12 幻想領域(ダンジョン)
「ここだな」
少し歩いて石段を登り、神社の鳥居を潜ると、ロープが張ってある場所があった。神社の管理者が書いたのか、貼り紙で「Fランクダンジョン」「危険」の文字があり、ロープの奥にうっすらと空間を歪ませるのが見える。
────あそこがダンジョンの入り口。
その先が、全国に数多ある『幻想領域』の一つだ。
『幻想領域』は現在、日本国内に数千カ所と言われるが、その数は常に増え続けている。『踏破』することで消滅することが知られているが、発生速度に駆除速度が追いついていないからだ。
『幻想領域』は突然、なんの前触れもなく発生する。
商店街の路地裏。
ビルの地下室。
空き地。などなど。
どういうわけか一番多いのが各地で『神域』や『霊場』とされているような神社や教会、高い山や大きな滝など、古くから神聖な場とみなされている所に多く出現するようだった。
その為、『幻想領域』は「人の想いが集うところに出現する」とも言われる。
その話が本当に正しいかどうかはわからないが、『幻想領域』の発生初期には大都市を離れて田舎に逃げるように引っ越す人が続出した。
札幌という大きな都市を跡形もなく破壊した《黒い空》の発生理由が少しづつ、解明されたからだ。
今では《黒い空》は『幻想領域』の『孵化現象』とも呼ばれている。強力なダンジョンは攻略せずに放置すると次第に成長し、その入り口だった場所が《黒い空》となることがわかっているからだ。
『孵化現象』の《黒い空》が現れるとその周辺が広範囲にわたって破壊され、同時に中にいた幻想生物達が一気に現実世界に溢れ出してくる。
《黒い空》がまるで卵のように割れ、その中身が現実世界に孵るのだ。そうなったら当然、元の『幻想領域』の存在した地域は壊滅する。
世界にはもうすでにそういう都市が幾つもあり、日本で最初に《黒い空》の犠牲になったのが、現在の『札幌特別警戒区域』だった。
幸い、といっていいのか溢れ出したダンジョンモンスター達は当該地の警察と全国の自衛隊が総力を上げて討伐し、狭い範囲内に押し込むことに成功したが、大きな都市が今では隔離されて誰も立ち入りできない危険地帯になっている。
それを目にした人々は、自分の住む場所の近くに『幻想領域』が現れたと聞くと、住処を捨てて逃げ出した。
でも人がどんなに逃げても、『幻想領域』は逃げた先でまた発生し、やがて『幻想領域』は全国至る所に隙間なく存在するようになった。
そうなると、どこにも逃げる場所はない。
逃げることをあきらめ、厭でもそれらと向き合わざるを得なくなった。
今や、世界の至る場所に緩やかなタイムリミットが設定されているといってもいい。
もちろん、それはすぐには来ない。
各国が総力を上げて行った調査で、すぐに《黒い空》となりうる成長しきったダンジョンは千に一つの割合程度しかないことがわかっている。
その「A」「S」「SS」に分類される危険度のダンジョンも、半径5キロ以内の住民は既に避難完了しており、政府がレベル500を超える「超高レベル帯」の優秀な人員を投じて優先的に踏破を目指す手筈も整っている。
その成果もあり、ここ数年で「A」ランクダンジョンが3つ、さらに「S」ランクダンジョンが1つ、踏破された。
最難関の「SS」ランクダンジョンは目下、攻略中である。
でも、もし仮に踏破に失敗しても、十年前の札幌の教訓を得て、現実世界で即座に対策を行う準備は万端である。
だから、今のところ、そこまでの心配はいりません。
と、各種メディアではそう報道されている。
でも、すぐには来なくともいつかくる。
俺が住んでいる地域には「高ランクダンジョン」は存在せずまだ平穏だが、他より少し安全、というぐらいの意味でしかない。
その幸運な状況が、これからずっと変わらないとは言い切れない。
「────じゃあ、行くか」
俺は少し息を整えると、目の前にある「Fランクダンジョン」に入ることにした。
ダンジョンにはただ入り口となる場所の近くに立ち、「入る」と念じるだけでいい。俺は『無頼の短剣』を装備すると、ぎゅっと握り締めながら、ダンジョンへ入る、と意思を持った。
