20 母(まま)を訪ねて三万年 4
制服姿の少女、神皎凛音は薄暗い『幻想領域』を一人、全力で走り抜け、最深部へと向かっていた。
外の『光の渦』の様子で予測はできたが、内部は更に異様な雰囲気に包まれている。洞窟の壁や床がぐねぐねと生き物のように蠢き、モンスターらしき存在が壁や床にめり込んだまま動かない。
こんなこと、通常ではあり得ない。
明らかな『幻想領域』の異常を目の当たりにして、凛音が思い出した自分がまだ幼かった、ある日のこと。
凛音が11歳になった誕生日に、母が死んだ時のこと。
『────大丈夫。お母さん、すっごく強いから! 絶対に帰ってくるからね!』
そう言って母は凛音をぎゅっと抱きしめた後、家を出て『幻想領域』に向かい、二度と帰って来なかった。
凛音の母親は当時、『幻想領域』の脅威と戦う精鋭部隊『殲滅班』を束ねるリーダーだった。
一緒に働いていたのはこの国でも並ぶ者のない強者達。
その中でも凛音の母『神皎寧音』は比較にならないほど抜きん出た存在で、職業柄、様々なメディアに出演して『幻想領域』の危機啓発活動を行うことも多く、一般人への知名度も高かった。
凛音は学校で同級生から母親のことを訊ねられるたび、自分のことでもないのにどこか誇らしい気分になった。
母親が実際にどういう仕事をしているのかはよく知らなかったが、皆に認められるようなすごいことをしているのだと思い、誇らしくも思った。
幼い凛音としても、母がとても危険な仕事をしているのだということはわかっていたつもりだった。
でも、あまり心配はしていなかった。
毎回、母は家を出る前に凛音にこんな風に約束したからだ。
『今日も危ないところに行くけど、大丈夫。お母さん、最強だから。ぜ〜ったい、帰ってくるからね!』
そう言って玄関で見送る凛音を両腕で力強く抱きしめ、笑顔で仕事に向かい、そして、その言葉の通りちゃんと帰ってきた。
そうして、また「会いたかったよ」と言って、ぎゅっと凛音を抱き締める。
その一連の約束事に例外はなかった。
だから、凛音はその日も安心して『仕事』に行く母親を送り出していた。
でも、その日だけは違った。
いつまで待っても、母親は家に帰ってこなかった。
母親が向かったのは世界でも最難関と知られる『幻想領域』。
母親が向かう前、ニュースで『幻想領域』自体に異常が起きていて、周辺の住民が避難するような事態になっている、とたくさん伝えられていたので、危ない場所だということも知っていた。
でも、それでも母親は必ず帰ってくるんだろうと信じていた。
なぜなら、自分と母親は約束を交わしたから。
でも、母親が帰ってこなくなって数日が経ち、父親から母親が死んだことを知らされた。
テレビやネットや様々な媒体を通して、『神皎寧音』が死んだというニュースも流れてきた。
でも、幼い凛音はそんなニュースは全く信じていなかった。
……嘘だ。
お母さんが死んだなんて、そんなの嘘に決まってる。
皆も、お父さんも、嘘をついている。
だって、お母さんは私にちゃんと約束をした。
────「必ず帰ってくるから」、と。
────「また会おうね」、と。
────「帰ってきたら、来週の日曜に服を買いに行こうね」、と。
だから、お母さんはまだ生きている。
待っていれば絶対に帰ってくるんだ、と。
凛音は一人でそう主張して、葬式にも出ずに家に引き篭もった。
そうして、学校にも行かず数日が過ぎたが、転機はすぐに訪れた。
部屋の隅で丸まりながら泣いていた凛音の前に突然、『精霊の声』の無機質なウインドウが表示された。
そこにはこう表示されていた。
──────────
【ユニーククラス】『戦乙女』を獲得しました。
クラス変更に伴い、
【ユニークスキル】『戦乙女の咆哮』を得ました。
──────────
そこに表示されていたのは、紛れもない凛音の母親『神皎寧音』の【スキル】と【クラス】だった。
でも【ユニークスキル】、【ユニーククラス】はその名の通り、唯一無二。
同じものが他人に発現することはない。
でも……ごく稀にだが、【ユニークスキル】保有者が死亡した時、とても低い確率で『継承』されることがあるという。
それは幼い凛音も聞いたことがあった。
【ユニークスキル】は家族など、スキル保有者に近しい者に受け継がれることがある、と。
凛音が母のそれだった。
母の『遺産』を受け取った凛音は、母が死んだことを理解した。
それから丸一日、凛音は自分の部屋に引きこもり、声を上げて泣いた。
そうして涙が枯れるまで泣いて、自分なりに母への別れの儀式を済ませると、自分の意思で社会へと戻ることにした。
