6 サンドバッグ
一ヶ月経った。
トレーニングを続けた結果、俺は現実世界で身体を少し、動かすことができるようになった。
俺のステータスは未だに「1」のまま。
でも、どういう理屈かわからないが、ごく弱い力でしかないが指を自分の意思で動かすことができようになり、握ったり開いたりもできる。
まだベッドから身体を起こすことはできないが、首も少しずつ動かすことができ、腕をほんの少し浮かすことも出来た。
嬉しいのは人工呼吸器なしで呼吸ができるようになったことだ。
多少息は苦しいが、自力で吸える空気のなんと美味いことか。
少しずつではあるが、俺は着実に進歩している。
でも、課題はまだまだたくさんある。
身体は動くが、まともに会話すらできない。
しゃべろうと思っても変な声が出る。
長期間声を出していなかったので、身体が声の出し方を忘れているらしい。
リハビリをすることになったが、まともな発声ができるまでもう少しかかる。
それまで、美羽との面会は待ってもらうことにした。
前みたいにゾンビみたいな声を出して余計に心配させないためだ。
俺がいる部屋には特別な医療機器以外の電子機器は持ち込めない。
スマホのメッセージアプリでのやりとりも不可能だった。
だから、回復までの少しの間、我慢して手紙だけのやりとりだ。
もどかしいが、仕方ない。
できれば妹にはちゃんと、元気になった姿で会って話したい。
その時を少しでも早める為、俺は病院内でのリハビリにも励み、それが終わるとすぐに『トレーニングルーム』に戻ってトレーニングを続けた。
◇◇◇
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【スキル】熟練度が一定に達しました。
称号:『ひたむきトレーナー』を得ました。
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そうして、三度目の『称号』取得。
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称号取得に伴い、
設備『サンドバッグ』が開放されました。
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「今度はサンドバッグ、か」
気づけば俺の目の前に天井から吊られた黒光りする合成皮革のような質感の大きめサンドバッグが現れ、その下にはグローブが二つ置いてあった。
さすがにもう、驚かない。
俺もこの異常空間のパターンを把握してきている。
これは言わずもがな、グローブを嵌めて殴れ、ということだろう。
「早速、やってみるか」
俺は張り切ってグローブを嵌め、腕を振り回して肩慣らしをすると、とりあえず自分の拳を思い切りサンドバッグに叩き込んだ。
すると、ボフン、という爆発に近い破裂音と共にサンドバッグが跡形もなく爆散し、中身を派手に撒き散らした。
「……あっ?」
辺りに舞い散ったサンドバッグの破片はキラキラとした光の粒子となって天へと昇っていく。
そうして俺が殴りつけたサンドバッグは一瞬で跡形もなく消滅した。
「倒し……た?」
倒してどうする。
サンドバッグを。
俺が新たに手に入ったトレーニング設備をいきなり破壊してしまったことにショックを受けていると、何事もなかったかのように新品同様のサンドバッグが忽然と姿を現した。
そういえば俺が誤ってルームランナーで消滅させてしまったボールペンもいつの間にか復活していた。
俺は心の中で安堵のため息をつきつつ、新たな設備『サンドバッグ』の設定を見直すことにした。
『ベンチプレス』も『ルームランナー』も設定があったのだし、きっとこの『サンドバッグ』にもあるだろう、と予想してのことだったが、やっぱりあった。
設定画面には『耐久設定』とある。
初期値は他と同じ「10」だった。
「これが高ければ高いほど、硬い……ってことか……?」
俺は『ルームランナー』の時の反省から、耐久設定も少しずつ上げていこうかと思ったが、逆にこれは高くても問題ないだろうと判断し、一気に数値を「1000」まで上げてみた。
その設定で、グローブを嵌めた手で軽くちょん、と殴ってみる。
「……硬っ」
まるで素手でコンクリートの壁を殴りつけたような感触だった。
これを本気で殴っていたら酷いことになっていた。
これは倒せないどころか、逆に倒される心配もある。
ここでは怪我はすぐ治るから、大した惨事にはならないかもしれないが。
すかさず設定を半分の「500」にする。
そして、恐る恐るグローブで触ってみる。
「う〜ん……まあ、これぐらいなら動きそうかな」
俺は慎重にサンドバッグを押して感触を確かめ、さっきのような硬い感触がないことを確認すると、次は軽く、とん、と叩いてみる。
やっぱり、重い。
そして硬い。
でも、設定「1000」のような理不尽な硬さではない。
ちゃんとサンドバッグっぽい、殴ってもよさそうな硬さだ。
「これで試してみるか」
俺は覚悟を決め、今度は強めにサンドバッグを殴った。
すると、大きな手応えと共に天井から吊られた重い砂袋がギシギシと音を立てて動く。
殴った手も痛くないし、これが適正設定なのかもしれない。
「よし、次だ」
次は『マッスルアップ』込みで、本気で殴ってみる。
思い切り振りかぶり、思い切り拳を叩きつける。
すると強い衝撃が腕に伝わり、同時に天井まで跳ね上がりそうな勢いで派手にサンドバッグが吹っ飛んだ。