すると、すぐに視界がその渦に引き込まれていくように歪み、軽い目眩とともに俺の目の前にそれまでとは全く違う風景が現れた。
(……ここは)
そこは暗い洞窟だった。
(ここが、『幻想領域』)
周囲を見渡すと、今まで俺の視界にあった神社は影も形もない。
代わりに巨大なホールのように大きな空洞と、暗がりの奥に、緑色の小さな人のような影が見える。
(……まずい。……奥に、何か……いる)
早速、何かに遭遇してしまった。
心構えが完全にできていなかったので少し動揺する。
様変わりした光景だけに気を取られていた自分を反省し、そこにいるものをしっかり目を凝らして観察する。
(あれは……ゴブリン、だよな)
あの姿形は最弱のダンジョンモンスターの一種と言われる、ゴブリンだ。
あれを倒せるかどうかで、俺の今後の人生計画は大きく変わってくる。
今日は下見だけのつもりだったが、倒せるだけの準備は十分にしてきたつもりだった。
幸い、向こうはこちらに背を向けたまま、気がついていないようだった。
あれを相手に戦ってみようか、と俺が『無頼の短剣』を握りしめたところで、ゴブリンの姿が消えた。
(え、何)
気づけばさっきまで遠くにいたゴブリンが目と鼻の先にいた。
こいつ、もうとっくに俺に気がついていた。
そしてその鋭い爪をまっすぐに俺に突き出して。
今、この瞬間に俺の喉を貫こうとしている。
……なんだ、この状況は。
(『疾風迅雷』)
俺はわけもわからず後ろに跳びながら、咄嗟に『疾風迅雷』を発動した。
ゴブリンの動きが遅くなり、その爪の先は俺の喉を掠めただけですんだ。
だが────
(なんで、こいつ、こんなに速いんだ)
ゴブリンはステータスの平均値が10と、その気になればレベルアップ前の一般人ですら倒すことが可能であると言われ、かなり弱いダンジョンモンスターに分類される。
その【敏捷値】は「10」を少し超えるぐらいであり、俺の素の【敏捷値】「26」なら倍程度あり、右の謎数値の「33」もあれば楽勝のはずだった。
なのに、おかしい。
俺の予想と全然合っていない。
こいつ、「26」の10倍以上の【敏捷値】になっているはずの俺のことをしっかり目で追い。
そして、ゆっくりとだが、後ろに跳んで逃げた俺を追ってきた。
(やばい)
すぐに自分が予想していた事態と、全く違う状況に飛び込んでしまっていることに気がついた。
一旦ダンジョンに入ったら、『光の渦』が再起動するまで数分は待たないと外に出ることができないが、まだ一分もたっていない。
────『疾風迅雷』の効果時間は十秒。
その十秒が終わったら、再発動までのクールタイムは十五秒。
きっと、こいつはそんなに待ってくれない。
発動が終われば、逃げている間に殺される。
(……やるしか、ない)
俺に残された時間はあっという間に「九秒」となった。
俺は混乱した頭のまま、『無頼の短剣』を握り締める。
普通のゴブリンであれば【体力値】は10程度。
固定ダメージの『無頼の短剣』で、同じ数だけ刺せば、それで倒せるはずだった。
……でも、こいつは何だ。
本当にゴブリンなのか。
俺は本当にこいつをスキル発動中の十秒で倒し切れるのか。
疑問ばかり俺の頭の中で膨れ上がる。
でも、もう考えている暇も、ない。
(────くそ。喰らえ)
俺はゴブリンに全力で走り寄ると『無頼の短剣』を思い切り、そいつの喉元に突き立てた。
(う)
生き物の皮膚を貫く初めての不快な感触に、思わず吐き気が込み上げる。
人が人型の生物を相手にするときの生理反応。
人は二本足で立つ動物を本能的に「人」と認識する。
ゴブリンと目が合い、まだまだ攻撃する必要があるのに、嫌悪感で短刀を持つ手が震え、脳が勝手に攻撃を続けようとすることを拒否する。
────でも、それでいいんだ。
と、俺は自分の心を落ち着かせる。
俺がこいつに容赦する理由はひとつもない。
こいつは簡単に人を殺す。
そして、好んで人の肉を喰うという。
ライセンスを取得するときの必修の講習で、こいつを侮ってダンジョン内で惨殺された人の映像を嫌というほど見せられた。
こいつは人のように見えるが、決して話が通じることはない。
