4 ベンチプレス
妹に手紙を渡したことで少し落ち着いた俺は、再び『トレーニングルーム』に入室すると、自分がこれからすべきことを考えた。
「さて。ここからどうするか、だけど」
俺はまず、ここを出る方法を模索するため、この『トレーニングルーム』というスキルで何ができるのか見極めることにした。
ひとまず、自分がいるこの奇妙な空間を見渡してみると部屋の真ん中に、ぽつん、と器具が鎮座しているのが見える。
例の『ベンチプレス』だ。
他には何もない。
つまり、俺が最初にここでやるべきことは。
「……アレで鍛えろ、ってことになるのかな?」
それ以外、この『トレーニングルーム』というスキルの存在意義がわからない。
ベンチプレスなんて使ったこともないが、きっとそんなに難しいものでもないし、触ってみればなんとかなるだろう。
とにかく始めてみるか……と恐る恐る器具に近づき、試しに重そうなバーベルを立ったままで持ち上げてみた。
「ん? 意外と軽い?」
バーベルにはいかにも重そうな黒々とした丸いウエイトがついていたが、見た目ほどの重さは感じられなかった。
重さを示す表記はどこにもないが、体感で両方の重りを合わせて10キロぐらいだろうか。
となると片方五キロか。
そう考えると、俺でも十分持ち上がりそうだった。
そうして俺は使い慣れない器具に戸惑いつつ、細長い座面に背をつけ、あやふやな記憶にある中のバーベルを持ち上げていた人に倣って、バーベルを持ち上げる。
「う」
思ったよりキツい。
寝そべっていると、立ったまま持ち上げるのに比べて腕の力だけで押し上げる形になるからだろうか。
でも、持ち上がらないこともない。
普通に上げ下げができる。
これで使い方が合っているかすら、いまいちわからないが、これで何か変化が起きたりしないかな……という思いで続けていく。
そうしてしばらく続けてみて、何か変化が起きるかと思ってステータスを確認してみても、ステータスに変化なし。
でも、ステータスの表示に微妙な違和感があった。
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御山深人【レベル】1
【筋力値】 23 (*1.0)
【体力値】 25 (*1.0)
【魔力値】 10
【精神値】 18
【敏捷値】 26
【幸運値】 19
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「ステータスの数値の横のこれ……こんなのあったか?」
【筋力値】と【体力値】の横に星のようなマークと「1.0」とある。
ごく小さな数字でうっすら表示されているので、うっかり見逃しそうになったが確かに表示されている。
これは、なんの数字だろう。
前見た時はこんなの無かった気がする。
今のバーベルの運動で何かの変動があった、ということだろうか?
疑問を感じつつ、しばらくウエイトトレーニングを続ながら様子を見ていくと。
「……お?」
また数字に動きがあった。
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御山深人【レベル】1
【筋力値】 23 (*1.0000000001)
【体力値】 25 (*1.0000000001)
【魔力値】 10
【精神値】 18
【敏捷値】 26
【幸運値】 19
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「ちっさ」
思わず二度見した。
筋力値と体力値の右の謎の数値が0.0000000001だけ増えた。
分数にすると百億分の1。
ものすごい小さな桁での変動だった。
でも、何らかの変化があったことにはちがいない。
体感的には何も変化は感じられないが。
これ、何か意味があるんだろうか。
「なんの数字なんだろうな、これ」
謎の数値の効果の程はわからないが、トレーニングを続ければとりあえず何らかの成果があるらしいことはわかった。
俺はしばらくこの地味なトレーニングを続けてみることにして、黙々とベンチプレスに励んだ。
◇◇◇
あっという間に丸一日が経過した。
俺が【クラス】判定の会場で倒れてからきっかり、24時間。
こっちと現実世界の時間の流れが同じであれば、向こうは今はお昼頃のはずだった。
なぜこの何もない空間で時間がわかるのかというと、話は単純。
時計がどこからか現れたからだ。
(……いつからあったんだろうな、アレ)
俺がふと「今何時なのかな」と気になった瞬間には壁掛けの丸い時計が壁についていた。
前は何もなかったはずの場所に、唐突に。
怪奇現象みたいでちょっと怖いが、もう俺はこの空間の異様さにも慣れてはじめていて、利便性をとってスルーしてそのまま黙々とトレーニングを続けていたのだが。
だんだん、もっと異様なことが起こっているのに気がついた。
俺は当然、キツい運動をしているのでだんだん疲労してくるだろう、と思っていたのだが、100回ぐらいバーベルの上げ下げを繰り返しても、なんの疲労感もなかった。
その上、奇妙なことに腹も全く減らない。
喉も乾かなかった。
あまりにも現実味のない場所に飛ばされたのですっかり頭から抜けていたが、俺が最初に心配すべきことは水と食料だったはずだ。
しばらく運動してみてから自分の迂闊さに気がついたが、全く心配いらないことがわかった。
この空間にいる限り、俺は腹が減らないらしかった。
喉も乾かない。
おまけにいくら運動しても疲れないし、うっかりバーベルを胸の上に落としても全くの無傷だった。
一瞬、骨が折れてしまったような強い衝撃は感じたものの、痛みは一瞬で引いた。
よくわからないが、どうも怪我は「した」けど「治った」ということらしい。
それに一切眠くならないことも判明した。
ずっとトレーニングを続けて時計の針は進んでも、俺はずっと元気なままだった。
そんなわけで、俺はぶっ続けでバーベルの上げ下げを繰り返している。
……何だろう、これ。冷静に振り返ると怖すぎる。
この空間、どういう意図でこうなってるんだろうか。
24時間、休まずにトレーニングしましょう、ってことか……?
