第五話:別離
ふう~。
離れ離れになるってのは辛いですよね~。
本編スタート!
自分には人並の幸せを手にする権利がない。
焔がそう悟ったのは、もう随分と昔である。
実の母親に捨てられた。
自分を育ててくれた老婆に裏切られた。
人並の幸せを求めようと恋をした相手にも裏切られた。
その瞬間から、焔は何も感じなくなった。
まるで人形師が操る人形のように、命令を受けては任務をこなし、それが終わればホテルに帰り、眠る。
食事を摂るのも任務に支障をきたさないためだ。
いつ死んでも良いと焔は常に思っていた。
焔はまるで死に場所を探すように、重国に敢えて難易度の高い任務を要求した。
それでも、どんなに難易度の高い任務であっても焔は任務を無事に遂行してきた。
そんな焔を関係者たちは『炎帝』と呼ぶようになった。
『炎帝』と呼ばれるようになった焔には、ますます難易度の高い任務が下されるようになった。
任務を何度もこなしていく内に、焔は自分のことを『アトラス』という組織が所持する道具だと考えるようになった。
道具なら、壊れてしまえば次の道具を用意するだけだ。
自分はいつ壊れるのだろうか。
そう思っていた焔だったが、静というまるで光に愛されたような少女と出会い、人間としての焔の感覚が、焔自身も気づかぬ内に、本当に少しだが戻り始めていた。
「静? お客様がいらしているの?」
その一言で、焔の中に戻りつつある人間としての感情が霧散していった。
事件は一時間ほど前に起こった。
「ここでお待ち下さい。お茶をお持ちいたします」
そう言って静に通された部屋は畳十畳程の、綾瀬川の屋敷ではありえない狭さの部屋だった。
室内には、壁に掛けられた達筆すぎて文字が読めない掛け軸と、形の悪い茶色の壺、青色と黄色の座布団が一対置かれてあるだけだ。
テレビや電話といった現代機器は一切置かれていない。
現代機器を設置しないことで敢えて落ち着いた空間を形造っている室内を見渡していると、襖が音を立てずにゆっくりと開かれた。
「お待たせいたしました」
先ほどの黄色の着物姿で正座をしながら襖を開けて焔に頭を下げている静は、ただただ綺麗だった。
静は頭を上げ、立ち上がると、焔の前まで移動して再び座り、白のお盆に載せた緑の茶飲みと小皿に盛られた瑞々しい羊かんを焔の前に差し出す。
「どうぞ」
にっこりと微笑む静。
「このお茶とお羊かん、とってもおいしいんですよ?」
焔は目の前にあるものに視線を移す。
そこにあるのは何の変哲もないただのお茶と羊かんである。
綾瀬川が客に出すものであるから、無名のものではないのだろうが、焔にとってはどうでもいいものだった。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
焔は目の前に置かれたものを何の感情も宿さない冷めた瞳で見つめている。
そんな焔を静は少し強張った表情で見つめ続ける。
「食ってもいいか?」
少しの沈黙の後に焔が言ったその一言で、静は顔を綻ばせた。
「どうぞお召し上がりください」
小皿に添えられていた爪楊枝で羊かんを刺して口に運ぶ焔。
そのまま口を動かして咀嚼していると、
「うっ」
焔は口元を手で覆った。
「ど、どうされたのですか!」
突然の焔の変化に静は、まさか毒でも入っていたのかと動転しだす。
「うまい・・・」
「え?」
「こんなに美味いものを食べたのは生まれて初めてだ」
「よかったです! 私もこのお羊かんは大好物なんです!」
純粋に食べ物をおいしいと感じられたのはいつ以来だろうか、と焔が咀嚼しながら考えていると、
「このお羊かんは、母の大切な思い出が詰まったものなんです」
どこか遠い眼をして静が言った。
「思い出?」
「はい。母と私は血が繋がっていないというのは先ほどお話したと思うのですが、母には以前大切な方がいたみたいなんです。その方が、このお羊かんをとても気に入っていたみたいで。私もそのお話を聞いて以来このお羊かんを食べるようになって、とても好きになったんです」
静は焔に何かを話すたびに、萎れた花が再び開花するような、そんな眩しい微笑みを浮かべていた。
そして、そんな静を見て焔は苦笑する。
それから一時間ほど二人は会話に花を咲かせていた。
といっても、話をするのは静のみで、焔は静の話を黙って聞いているだけであったが、静にはそれだけで満足であった。
「あの・・・」
それまで楽しげに語っていた静の表情が少し陰る。
「どうした?」
突然のことにそれまで黙っていた焔は思わず聞き返す。
「焔さまとお呼びしてもよろしいでしょうか?」
表情が陰ったかと思うと、今度は期待の籠った瞳で焔を見ながらそんなことを言う。
少し驚いてしまう焔だったが、
「アンタが呼びたいように呼んでくれ」
焔がそう言うと、静は輝かんばかりの表情を焔に見せた。
そんなとき、
「静? お客様がいらしているの?」
声が聞こえてきた。
「あ、お母様がお帰りになったみたいです。少々お待ち下さい」
そう言って、立ち上がろうとした静は目の前に座る焔が肩を震わせ、口元を片手で覆っている姿を見た。
「焔さま?」
だが、何度静が呼びかけても焔は返事を返さない。
「お身体の具合が悪いのですか?」
しかし、先ほどと同じく焔は何も答えない。
答えない代わりに肩の震えが激しくなり、静を見る焔の表情ははっきりと憎悪に満ちたものに変わっていた。
「焔・・・さま?」
昨夜の出来事よりも、焔が自分を見る眼が静には怖くてたまらなかった。
「何の真似だ?」
焔は震えた声で静に問う。
「え?」
問われた静は何を聞かれているのかわからず、焔の問いに答えることが出来なかった。少し前までは、焔は黙って話を聞いているだけであったが、それでも楽しく話をすることが出来ていたのに、一体どうして?