きっとこんな風に泣いていても、きっと、お母さんを困らせてしまうから。
それに、自分に【ユニークスキル】が与えられたのはきっと何かの意味があると思いたかった。
そうして、凛音が母の【ユニークスキル】を『継承』したことを伝えると、周囲の大人は騒然となった。
凛音に母が残した『遺産』の力は凄まじいものだった。
ただでさえ破格の効果を持っていた【ユニークスキル】が、より強力なものとなって凛音に宿っていたのだ。
────ユニークスキル『戦乙女の咆哮』。
周囲にいる味方全てに超強力な『ステータス上昇』を与え、全員を一騎当千の戦力と化す、破格の支援スキル。
しかも、母を世界有数の戦闘部隊『殲滅班』の不動のトップたらしめた強力な【ユニークスキル】が、『継承』によってより洗練された形で娘に伝えられていた。
使い方によっては、容易に国家転覆すら可能なスキルだった。
そのことが世間に知られると、一斉に多くの人間を巻き込んだ議論が巻き起こった。
国を代表する『英姫』の死と、それを凌ぐ可能性のある強力な力を秘めた十一歳の少女の出現。新たに現れた大きな希望『神皎凛音』をどう扱うかで、連日、国の政治を動かす者達の間でも激しい議論が繰り返された。
でも、議論の結論は最初から決まっていたも同然だった。
彼らは失われた『神皎寧音』に代わる、力ある国の支柱を見出せていなかった。
国民の殆どが『英姫』の喪失を嘆き、そのスキルを継承した『神皎凛音』の存在に彼女以上の活躍を期待していた。
中には未成年を戦いに駆り立てることを疑問視する声もあったが、差し迫る人間同士の紛争の可能性、何より日々増殖していく『幻想領域』の脅威といった容赦のない現実を前に、理想や道理は全く意味をなさなかった。
そうして「世論を最大限に尊重する」という大義名分の下、政府首脳部の決断が下された。
────『神皎寧音』の【ユニークスキル】継承者『神皎凛音』を国の保護下に置き、脅威に対抗する為の主戦力として国を挙げて育成する、と。
国の有力者が名を連ねる『ダンジョン管理委員会』の席で、本人と親権者の同意を得ることを条件に、『神皎凛音』の『保護』と『育成』が満場一致で可決された。
政治家たちは幼い凛音を戦闘行為に参加させる為の法律の整備を急ぎ、凛音の母が育て上げた精鋭達の力を借りて幼い凛音の『パワーレベリング』を行うことが決まった。
最初に『幻想領域』に入った時、凛音はずっと泣いていた。
自分の力を人の役に立つことに使うことは同意したし、大好きな母親と同じ【ユニークスキル】を得て、同じ役目を与えられたのは誇らしくもあった。
政府から安全の為に強力な『幻想器物』を含む装備が支給され、訓練に使う『幻想領域』の脅威度に対して自分の能力値も問題ない。
でも、凛音は相手がダンジョンモンスターとはいえ、生き物を殺すことが嫌だった。
凛音は元々、生き物が好きだった。
まともに小学校に通っていた頃は、「いきもの係」を率先して引き受け、毎日ハムスターと文鳥と亀の世話を熱心にしていた。
小さな生き物を育てるのは好きだったし、指先で優しく触って相手が気持ちよさそうにしているのを眺めるのは心地よかった。
……でも、その日は『逆』をやらなければならなかった。
そうしなければ、強くはなれないから。
だから、凛音の訓練は最初、専門のカウンセラーを含む教官たちと共に弱いダンジョンモンスターを殺すことから始められた。
最初は小動物型のモンスター。
次はゴブリンのような、人型のモンスター。
そうして、次は少し動きの素早い獣型のモンスター。
凛音は連日、ステータスに見合った剣や槍などの武器を持たされ、手足を震わせながらも教官に指導された通りに相手の心臓をひと突きし、一撃で刺し殺した。
教官からは類稀なる戦闘センス、と褒められたが、そんなことは一切凛音の頭には入らなかった。
相手が死んで光となって消えていく直前の断末魔と、いきものが死ぬ間際に投げかけてくる恨めしそうな視線が脳裏に焼き付き、返り血が指にかかった時、相手の温もりに罪悪感を覚えた。
剣や槍などの武器で生き物の急所を貫く時、骨と骨の間の何かを裂く感触が嫌で嫌でしょうがなかった。
でも、武器で触れるのが嫌で魔法スキルを使ってみても、変わらない。
遠くから【火】の魔法を使えば鼻の奥にしばらく焦げ付いた肉の匂いが離れなくなり、【雷】の魔法を用いれば痙攣じみた悲鳴が『幻想領域』に反響し、【氷】の魔法を使って氷漬けにしてみれば氷塊の中の苦悶の表情が目に焼き付いた。
何をやっても、生き物に死をもたらす感触からは逃れられなかった。
凛音は毎夜、悪夢にうなされた。
