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1 人の服を与えられたもの

やっとの新作始めます、よろしくお願いいたします。

「さっさとしな、このグズッ!」

 乱暴に怒鳴った女の使用人は、井戸の横でびしょ濡れになって震えている小さな子どもにボロ布を投げつけた。

 足元には水たまりが出来ており、今まさに、この使用人の手によってびしょ濡れにされたところである。


 見た目だけなら7歳の子と同じくらいの背丈だが、この子は今日で12歳になる。

 または、こうも言い換えられる。

 この子ども……ミスティア・レイヴンフットという少女が水を被せられたのは、今日で彼女が12歳になるからだった。


 まだ陽も登らない早朝の、秋口の寒い日であるにも関わらず、使用人は忌々しそうに井戸の水を汲んで、そのまま頭から叩きつけるように少女に水を被せた。それを五度程くり返される。もちろん、説明なんてものはない。

 おかげで、痛いし寒いしで、ミスティアは動けずにいる。


 彼女はひどく痩せているうえに、薄汚れた肌色はまだらな土気色をしているし、服というのもおこがましい、どろどろに汚れた布を纏っている。足にもボロい袋を、足首に拾った革紐でぐるぐるに巻き付けて履いていた。

 足裏の怪我は痛いし熱が出るので、子どもなりの精一杯の靴だ。


 震えてはいるが、少女は何も反抗しない。反抗しよう、という意志も感じられない。不満を覚えているのかどうかも定かではないし、意思というものがあるのかも分からない。

 12歳に見えない身体も、汚れすぎて変色している肌も髪も、どう見たって虐待されている。

 このレイヴンフット邸で少女に差し伸べられる手はない。

 それが骨身に染みて分かっている少女は、仕方が無いので、震えながらも与えられたボロ布で水気をふき取った。少しだけ、震えがマシになる。


 髪は一度も手入れされたことがなく、傷んでもいるし、汚れで元の色が分からない。

 その髪の下に隠れた瞳は夏の晴れ空に似た水色のはずだが、痩せてすっかり落ち窪み、影になって分からない。

 乾いてひび割れた唇の隙間から、カタカタと震えて歯の根が合わさらない音だけがする。

 肌の水気をふき取っても、身にまとったボロ布も、伸ばしっぱなしであちこち千切れた長くぼさぼさの髪も濡れているので、体温は下がる一方だ。


「脱ぎな」


 ミスティアがやっと水気をふき取ったところで、使用人は鼻の横に皺を寄せ、横柄な態度で命令した。

 ここはレイヴンフット邸で、レイヴンフットの名を持つ少女は本来ならば傅かれる立場なのだが、そんな素振りは一切ない。

 使用人に見下され命令されるのは当たり前、日常であるのは明白だった。

 ミスティアは、この家で使用人からも見下げ果てられ、蔑まれ、虐げられる立場だ。


 少女は言われたままにボロ布を脱いだが、脱いだ布を手に持ったまま、どうしていいか分からなかった。

 このまま地面に落としたら泥まみれになるが、自分の身にまとっているものを何かに引っかけたら、引っかけた場所が汚れるとして殴られるとしか思えない。どろまみれのぼろ布を着たら、一歩歩くだけでも怒鳴られる可能性もある。それは避けたいところだ。それに、着替えなんてものも持っていない。

 どうしよう、と僅かに狼狽えた少女の手首を叩いて使用人がボロ布を落とす。そのまま濡れていない場所まで少女を引っ張っていくと、つぎはぎだらけのワンピースを少女に与えた。先程まで纏っていたのはボロ布だが、これは明確に服だ。


