第15話 護家鼠4
例えば、手元に拳銃があったとして。
例えば、その状況で目の前に敵が現れたとして。
その引き金を引ける人間がどれ程いるのだろうか。
少なくとも、ヒラサカ アリスは引けない側の人間であった。
怯えていたし、震えていた。
背後に漂う死を告げる天使が、その時計の針をゆっくりと進めている。
匂いが消えた世界というのは思いの外早くに気がついた。はたして、次に失うという味覚は直ぐに気がつくことが出来るのだろうか?少なくとも嗅覚よりは感じにくいはずである。
そんなことを考えているのは現実逃避そのものであり、先の引き金が引けない理由であった。
ヒラサカ アリスは恐れていた。
「大丈夫、ミノリさんが倒してくれる」
震える肩を抱えて声かけるアラシヤマ。
それに対してアリスが抱えた感情は安心よりも、疑問であり恐怖であった。
なぜ、この人は恐れていないのだ。
なぜ、死ぬかもしれない状況で人を構う余裕があるのだ。
ずっと抱いていた恋慕の情よりも恐怖が上回る。
ヒラサカ アリスは、この世の全てを恐れている。
◇
ひとりでに動く大鎌は、死神による泡沫の相殺によってその動きを止める。
「まさか、まさか。即席で呪物を作れるとは……!」
近づくのは危険と判断したのか、後方へ大きく距離をとる。しかし、大鎌で受けたその傷は深いようで吐く息は乱れている。
ゼェゼェと荒い呼吸を繰り返す死神に、ミノリは勝ち誇ったように言葉を紡ぐ。
「私を愛するものは全て、等しく私を護る。そして、私が声をかけたものは全て私を愛する。世界は私を愛しているし、私は世界を愛しているの。だから……」
こんな風にね、とミノリが手を振る。すると、壁に掛けられた調度品がカタカタと音を立て動き出す。金属相応の質量があるものが縦横無尽に飛び回る。
そこからは正にワンサイドゲーム。
ミノリが指揮者の様に手を振る度に死神へと向かっていく調度品達。それぞれが意志を持っているかのように、明らかな敵意を持ってひたすらにぶつかる。
余りにも一方的なその様子に、声が出ない様子のアラシヤマ。
実を言うと、ミノリが新しく技を開発していたのは聞いていたし、つい最近受け取りにいった呪物がそれに関係していることも聞いていた。その上に新しい技が余りにも強力な為、テンチョーが「もうみっちゃんに勝てないかもしれない」とボヤいていたのも聞いていた。
だが、それを知っていた上で見ても余りにも強すぎた。
あまたの攻撃を受け、息も絶え絶えといった様子の死神。そんな死神に近づきながら声をかける。
「さて、死神のおじさん。これでもう分かったでしょ?貴方は私に勝てないの。さっさとアリスちゃんにつけてる泡沫を解いて」
ミノリがとどめを刺さなかったのは決して慈悲からではない。泡沫によって生じた影響は死後も残る場合がある。それ故にこのまま死神を殺してしまえば、アリスにかけられた死の天使が消える保証が無かったのだ。
「はは……こんな奥の手を隠してたとは、飛んだ化け物だ。ゴホッ。あの天使は……私の管理出来るものではない。あの天使を消すには、かけられたものの手で私を殺すしかないよ。それが私がこの力を得た時に結んだ誓約なのでね」
ミノリは抵抗できない死神に泡沫をかけ本心を引き出していた。それにより彼のこの言葉は嘘をついていないとの判断。それを聞いて咄嗟にアリスへ呼びかける。
「アリスちゃん!こいつを殺して!」
だが、アリスは動くことが出来ない。恐怖で体が硬直しているのだ。その間にも時計の針は進む。
「アリスちゃん!」
時計の針は20分を過ぎている。死神の言葉が正しいのであれば時計が40分を指した時、その感覚の全てが消え、残り20分で死へと向かう。
もう既に触覚も潰えている。残る感覚は視覚と聴覚。
だが、恐怖で動けない。
不意にアリスの身体が浮き上がる。アラシヤマが抱えたのだ。そのまま、死神の元へと駆け寄りアリスをそこへと降ろす。
「さあアリスちゃん。やるんだ」
とは、アラシヤマがかけた言葉。
「これで刺すだけだよ」
とは、ナイフを差し出しながら言うミノリの言葉。
アリスは怖かった。さも当然のように人を殺す彼女らが。
どこか壊れているようで、どこか歪んでいるようで。
だが、ふと思い出す。私も壊れていたのだと、私も結局は同じ泡沫に生きた人間なのだと。
ミノリは思い出していた。最初出会った時、彼女は一人も殺すことなくただ氷漬けにしていただけだった。ミノリに大きな怪我がないように近づくことを拒否し、怪我をさせた時には狼狽えていた。
本来、彼女は非情な人間ではないのだ。
それどころか、人を傷つけることすら躊躇うような優しい心根の持ち主なのだ。
だが、殺さなければいけない。
そうしなければ彼女は死んでしまうから。
さっさと殺してくれと、理性で考える思考が苛立った。
アラシヤマは考えていた。
どうすれば彼女は殺すだろうか、どうすれば彼女は心置き無く死神を殺せるだろうか。
早く殺して欲しかった、早くこのストレスを終わらせて欲しかった。
その実アラシヤマが欲していたのは、アリスの命の安全などではなく。この緊迫したストレスから抜け出す、心の平穏だった。最も現時点ではそれに気がついていなかったが。
時計の針が30分を指す。アリスの視覚が死に絶える。
漂う天使がケタケタと笑いだした。
唯一残る聴覚で笑い声を聞き取った。もうお前は死ぬのだと、天使から言われているような気がした。
怖かった、ひたすらに怖くて。
不意に、アリスの凛とした声が響く。
「『私は全てを恐れている。私は恐怖を飼っている。全てが止まってしまえばなんと素晴らしいことか。だが、凍らない恐怖を抱えている』」
それは、自然と漏れ出た言葉であった。
泡沫持ちにはごく稀に能力の発動に契機となる文言が存在する場合がある。例えばそれは、ミノリが泡沫のドレスを纏うために発する言葉も同じだ。
ある種のルーティンであり、自己暗示。感情が大きく関わってくる泡沫において、それらの文言はそのように捉えられている。
だが、当事者達は違うという。
アレは泡沫が語りかけてくる。泡沫の目を覚ます為の言葉だと。
そして、僅かながら存在する事例がある。
泡沫に飲まれる事例がある。
余りにものストレスで限界を超えた泡沫が弾け飛び、持ち主の意思すら乗っ取ってしまう場合がある。
アリスの恐怖が臨界点に達した。
獣の咆哮にも似た叫び声が上がる。
凍りついた泡沫が、暴走を始める。




