始まり
天は二物を与えずと言いますが果たしてそれは信じて良い言葉なのか?はたまた二物とは良いものもあれば悪いものもあるかもしれない。
入学式が終わったばかりの教室は、まだ少し落ち着かない空気が漂っていた。
僕――天避奏は、出席番号1番。後ろの席には、2番の綾瀬陸が座っていた。
「なあ、天避って珍しい名字だな。なんか神様っぽい」
「よく言われるよ。よろしくな綾瀬」
陸は小柄で、どこか猫みたいな身のこなしをしていた。話してみると意外とよく喋る。
「俺は暑いの苦手だから、春とか夏は嫌いなんだよな。汗だくだぜ」
「牛乳も嫌いだし。給食で出るとテンション下がる。魚は好きだけどな。焼き鮭とか最高」
「へえ、意外。魚好きって渋いね」
「渋いって言うなよ。俺、将来は寿司屋とかいいかもって思ってるし」
そんな話をしているうちに、少しずつ教室の空気が馴染んできた。
春の光が窓から差し込んで、僕たちの新しい生活が始まった。
二日目の朝、僕は少し緊張していた。昨日よりも教室が騒がしく、みんなが少しずつ打ち解け始めていたからだ。
隣の席の岡本花さんは、静かに席についていた。僕が眠くて目を閉じそうになっていると、彼女が顔を近づけて僕に言った。
「天避くん、もうすぐ先生来るよ。寝ちゃうと怒られるかも」
「えっ、僕の名前……知ってるの?」
少しだけ、期待してしまった。
でも、彼女はただ記憶力がいいだけだったみたいだ。
「うん。隣の席だし、覚えておいた方がいいかなって。綾瀬くんも、後ろの加藤さんも覚えたよ」
「すごいね。僕、まだ半分も覚えられてないや」
「ふふ、慣れればすぐだよ。名前って、覚えるとちょっと楽しくなるよ」
岡本さんはそう言って、また静かに前を向いた。
その横顔が、なんだか心に刻まれてしまった。
放課後には部活について話した。
「部活、どうするんだ?」
陸が僕に聞いてきた。教室の後ろで、部活動案内のプリントを見ながら。
「僕は野球部に入ろうと思ってる。小学校のとき、少しやってたから」
「へえ、運動できるんだな。俺は帰宅部でいいや。暑いし、走るの嫌だし」
「岡本さんは?」
「私はまだ決めてない。見学してから考えようかなって」
三人の選択は、それぞれ違っていた。
でも、なんとなくこの三人で話す時間が、僕にとって心地よく感じられた。
中学生活が始まって、もうすぐ一週間。
教室の空気も、少しずつ「日常」になってきた。
僕は野球部に入った。放課後はグラウンドで声を張り上げて、ボールを追いかける。
陸は帰宅部。放課後になると、さっさと鞄を肩にかけて「じゃ、また明日」と言って帰っていく。
岡本さんはバレー部に入った。体育館でジャンプする姿が、なんだか絵になる。
「野球部、どう?キツい?」
昼休み、陸がパンをかじりながら聞いてきた。
「まあまあ。走るのは慣れてないけど、楽しいよ。陸は帰って何してるの?」
「ゲームしたり、昼寝したり。あと、魚さばく動画とか見てる」
「渋い趣味だな……」
「うるせえ。俺は俺の道を行く」
そんな陸の言葉が、妙にかっこよく聞こえた。
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放課後、体育館の前を通ると、花さんがバレー部の先輩と話していた。
その横顔は真剣で、昨日までの柔らかい雰囲気とは少し違って見えた。
「岡本さん、レシーブのフォーム、よくなってきたよ」
「ありがとうございます。もっと上手くなりたいです」
僕はそっとその場を離れた。
なんだか、みんながそれぞれの場所で、少しずつ「自分」を見つけている気がした。
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次の日、教室で花さんが僕に話しかけてきた。
「天避くん、昨日グラウンドで声出してたね。元気だった」
「見てたの?」
「うん。ちょっとだけ。野球部って、声出すのも練習なんだね」
「そうみたい。僕、まだ慣れてないけど」
「でも、ちゃんと届いてたよ。声も、気持ちも」
その言葉が、なんだか胸に残った。