「うわっ!?」
俺が吹っ飛ばしたサンドバッグが揺り戻しで戻ってくる。
咄嗟に身をかわしたが、俺の顔面スレスレを通過した重そうな砂袋がブオン、と豪快な音を立てていた。
あれに当たったら、やばかったかもしれない。
自分の打撃の威力がほぼそのまま返ってくると思うと恐ろしい。
サンドバッグだし多少減衰はしていると思うが、あの勢い的に少なくとも壁までは吹っ飛ばされそうだった。
本当に油断ならないな、ここのトレーニング器具は。
また迂闊なことをやった自分を反省しつつ、設定値を少し上げて「600」で設定完了させた。
よし、あとはひたすら殴るだけだが。
でも、どう殴るのが効率がいいんだろう、とふと疑問に思う。
威力を犠牲にしても素早くこまめに殴るのがいいのか。
それとも思い切り力一杯ぶん殴るのがいいのか。
思い切り殴る方はさっき試してみたので、次はこまめに叩く方を試すことにする。
俺は大きく息を吸い込み、ひとまず一息で十発、拳を叩き込んだ。
するとグローブがサンドバッグを打つ小気味良い音と共に、サンドバッグが大きく揺れた。
個人的にはこっちの方が気持ちいい。
もちろん、これだけでどっちが効率がいいかはわからない。
「とりあえず、順番にやるか」
ひとまずそれぞれ数時間ずつぶっ続けで殴り続け、そこから比較して決めよう、という脳筋じみた結論に至り、俺は早速小刻みなテンポの方でサンドバッグを殴り始める。
なんだかボクシングジムのようで楽しいが、俺の殴っている速さは冷静に考えると異常だった。
呼吸を止めて一気に百発殴ってみると、殴り終わって時計の秒針を見ても五秒も経っていない。
あの時計がおかしいのか。
それとも今の俺の状態がおかしいのか。
多分後者だろう。
この空間の異様さに染まり始めた自分のことを考え始めると脳が沸きそうになるが、理屈はともかく、時間当たりに回数をこなせるのは効率が良いしいいことだ。
そんな風に自分に言い聞かせ、トレーニングを続けようと思った。
ところで。
さっき、俺は呼吸を止めて百発ほどサンドバッグを殴り続けてみたが、全く苦しくならなかったのはなんでだろう。
まあ、時間にして五秒ぐらいだったし、当然かもしれない。
そう思って試しに千発ほど呼吸を止めて殴り続けてみたが、それでも苦しくない。
あれ……おかしいな、と思って次は三十分ほど呼吸を止めながら殴り続けてみたが、なんともない。
ここにきて衝撃の新事実。
俺はこの謎空間の中で必死に息を吸ったり吐いたりしてトレーニングを続けていたが、どうやらそれは俺の習慣でしかなく、別に必要ないことだったらしい。
その証拠に無呼吸で1時間ほど全力でサンドバッグを殴っても、何の苦しさも疲労感もない。
そういえば水も食べ物もいらない体になっているわけだし、今更空気ぐらいで驚くこともないか。
でも、現実世界に戻った時に呼吸の仕方を忘れていたら大変なことになる。いらなくても、できるだけちゃんと呼吸しよう、と心に決めて俺はそれからのトレーニングに励んだ。
そうして、俺のステータスはこんな感じになった。
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御山深人【レベル】1
【筋力値】 23 (* 12.8682)
【体力値】 25 (* 10.3956)
【魔力値】 10
【精神値】 18
【敏捷値】 26 (* 13.2242)
【幸運値】 19
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『サンドバッグ』はどうも【筋力値】と【敏捷値】の右の数値が上がるらしく、【体力値】の右の数値は他と比べて伸び悩んでいる。
それでも、前と比べて上昇率は上がっていると思う。
現在の『ベンチプレス』の設定値は『マッスルアップ』込みで「550」。
『ルームランナー』は「290」。
『サンドバッグ』は「880」になった。
換算すると、今の俺は軽自動車程度の重さのバーベルを毎秒一回程度上げ下げし、新幹線のトップスピードぐらいで数時間ダッシュを続けていることになる。
そしてそんな力と速さでほぼ無呼吸のまま『サンドバッグ』を延々と殴り続けているという、ちょっと常軌を逸した超人じみた存在になってしまったようにも思えるが、あくまでも『トレーニングルーム』内の話で、現実世界でこれでやっと動けるようになるぐらいだ。
向こうとこっちでかなりのギャップがあった。
医者は突然動き出した俺のステータスカードを見て驚いていた。
現実世界では未だに全部の数値が「1」だからだ。
これで動けているのは前例がない、ということだった。
でも俺には理屈なんてどうでもいい。
最低限、元の生活に戻れさえすればいい。
もう一ヶ月も妹を待たせている。
俺がベッドで起き上がれると知ってから、美羽は1日も欠かさず俺の様子を伺いに病院に通ってきているそうだ。
まだ会えないし、俺は大丈夫だから、自分のことを優先してほしい、と手紙で書き置きしておいても「家族の義務だから」と手紙を残していく。
俺は一刻も早くリハビリを完了させなければならない。
そして妹に直接会って色々なことを話すのだ。
そして一分一秒でも早く『トレーニングルーム』でのトレーニングを終えて家に帰り、帰ったら俺の腕を存分に振るい、最高の手料理を作ってあげようと思う。
それが美羽の家族たる者の義務だから。