静がそう考えていると、
音を立てず、襖が開いた。
「あら、お客様って男の子だったのね。静が男の子を連れてくるなんて珍しい・・・」
部屋に入ってきたのは黒い着物が印象的な優しそうな女性であった。
静と顔立ちはあまり似ていないが、今の口調から静とそれなりに親しい間柄であることがわかる。
恐らくこの女性が静の義理の母なのだろう。
女性が着ている黒い着物は、まるで誰かの喪に服しているようにも見える。
「お母様」
静の、まるで縋るような声が女性に掛けられた。
女性は静を見て、何があったのかと思う。
そして、静の対面に座る少年を見て・・・息を呑んだ。
「嘘・・・」
焔は入ってきた女性を見て、大きく目を見開き、込み上がってくる嘔吐感を必死に堪える。
「ほーちゃん・・・なの?」
女性がそう言った瞬間、焔の全身から炎が吹き荒れた。
綾瀬川家の至る所で巨大な火柱が幾つも立ち上がり、綾瀬川家は一瞬のうちに炎の海に呑まれていく。
壺が割れ、畳が燃えて火の粉がゆらゆらと空中を舞う。
静はそんな光景を見て怯えていた。
焔が関係者から『炎帝』と呼ばれていることを知らない静の瞳にも、今の焔は炎の神が怒り狂っているかのように映っていた。
「ほーちゃん! ねえ、私よわかる! ママよ!」
屋敷が炎によって崩れ落ちていく中も、女性は焔に呼びかけていた。
「ほーちゃん!」
「黙れっ」
焔の怒声が崩れゆく屋敷の中に響き渡る。
「ほーちゃん・・・」
言って、焔に近寄ろうとする女性の頭上から軋むような音がした。
「お母様!」
静の悲鳴にも似た叫び声が女性に聞こえてきたときには、すぐ目の前に崩れた天井が女性の眼前に迫っていた。
「焔ちゃん。ちょっと落ち着きなさい」
この場の雰囲気に全く沿わない声が聞こえた瞬間、部屋と言わず屋敷全体が氷による支配を受けた銀世界に一変した。
焔は、憎悪の籠った瞳で女性を睨みつけていた瞳を、女性の隣に立つ重国に移す。
「ボス、どういうつもりだ?」
「何のことかしら?」
「惚けるな。アンタの隣にいるソレのことだ」
言って、再び重国の隣の女性を睨みつける。
「ボス、今まではアンタに助けられた借りがあったからアンタに従ってきた。だが、もう止めだ。俺は、アトラスを抜ける」
重国はいつものように溜息をつくでも、女言葉で話すでもなく、言う。
「それが、どういうことを意味しているのか、わかっているのか?」
「ああ」
焔の瞳をしっかりと見て、重国は軽く首を振る。
「考え直すつもりはないか? 今回の件は本当にアトラスは知らなかった。全くの偶然だ。それでも・・・」
「アンタには、悪いと思っている」
「私のことはどうでもいい。それよりも焔は・・・」
焔は手のひらを重国に突き出すと、そこからサッカーボール大の火球を生み出して言う。
「覚悟の上だ」
焔の言葉を聞いて重国は黙って頷くと、
「それじゃあ仕方がないわね」
頬に手を寄せて、いつものように溜息を吐く。
「行きなさい」
「ああ」
焔は重国の横を通って外へと歩き出す。
「待って下さい、焔さま!」
静の声は聞こえているだろうが焔の歩みは止まらない。
焔は一度も振り返らず綾瀬川家を去って行った。
焔が去ったあと、重国は誰に言うでもなく語る。
「アトラスという組織に一度でも席を置いた者は、どんな事情があろうと『死』という方法以外で組織を抜けることが出来ないの。もし、『死』以外の方法で組織を抜けた者が出れば、その人物は最重要危険人物として全世界に指名手配され、どこまでも追いまわされることになるの。そして、発見と同時に制裁が加えられる・・・」
静と女性は力なくその場に崩れ落ちる。
焔が放った炎と、重国が放った氷が互いを打ち消すように溶け合っていき、次第に辺りを大量の水蒸気が包み込んでいく。
お疲れさまでした。
感想などありましたら、お待ちしております。






