8 オール1の退院
二ヶ月が経った。
「……念のため、もう一度聞かせてもらうけど。本当に、なんともないんだね?」
「はい、なんとも」
俺は今日、退院することになった。
数日前、俺は一般の病棟に移されて病院を出る準備を進め、気づいた頃には窓から見える桜も散り春も終わりを迎えていた。
俺のステータスは今、こんな感じだった。
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御山深人【レベル】1
【筋力値】 1 (* 28.2621)
【体力値】 1 (* 23.8963)
【魔力値】 1
【精神値】 1
【敏捷値】 1 (* 33.7712)
【幸運値】 1
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相変わらず、俺のステータスは全て「1」。
数値上はいつ死んでもおかしくない危篤状態だと何度も念を押されている。
でも、俺はこうしてちゃんと生きている。
普通に立って歩くことも、会話することもできるようになっている。
「……本当の本当に、なんともないんだね? 同意書も覚書も書いてもらったし、もう退院してもらって構わないけど……体調悪くなったら、すぐに救急車を呼んでいいんだよ?」
「はい、今までありがとうございました」
担当医の先生から最後の問診を受けると、俺は退院に必要だという書類にサインし、お世話になった看護師さん達にお礼を言って、少ない荷物をまとめて数日間過ごした一般病棟の病室を後にした。
すると、廊下に見覚えのある制服姿の人影があった。
「あ……やっときた。お兄ちゃん!」
「……美羽?」
確認するまでもなく、制服姿の美羽だった。
今日は平日のはずだが学校の帰りに立ち寄ってくれたらしい。
「一人で帰れるから、家で待っててくれていいって言ったのに」
「病み上がりでしょ? せっかくだし、迎えにきた」
「病気ってわけじゃないんだけど……でも、ありがとう」
俺がお礼を言うと、妹は妙に照れ臭そうに笑った。
「なんか……お兄ちゃんにお礼言われるとか、新鮮だね」
「心外だな。いつも言うだろ、俺は」
「そうだけど。それでも」
そういう俺も、妹の笑顔を見るのは久しぶりで新鮮な心地がした。
リハビリを終え、やっと顔を合わせて話すことができたのが先週のこと。
そうなるまで、ずっとお互いに声もかけられなかった。
それも、ほぼ最低限の会話だけで終わった。
こんなふうにまともに言葉を交わすのは結局、二ヶ月ぶりということになる。
「ねえ。その荷物、持とうか? 重いでしょ」
「いいよ。自分で持てるから……てか、この鞄は着替えだけだし重くないよ」
「無理しなくていいよ? 私、けっこう力あるし」
そう言って美羽は俺の着替えが入った手提げバッグを奪おうとする。
あからさまに妹に気を遣われているのがわかる。
今の俺のステータスが「1」しかないことは美羽もよくわかっている。
主治医の先生から、妹に「退院は認めるけれど、いつ倒れてもおかしくない状態だから」と伝えられているのも知っている。
俺はもうそんなことにはならないよ、と何度も言っているのだが、妹にはあまり信用してもらえないらしい。
二ヶ月前にあんなゾンビのような姿を見せていたら、当然といえば当然だろう。
「では、お大事になさってください」
「お世話になりました」
俺たちは一階の受付で退院の手続きと必要な会計を済ませると、すぐに病院の正面玄関口を出た。
そして、あらかじめタクシーを呼んで待合所で待っていてもらっていたので、そこまで歩いて行こうとしたのだが。
急に美羽が途中で立ち止まった。
病院の中に何か忘れ物でもしたかな、と聞こうとしたが、違った。
「……どうした?」
「おかえり、お兄ちゃん」
振り返ると美羽は嬉しそうに笑っていた。
「……はぁ。やっと言えたよ。ここまで長かったなぁ」
どうやら、それが言いたかっただけらしい。
でも俺としては病院の正面玄関口で「おかえり」と言われても、この場でただいま、とは言いづらい。
「その台詞は家に帰るまで、とっておいてくれてもよかったんだけどな」
「いいじゃん。もう結構、待ったんだし。変わらないでしょ」
「まあ、そうか」
俺たちはここに辿り着くまで二ヶ月かかった。