こんなふうに、少しずつ交差していく僕たちの日常。
春は、まだ始まったばかりだ。
野球部の練習にも慣れてきて、汗をかくのが日常になった頃。
僕は、ある違和感に気づいた。
陸が、最近あまり喋らなくなった。
「暑いからだるいだけだよ」
そう言って笑うけど、その笑顔は少しだけ、引きつっていた。
ある日の昼休み。僕が教室に戻ると、陸が机に伏せていた。
周りの数人が、彼の背中を見ながらひそひそと笑っていた。
「チビって、夏でも影薄いよな」
「牛乳飲まないから背伸びないんじゃね?」
冗談のように聞こえる言葉。でも、それはもう冗談じゃなかった。
僕は、何も言えなかった。
ただ、陸がそのまま黙っているのを見ているしかなかった。
放課後、僕は陸を追いかけて、昇降口で声をかけた。
「陸、ちょっとだけ話せる?」
「……なんだよ。野球部の勧誘なら断るぞ」
「違う。最近、なんか変だなって思って。俺、気づくの遅かったかもしれないけど……」
陸はしばらく黙っていた。
靴を履く手が止まったまま、目を伏せていた。
僕は、言葉を探しながら続けた。
「俺、何かできることないかな。話すだけでもいい。無理にじゃなくて、いつでも」
その瞬間、陸は顔を上げた。
でも、何も言わなかった。
ただ、僕の目を一瞬だけ見て、すぐに視線を逸らした。
そして、靴を履き終えると、鞄を肩にかけて、昇降口を出ていった。
「……陸」
呼びかけても、彼は振り返らなかった。
陸が何も言わずに帰ってしまった日から、僕は少しずつ、でも確実に彼に話しかけるようにした。
昼休み、登校時、帰り道。
天気の話、部活の話、給食の話。どれも他愛ないけれど、僕は言葉を途切れさせないようにした。
最初は「ふーん」とか「別に」としか返ってこなかった。
でも、ある日の放課後、昇降口で僕が「今日の給食、魚だったね」と言ったとき、陸がふと立ち止まった。
「……俺、魚好きなんだよ」
「知ってる。前に言ってたよね」
「……最近、よく食べるようにしてる。なんか、身長伸びるって聞いたから」
僕は、彼の横顔を見た。
少しだけ、目が伏せられていた。
「牛乳も、昔は毎日飲んでた。背、伸びるって信じて。嫌いなのに、無理して」
「……そっか」
「でも、結局変わらなかった。飲みすぎて、今じゃ匂いだけで気持ち悪くなる」
陸の声は、静かだった。
でも、その言葉には、ずっと抱えていた重さが滲んでいた。
「夏ってさ、薄着になるじゃん。体育とか、半袖短パンで並ぶと、俺だけ小さく見える。だから、秋とか冬の方が好き。厚着できるし、みんな同じに見えるから」
僕は、何も言えなかった。
ただ、彼の言葉を聞いていた。
「……俺、背が低いの、ずっとコンプレックスだった。いじられるのも、笑われるのも、慣れてるつもりだったけど……最近は、ちょっとキツい」
「陸」
「でも、奏が話しかけてくれて、ちょっとだけ……助かった。ほんとにちょっとだけだけど」
その言葉が、僕の胸に深く刺さった。
「俺、これからも話しかけるよ。ウザいって思っても、やめないから」
「……やっぱウザいな」
陸はそう言って、少しだけ笑った。
その笑顔は、ほんの少しだけ、軽くなっていた。
夏の午後、教室の窓から差し込む光が、机の上に淡く広がっていた。
岡本花は、静かにノートを閉じて、前を向いた。
奏と陸が話しているのを、彼女はよく見ていた。
陸が何かを隠していることも、奏がそれに気づいて近づいていることも。
花は、わかっていた。
陸がいじられている理由も、彼が身長を気にしていることも。
給食の牛乳を避ける理由も、魚をよく食べるようになったことも。
でも――彼女は、何もしなかった。
「奏くんの方が、きっと届く」
そう思ったから。
自分が言葉をかけるよりも、陸が少しずつ心を開いている奏の方が、きっと深く届く。
無理に踏み込むより、そっと見守る方が、今は正しい気がした。
花は、誰よりも人の表情をよく見ていた。
陸が笑った日、奏が悩んでいた日。
その全部を、静かに受け止めていた。
続きを見たいという方がいらしたら続きを書くのでぜひ良い感想をお待ちしております。