これなら休む必要はないけれど副作用とかあったら怖い。
俺は少々この空間の異常性に慄きつつも、黙々とトレーニングを続けた。
それ以外、すべきことが何も見つからなかったので。
そうして、俺はひたすら『ベンチプレス』に励んでいたのだが、続けていくうちにまた発見があった。
固定だと思っていたバーベルの丸くて黒い『重り』は自由に重さが設定出来るらしい。
単に重さを変えたい、と念じるだけで勝手に重量選択のメニューが出てくる。
重くするとバーベル上げの負荷は当然キツくなる。
でも、その分例の謎数値の上昇の幅が上がるらしい。
俺は最初は「10」という低負荷でベンチプレスを繰り返していたのだが、途中から「30」に変えた。
一応、もっと重い負荷でもバーベルの上げ下げはできたが、「40」、「50」と試してみて、結局、「30」で素早く回数をこなすのが例の数値の上昇効率が一番よかったからだ。
この数値にはなんの単位も書かれていないが、多分、キログラムで合ってると思う。
そうして俺はしばらく30キロと思われる負荷で延々とベンチプレスを続けた。
その結果がこれだ。
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御山深人【レベル】1
【筋力値】 23 (*1.0000024822)
【体力値】 25 (*1.0000012411)
【魔力値】 10
【精神値】 18
【敏捷値】 26
【幸運値】 19
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相変わらずステータスには変化なし。
代わりに、引き続き右の謎数値が上昇を続けている。
微々たるものだが、目に見えると張り合いがある。
しばらく続けていると、不意に『精霊の声』からのメッセージが現れた。
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【スキル】熟練度が一定に達しました。
称号:『ベンチプレスビギナー』を得ました。
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「熟練度? 称号?」
なんぞ、そのシステム。
と訝しく思っていると、再びメッセージ。
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称号取得に伴い、
【ユニークスキル】『マッスルアップ』を取得しました。
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「マッスルアップ?」
また妙なスキルを獲得してしまった。
昨日【ユニークスキル】取得で痛い目を見たばかりなので、俺は恐る恐る今得た【スキル】の効果を確認する。
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『マッスルアップ』
効果:【筋力値】が二倍になる。任意に発動が可能。クールタイムなし。
筋力量も増大する。
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「おお……!?」
どうやら、デメリットはないらしい。
それも、なんと筋力値が二倍だ。
これはおいしいスキルだ。
まあ、現実世界に戻っても1が2になるだけのような気がするが。
でも、筋力量ってなんぞ……?
と思って試しに発動してみると、俺の腕が丸太のように太くなった。
「……何、これ……」
俺は思わず、ボディビルダー並みに太くなった腕をまじまじと見つめる。
スキルの発動を止めると、元の太さに戻る。
筋力量って、要は物理的な筋肉の量のことらしい。
いらなくない? その機能。
あったよ、デメリット。
これを使うと必然的に見た目が肉ダルマ気味になる。
実害はないし、気にするほどでもないが。
筋肉ムキムキも否定しないけど、できれば、ない方が個人的には嬉しいかなぁ……などと思っていると、スキルを発動したままでも筋肉の量だけ元に戻せることがわかった。
このスキル的には筋肉は増えても、増えなくても別にどっちでもいいらしい。
……ならなんでついてるんだろう、この機能。
本当に謎だ。
「おお……?」
でも、上がる。
今まで上がらなかったウエイトが、簡単に上がる。
今まで「30」でもそこそこキツかったのが「60」でも上がる。
これが【スキル】の力か。
『熟練度』といい『称号』といい、初めて聞く単語ばかりでよくわからないが、『トレーニングルーム』関連でこれが手に入ったってことは、これでトレーニングの効率上げろってことかな……?
そうなんだろうな。
本当に、誰がこんなスキルを設定したのだろう。
それにしても。
俺はここでトレーニングを続けた結果、微妙に喜んでいいかわからない感じとはいえ新たな【スキル】を手に入れることができたが、これを果たして成果と言っていいのかどうか。
こんな先の見えないことを続けていて、俺はいつになったらここから出られるのだろう。
ほんの少しだけ先行きが不安になる。
でも、俺なんかより妹の方がもっと不安だろうと思い、首を振る。
昨日誰もいない家の中で一人で晩飯を食べ、今朝は一人で朝食をとって学校に行ったに違いない。
そして今日も一人、誰もいない家に帰る。
このままだと明日も、明後日も。
俺が何もしなければ、多分、今後ずっとそうなる。
「続き、やるか」
ひとまず、俺はこのままやれることをやる。
先が見えないからといって俺が腐っている時間はない。
幸い、ここでは眠くならない。
腹が減ることもない。
ちょっとぐらい無理しても、疲れることも怪我することもないらしい。
未だに、何もかもがわからないことだらけだが。
「────もうちょっとだけ、負荷上げてやってみるか」
そうして、俺はその後も黙々とトレーニングを続けた。
(付記:お察しの読者さんもいらっしゃる通り本文中の記号は乗数を示す「*(アスタリスク)」です)