19 代償
領都がワイバーンの襲来を受けた理由は分からないが、領主の元に使いは出さなければならない。
結界の修復にも人員を割かなければならないし、避難した人々の状態のチェックを行って家に帰すという仕事もある。
魔物の襲来でほとんど領都に被害が無かったのはいいことだが、オルトにとってはこれからの方が大変だった。
これまた何かあれば責任はオルトにくる。教会の奥の宮でのうのうと権力と財力に任せて暮らしているこの都の高位の神官たちを思うと、頭もだが胃が痛くなる。
殺したワイバーンの死体もオルト一人ではどうにもならない。
避難誘導に出ていた神官たちが集まってきたので、いくつかの指示を出した後、ミスティアに手を差し出した。
「帰るぞ、ミスティア」
「は、い?」
オルトの差し出された手を掴もうとミスティアが一歩踏み出した時だ。
ミスティアのこめかみが弾けて、血が噴き出した。
そのまま地面に物のように倒れる。
一体何が起こったのか、オルトにも分からない。助ける暇もなかった、突然の出来事。
「ミスティア!」
「あれ、なんで……?」
倒れたまま起き上がる素振りも見せないミスティアの側にオルトは膝をついた。倒れた相手を動かさない方がいい、というのは長い神官生活を送ってきたオルトにとって守るべき事柄だ。
ミスティアの顔は痛みを感じていないように見える。それが元の生活のせいで痛みを顔に出さないことに長けているのか、それとも、本当に痛みを感じていないのかの判断がつかない。
額の血管が弾けたのか、どくどくと血が流れ続けている。
オルトは手をかざして回復魔法を唱えるが、じわじわとミスティアの身体から血がにじみ始めた。
全身から不意の出血を続ける小さな身体は、苦し気に短く浅い呼吸をくり返している。
オルトの回復魔法が複雑になる。幾重にも魔法陣を展開し、何重にも重ねがけをした。
傷は塞がりつつあるが、流した血が多い。オルトの膝まで流れ出た血が汚している。
ミスティアは苦しみの中、霞む視界と遠くなる音に、意識を手離した。
◇◇◇
レイヴンフット伯爵邸の執務室で、アルフォンスは顔を歪めた。
この屋敷の地下にある巨大な結界石。それの一部を削り出し、秘術によって反転させたもの。
それを使ってワイバーンを操ったのは、アルフォンスであった。
掌に乗るサイズの反転された結界石にはヒビが入っている。
偶然手に入れたワイバーンの血で染めた赤黒い石からは、黒い煙が立ち上り、もう力を失ったと主張するように見る間に輝きを失っていく。
ちょっと領都をつついてやろうと思った。
混乱に乗じて人を遣り、ミスティアを攫ってくる必要があったのだ。
執務室のドアの外では、彼の妻と娘がぎゃーぎゃーと騒いでいる。
使用人は謝り続け、なじられながら何倍にも増えた仕事をこなしている。
ミスティアは繋ぎだ。家に所属する魔力ある者を確保するのには、一ヵ月以上の時間がかかる。
自分の家にあったものなのだから、もう一度自分の家に、少しの間置いておこうと思った。
そのためにアルフォンスは魔物を呼び込んだのだ。
「煩わしい……」
心底からの呟きだった。
いたらいたで視界に入るのも煩わしいが、いなければいないで、屋敷の中が騒がしくなる。
教会に入れたのは早計だったか、と思わなくもないが、結界石そのものに魔力を注ぐのはアルフォンスの仕事だ。実際、これまでもアルフォンスが魔力を注いでいる。
他の魔石にも魔力を籠める余裕はないが、ひとまず領都に混乱が訪れなかったのは致し方ない。今日のところは一度結界石に供給をするしかないか、と執務室の本棚の仕掛けをいじって地下に下りる。
結界石への魔力供給の場所は二か所ある。
この当主が行うための執務室から降りた地下の部屋と、もう一つ。
ミスティアが追いやられていた、屋敷の敷地の端、森のすぐ傍にある石碑だ。
アルフォンスが降り立った地下の石室には、宙に浮いた巨大な結界石と、それに魔力を注ぐための魔術式が刻まれた石板がそれぞれ浮いている。
長い階段を降りてその石板に手をかざしたアルフォンスは、普段の通り石板に手を置いた。
「ぬ、ぉ、おお……!?」
自分の中の魔力をごっそりと吸われ、立っていられなくなり膝をつく。
強制的に手が離れたからよかったものの、何が起こっているのか分からない顔でアルフォンスは石板と結界石を見上げた。
見上げたまま、その場に倒れ込んだ。