落ちていくのだろう。記憶を失った人たちは、言葉数が少なくなっていった。


夕暮れ時の観測室で、輝朗はひとり失踪した野口の言葉を思い出していた。


――この地に来て間もない夜だった。輝朗が記録を綴っていると、野口が足音も荒く入ってきた。


「――やはりな!お前はこの呪具を扱えるのだな、相馬」


すぐ隣りで、野口が輝朗の盤を手にしていた。

焼けただれた頬に赤い燈火が影のように揺れていた。


「俺もこの盤を見た。上海で手に入れたのだろう?水沢は知っているのか」

「……いいえ。彼は何も知りません」

輝朗は感情を押し殺し、冷ややかに答えた。


その答えに、野口の口元が嬉しそうに歪む。


「俺も上海でこの盤の話を聞いた時は、実際に見るまでは冗談かと思ったさ。人の記憶を巻き取る呪具なんて、あるわけないと思った。しかし、実際に俺は、人の記憶を垣間見たんだ」


「……そうでしたか」


「星の配列を読める者は、この盤を操作できるというのは真実のようだな」


動じない輝朗に、野口は嗤うように言った。


「そうだ。水沢には俺から伝えてやろう。こんな呪具などを持つお前を、正義感の強いあいつはどう思うだろう?」


「――構いません。それに、望むなら、これは差し上げます」


輝朗は机の上に盤を押しやり、無表情に告げた。

だがその眼差しには、相手を突き放す冷たい光が宿っていた。


野口は挑発に乗り、貪欲に盤へ手を伸ばした。


「この盤を扱うには、呪式が必要です。野口さん……貴方なら、裏の文字を読めば簡単にわかるでしょう」

「これが……この文字が盤を動かす呪式か。……なんだ。星の配列と、文字を組み合わせれば良いだけじゃないか」


「……そのようです」


「やはり俺は選ばれし者だ!相馬。お前はこの呪式を俺に伝えるために盤を渡されただけだ。お前には、到底扱えまい」


野口が呪式をつぶやき、指先で刻印をなぞった瞬間、燈火が揺れ、赤い紋様が脈打った。一瞬、野口の顔から血の気が引き、瞳孔が震えた。


「――ここはどこだ?……そこにいる黒い影は何だ……!」


声は掠れ、観測室の空気が一気に凍りついた。


輝朗は静かに立ち上がり、背を向け、冷たく呟いた。

「その盤と共にここから出ていけ。二度とこの場に顔を出すな」


野口は盤を胸に抱いたまま、悲鳴を上げ「来るな!近づくな!」と言い残し、闇へ逃げ込むように去っていった。


それからの彼は「黒い影がいる」と譫言のように繰り返すばかりとなり、ある朝、彼の寝台に盤だけを残し、姿を消した。


夜の帳が下り、天文台の窓硝子が霜で白く曇っていた。灯を落とした観測室の奥で、輝朗はひとり、盤の上に指を滑らせていた。その指先は、迷子のように刻印をなぞり、触れるたびに血のような赤光が淡く瞬いた。


――野口が敦史にこの盤のことをどこまで話したかは分からない。だが、もうこの呪いの渦に彼を巻き込むわけにはいかなかった。

野口がいなくなった今、敦史を逃がしたい。

自分に失望して東京へ戻ってくれること――それだけが、彼を守る唯一の方法だった。


その時、扉が軋む音がして、敦史が入ってきた。

手には資料の束。

だが、その顔には言いようのない怒りが宿っていた。


「……輝朗、また、それを使っているのか」

「観測に必要だ。――お前には関係のないことだ」

「関係ない?野口さんが消えたのを、まるで何事もなかったみたいに言うのか!」


敦史の声が、冷えた室内に響いた。


それでも輝朗は顔を上げず、盤の上に視線を落としたまま、静かに言葉を返す。

「野口さんは――自ら望んで呼んだんだ。あの影を。俺たちにはどうすることもできない。柏木教授に黒い影を見せたのも、恐らく野口さんだ」

「じゃあ、お前は?輝朗。野口さんと同じ道を辿る気か?!」


沈黙が、まるで二人の心臓を射貫くように、空間を支配した。


その一瞬、盤の縁がかすかに脈打ち、赤い光が敦史の頬を照らした。まるで“盤”が、輝朗の代わりに呼吸しているかのようだった。


輝朗は息を整え、低く呟いた。


「……東京に戻れ、敦史。お前はここにいてはいけない」


「何を言ってる。俺たちは――」


「俺は、もうお前と同じやり方で人を救えない」


その言葉に、敦史は一瞬、息を呑んだ。目の前の親友は、どこか遠くを見ている。

手の中の盤を通じて、誰か“別の存在”と会話しているかのように。


「帰れ、敦史。……俺のそばから離れるんだ」


振り絞るような声。敦史の胸の奥に、長い裂け目が走った。

――友情が、崩れ落ちる音がした。


長い沈黙の後、敦史が口を開いた。


「輝朗。覚えておいてくれ。俺は、何があっても輝朗の手を離さない」

敦史の声は静かだったが、強い決意が込められていた。


その夜、天文台の外では雪が降り続いていた。

しかし室内の燈火は、誰もいないのに消えなかった。

盤の表面が、微かに光を放ち、呼吸していた。



敦史は、その後も輝朗の相談に立ち会い、一部始終を黙って見守った。

親友が人を救おうとしていることは理解できる。戦火の地獄を知るからこそ、他人に同じ苦しみを背負わせたくないのだろう。


だが――救済とは、本当に記憶を奪うことなのか。忘却とは、これまで積み重ねてきた証をも切り落とすことではないのか。


冷たい疑念が敦史の胸に巣を作った。それでも彼は沈黙した。親友を信じたいという思いだけが、彼を支えていた。



やがて敦史は、輝朗と共に相談に訪れる人々の声に耳を傾けるようになった。

皆が声を揃えて言った。

「先生のおかげで楽になった」と――。


確かに彼らは笑顔だった。だがその笑顔は、薄い和紙に描かれた絵のように、指で触れれば破れてしまいそうな危うさを帯びていた。


「輝朗、これは救いじゃない。人の魂を空にしているだけじゃないか」敦史の声は震えていた。


「空になれば人は従順になる。怨みも争いも消える。――理想の社会の始まりだと思わないか?」輝朗の言葉は静かに落ちた。


その指先は盤の刻みを撫で、燈火に照らされた線刻が微かに赤く揺らめいた。


「記憶を取り去り、平和を築くというのなら、それは心を空にした墓場と変わらない」


敦史の反駁に、輝朗は目を伏せて囁いた。


「――墓場ほど静謐で、美しい場所はないだろう?」


その瞬間、盤の裏に走る赤い亀裂が脈打つように光り、敦史の心臓を冷たく掴んだ。



→ 第五話「友情に刻まれる影」に続く

※次回の更新は毎週水曜日22:00頃を予定しております。


挿絵(By みてみん)

 この第四話を境に、物語は「静の章」から「動の章」へと移ります。

 盤の中で眠っていた“記憶”たちが、次第に形を取り戻し、

 星暦盤の真の目的が少しずつ姿を現していくでしょう。


 読んでくださった皆さまへ。

 この静かな夜の物語が、どこか心の奥に“音もなく沈む星”として残りますように。

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