それまで俺は妹をずっと待たせていた。
長い間、一人っきりにさせ、寂しい思いをさせた。
俺はこれから、存分にその間の埋め合わせをしなければならない。
「なあ、美羽。帰ったら夕飯、何食べたい? 今日は俺が作ろうと思ってるんだけど」
「いいよ。流石に退院したての病人に作らせようなんて思わないし」
「俺は病人じゃないんだって……じゃあ、一緒に作ろうか? それぐらいなら許してくれてもいいだろ」
「……うん。それなら、いいかも。私、最近、自分で料理やってみて、お兄ちゃんに色々聞きたいことできたんだ」
「よし。なら、俺がこれから直々にいろいろと伝授してやろう……だが、一朝一夕で俺の料理スキルに追いつけると思うなよ?」
「思わないよ。自分でやってみて、うちのお兄ちゃんってけっこうすごかったんだ、って思っちゃったから」
「…………そ、そう?」
唐突な褒めに若干、照れる。
そうだろう、そうだろう、と照れ隠しで頭を撫で回してやりたい気持ちになったところで、妹が肩を震わせているのに気がついて手を止める。
「美羽?」
「……私、お兄ちゃんが倒れたって聞いて、もう二度と家に帰って来ないんじゃないかって思ってた。だから、これからは料理も自分でやらなきゃって思って、自分でも作ったんだけど、ぜんぜん、上手く行かなくて」
見れば、妹は頬から涙を落としている。
「……料理のこと聞きたくても、聞ける人なんていなくて。作っても、食べてくれる人もいないし。私、一人で家にいる時……お兄ちゃんにも置いてかれちゃうんじゃないかって思ってた。お兄ちゃんが帰ろうって頑張ってるの知ってたし、そういうこと考えちゃいけないってわかってても……でもね、私……ずっと。ずっと────」
「ああ、よく頑張ったな。もう、どこにも行かないよ」
俺は途中で言葉を遮り、涙でぐしゃぐしゃになった美羽の顔を抱き寄せた。
最後まで聞かなくても言いたいことは厭というほどわかる。
「待たせて悪かった。これからは一人にしないから」
「……本当に?」
「ああ、絶対」
俺はその為にここに戻ってきたのだから。
俺が曇らせた妹の顔が、またちゃんと前のように明るい笑顔になれるようにする。
その為なら、これから何だってやってやろうと思っている。
何度でも、地獄からだって蘇る所存だ。
それから、しばらく美羽は泣き止まなかった。
周りを行き交う人々が何事かと俺たちに視線を向けていくが、俺は美羽が落ち着くまでそのままにしておいた。
「ごめん。もう……大丈夫」
数分か、十分ぐらいか。
美羽は涙がおさまると、俺の胸から顔を離した。
その頃には、俺の服は妹の涙と鼻水でぐしょぐしょになっていた。
でも、これぐらいではまだまだ埋め合わせをしたことにはならない。
「じゃあ、まずは材料の買い出しからだな」
「……うん」
俺たちは病院の前で待っていてくれたタクシーに行き先を伝え、家の近くのスーパーで必要な買い出しを済ませると、最後に家の前で降ろしてもらって支払いを済ませた。
そして玄関のドアを開け二人で家に入ると、二人一緒に「ただいま」と言った。
「お兄ちゃん、家は久々な感じするでしょ」
「うん。懐かしいを通り越して、逆に新鮮味すらある……というか、掃除してたんだな。すごく綺麗になってる」
「当たり前でしょ? 特に今日は掃除にうるさそうな誰かさんが帰ってくるから、念入りにね」
「ああ、ありがとう」
久々に見た家の玄関は驚くほど整って見えた。
俺が退院するということで妹が掃除してくれていたらしい。
これは俺が不在にしていた分をきっちり埋め合わせするまで、結構時間がかかりそうだな、と思ったが、幸い時間なら十分にある。
俺はもう、家に帰って来れたのだから。
少なくとも今日という日は、たっぷりと。
埋め合わせの第一弾に使う時間も材料も十二分にある。
「それじゃ、夕飯の準備に取り掛かるとしましょうか」
「……うん。献立は?」
「任せろ。二ヶ月ほど練ってある」
そうして俺たちは二人で入るには少々狭いキッチンに並んで立ち、ああだこうだ言いながら色々な料理を作り上げ、それをテーブル一杯に並べると、二人だけのささやかな退院祝いをした。
やっと主人公が退院できました。
次回からようやく『幻想領域』の話に移っていきます。