でも悪夢を繰り返し見るうち、少しずつ人に似た生き物の死にも慣れ、だんだんと血の匂いも、鼻の奥に残る炭化した肉の匂いも、苦痛からくる絶叫も気にならなくなった。
凛音は知らず知らずのうちに自分の心に鍵をかける術を身につけた。
自分の気持ちに鈍感になり、他者の感情にも鈍くなり、全てに対して上手に心を閉ざす術を身につけた。
そうして、母親に似てよく笑顔を見せる少女だった凛音は、笑わなくなった。
消えていく感情と引き換えに『幻想領域』の『作法』に順応した。
次第に夢をみることもなくなった。
それからの成長は早かった。
凛音は周囲の期待通り、急激に強くなった。
苦痛の叫びをあげるダンジョンモンスターをなるべく苦しませずに殺める術を最速で体得し、それと共に凛音のモンスター討伐数は飛躍的に伸びていった。
一年後、十二歳にしてレベルは「200」に達した。
一年足らずで全世界の上位「0.01」%にまで上り詰めた凛音は恐るべき吸収力で母親が育て上げた精鋭達の技術を吸収し、すぐに彼ら全員を凌ぐまでになった。
自分より力の劣る大人たちと六人編成のパーティを組んで難関ダンジョンに挑み、難なく攻略に成功して帰還するようになり、国民からも、政府上層部からも信頼を勝ち得ていった。
その半年後には単独でも深層へと潜るようになった。『幻想領域』から帰還するたびに様々な最年少記録を塗り替え、すぐに母を凌ぐ有名人になった。
本人はそんなことに関心はなく、ただ自分に与えられた役目を忠実にこなそうとしていただけだったのだが。
今や「最強の『探索者』は誰か」という話題になると必ずと言っていいほど上位に名前が上がるような存在になった。
その頃には、凛音は母から受け継いだ『遺産』を世の中のために役立てることこそが、自分が生きている意味だと考えるようになっていた。
周囲はそれを望んでいる。
きっと、母もそう望んだからこの力を自分に与えたのだろう。
父も、自分が戦うことに同意した。
だから、自分も皆の望むようにしようと思った。
気づけば、凛音は以前のように笑うことができなくなっていた。
自然な笑い方も忘れ、だんだんと笑う意味すらわからなくなった。
友人と呼べる存在も、もういなくなった。
そんなものは自分に必要ない、とも考えるようになった。
そういうのは他の誰かに任せておけばいい。
自分は戦うことこそが使命なのだから、そんな世界、忘れたほうが都合がいい、と。
次第に、誰もいない家に帰るのも億劫に思えた。
そもそも、凛音にとって家庭と呼べるものなど、とっくになくなってしまったのだから。
訓練を終えた頃の凛音は、唯一の肉親となった父親のことを、もう自分の家族と思えなくなっていた。
……ようやく、理解したからだ。
危険な場所に赴く作戦を母に指示したのは他ならぬ凛音の父だった。
父は国で働く強力な『探索者』を統括する立場であり、他ならぬ父こそが、母に無事に帰れる見込みのない『幻想領域』への突入を命じた張本人だった。
あの時、父が母を救えた唯一の人物だったことを凛音はやっと理解した。
そうして、今、自分にも同じことをやらせようとしている。
だから凛音は十三歳になった誕生日、父にこう告げ家を出た。
『……お母さんを殺した人と、これ以上一緒にはいられないから』
そうして凛音は政府の予算によって用意されたセキュリティの整ったアパートに移り住み、それからは『幻想領域』に籠もる日々を送った。
人々の平穏を護る為、与えられた力を使って命を懸けて戦う。
それ自体に不満はない。
でも、当の自分の周りに護るべきものなんて何もないことに、凛音は気がついていた。
自分が現実世界にいくら居たって、誰かから必要とされているわけではないことも知っている。皆が欲しがっているのは脅威と戦う自分であって、幸せそうに笑っている自分ではないのだ。
それを望んでくれた唯一の人は、もういない。
────だから、やはり自分が単独で調査に来たのは正解だったと思う。
奥に進むたび、薄暗い洞窟がいびつに歪み、状況がおかしくなっていく。
この異常のレベルは、もう何があってもおかしくない。
でも、仮にこの異変で死者が出たとして……それが自分だったら悲しむ人はもういないのだ。
運良く、この危機を無事に切り抜けられたら、それでいい。
でも────
そうでなくとも、別にいい。
自分はここ以外での生き方が、わからなくなってしまったから。
無事に帰れたとして、どこに居ていいかもわからない。
凛音は現実世界に居場所を見出せず、いつしか『幻想領域』こそが自分の居場所なのだ、と思うようになっていた。