「これを着るんだよ。さっさとおし」

「はい……」


 か細い返事が、空気を震わせる。

 声そのものも細く消え入りそうな大きさなのに、ぼろぼろの身体は力が入らず、うまく言葉を発せていない。

 かろうじて返事はできるが、生まれてから罵倒か怒鳴り声しか浴びせられていないミスティアは、語彙そのものも貧弱だった。

 なので、返事は「はい」と「分かりました」しか知らない。あとは「お許しください」をよく口に出すが、そもそも声を発していい場面が少ないので、喉が弱り切っていた。


 しかし、投げ付けるように渡された服。これを両手で持ったミスティアは、少しだけ心が驚きを感じていた。なんせ、服である。

 初めて与えられたそれを、頭から急いで被る。

 汚れもそうだが、あちこち擦り切れて薄くなっていたボロ布にくらべ、なんて温かいのだろうとつぎはぎのワンピースを着て再び驚いた。

 靴も、汚れはあっても穴の空いていない布の靴が与えられる。

 足にまとっていたボロ袋は、脱いだ拍子に足の爪にひっかかって大きく破けた。もう二度と履けなくなった。仕方ないかとも思う。


 一応は人の見た目になったと、使用人はため息を吐く。

 この少女は本来、もっと早く死ぬだろうと思っていたのに、この日……12歳まで生き抜いてしまった。

 だからこうして、人間としての衣類を与えなければならない。それが心の底から忌々しいといわんばかりのため息だ。


「さっさと馬車に向かうんだね。中に入るんじゃない、あんたは御者台だ」

「はい……わかり、ました」


 少女はか細く、吐息に溶けるような声で返事をすると、ふらふらと馬車のある車庫に向かった。

 やっと朝陽が顔を出し始めたところで、御者はまだ食堂で朝食を摂っていることだろう。馬だって今頃は飼葉を食んでいるのだろうし。

 彼女が誰かを、それが馬であっても待たせるということは論外であったし、ミスティアには食事がそもそも準備されていない。


 いつものように身体が軋む程の空腹を堪えて、地べたでも冷えた石の床でもない、ささくれた木製の御者台に小さく三角に座る。

 服がちゃんと厚みがあるので、お尻はそんなに痛まない。

 痩せすぎて骨と皮だけの身体に伸びきっていない身長のせいで、決して広くはない御者の足置きにすっぽりと座れてしまう。

 そのまま、空腹というよりかは酷い飢えというべき痛みを感じながら、ミスティアはじっと馬車に座って置物のように待った。


 ミスティアが意識を取り戻したのは、がたん、と馬車が揺れた時だった。

 どうやら気絶していたらしく、気付けば馬車はすでに動き出している。

 ミスティアの頭が持ち上がったことで、御者が不快そうに睨みつけてきたため、そっと視線を足元に戻す。濡れた髪が生乾きのせいで、雨の日のようなひどい臭いが自分の頭からする。こんなものが足元から漂ってきているのなら逆に同情する、とミスティアは内心で考えつつ、臭い自分をなるべく隠すように身をさらにきゅっと縮めた。


 御者台の椅子は木製なので、それが馬が引くたびにがたがたと背中に当たる。痛いのだが、誰かに思い切り殴られたり蹴られたりするよりは痛くない。痛い、と言っても誰も聞いてくれるわけもない。

 そんな希望はとっくに持ち得ていなかったし、そもそも、希望を抱ける環境になかった。

 なので、今も膝を抱えてじっとしている。この足置きの隙間から見える道を見ていると、ここに落ちたらすごく痛いだろうな、というのがミスティアの頭に浮かんだ。


「もうすぐです」


 御者が、後ろの箱になった座席に向かって告げる。その中には、ミスティアと血の繋がった父親と、少しだけ血の繋がった継母と妹が乗っている。

 ミスティアも思わず視線をあげた。大きく頭を動かさなければ、御者に睨まれることもないだろう。


 見えてきたのは、『レイヴンフット伯爵』の治める『ルドベキア領』の領都だ。領地内で一番大きな町は石造りの壁にぐるりと囲まれており、午前の光に青く見える森を背に、白い石壁を光らせていた。

 ここからでも見える物見台は青い屋根をしていて、領都を囲むような草原も青々とした草を茂らせている。青と白の絵具で濃淡をつけたような光景だ。


 ミスティアは何をしに馬車に乗っているのか理解しておらず、そもそも思考は放棄している。

 考えたことは遠い昔にはあるのだが、考えても何をしても、ミスティアの環境が変わることはなかったので、もうやめた。

 だから、生まれてからずっと虐げられていた屋敷の外に出たというのに、ミスティアは何も、何も期待しなかった。

 ぼんやり、青いな、という印象を受けて、視線を足元に戻す。


(あったかいな……)


 地面がすごい速さで動いている。頬に感じる風は冷たいが、服がある部分はそんなに冷えない。

 そんな事を思っているうちに、馬車は減速した。

 少しだけ視線をあげると、目の前に馬車と、人の列があり、その奥に先程遠くに見た石の壁があった。


 御者は用意の大きな布をミスティアの頭からすっぽりと被せた。

「動くな」

 びく、と反射的に動いた肩を見とがめられて、低い声で告げられる。

 ミスティアは、返事の代わりに身体をぎゅっと硬くした。


 何も考えず、何も見ず、何も聞かないようにするのは得意だ。

 そうしている間に馬車は領都の中に入り、まっすぐ教会に向かって進んだ。


 置物のように硬くなった少女は、その教会に訪れたことがきっかけで人生が変わるだなんて、これっぽっちも期待も考えもしていなかった。

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