存在理由が根本から違っている。
こいつにとって人間はただの食い物でしかない。
────そうだ。
俺たちの両親もこいつらの同類にやられてる。
……こいつらと友好関係など絶対に築けない。
こいつは人に似てるが、人じゃあない。
人のような姿をしているだけの、人類の敵対種。
人同士の争いと違って、対峙すれば殺るか殺られるかの二択しかない。
弱みを見せれば、ただ単に食い物として狩られるだけ。
それが人類社会が血みどろの犠牲を出しながら十年の歳月をかけてたどり着いた、どうしようもない結論だった。
だから、俺は意思を以ってこの短刀を突き立てなければならない。
嫌でもやるんだ。
俺がちゃんと家に帰る為には今、ここでやらなきゃいけない。
そう考え、再び短剣を握り込む。
(────う)
俺は込み上げる吐き気となけなしの同情心を無理矢理抑え込み、再び『無頼の短剣』をゴブリンの体に次々と突き立てた。
それから────2回、3回、4回。
10回、20回。
それから先は数えない。
嫌悪感を押し殺して、息が続く限りひたすら同じ動作を繰り返す。
相手の肌から散る血飛沫がやけにゆっくりに感じる。
今、ゴブリンは俺を追ってきているが、スキルによる【敏捷値】の差のおかげか、ろくに俺に反応すらできていない。
……あと、何秒だ。
あと何秒、俺はこうしていられる。
俺は背中側に回り込み、一方的に突き刺し続ける。
こんな作業は早く終わってくれ、と念じながら。
すると突然、ゴブリンの身体がびくん、と跳ねるように動いた。
「うわッ!?」
咄嗟に俺が刺したゴブリンから飛びのこうとして、足を滑らせて尻をつく。
倒した?
……いや、違う。
スキルの効果が、切れたんだ。
(まずい)
失敗した。
相手はまだ倒れていない。
戦いは終わっていない。
それはわかっているというのに。
俺はその場から全く動けなかった。
俺は戦闘に関してはど素人だ。
多少は自主的に訓練したつもりだが、それを学ぶ予定だった学校を去ることになり、ほぼ何も知識も経験もないに等しい。
さらに、初めてのダンジョンモンスターにビビってる。
自分がやらなきゃいけないことは頭ではわかってる。
俺は、こいつからすぐに距離を取らなければならない。
少なくとも、『疾風迅雷』のクールタイムの15秒間、ずっと逃げ続けなければならない。
でも、逃げなきゃいけないとわかっているのに、この場から動けない。
(……やばい。やばいやばいやばい……!)
思うように体が動かないという事実を認識すると、俺は一層パニックになった。
地面に座り込んだままの姿勢で、短剣を握り締めて構える。
俺の貧弱なステータスは決してダンジョンモンスターの攻撃から身を守ってはくれない。
この状態で飛びかかられたら大怪我を覚悟しなければならない。
一撃で致命傷、あるいは即死もありうる。
身体中から冷や汗が吹き出し、心臓の鼓動が大きくなる。
そうして俺が焦ってもたついている間にゴブリンはくるりと振り返り、俺の顔をじっと見た。
『……ゴハッ……?』
そして、奴は口から大量の血を吐き、俺に飛びかかることなくそのまま地面に倒れ、血痕ごと淡い光となって消えた。
「……えっ?」
俺はしばらく放心状態だった。
だが、今起きたことを頭の中で整理していると、『精霊の声』のメッセージボードが現れた。
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【ユニークモンスター】『ゴブリンジェネラル』を討伐しました。
討伐により、以下の報酬が付与されます。
『精霊の宝玉』を得ました。
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「ユニークモンスター……?」
全く予定になかった、ダンジョンモンスター初遭遇。
それも、戦うことを想定もしていなかった強力なユニークモンスターだった。
「……倒せた、のか……?」
やっと自分が勝ったのだという実感が湧く。
反省点だらけの『幻想領域』初体験だったが、あれぐらいの相手なら戦える、という経験と自信が持てた。
全く期待していなかった討伐報酬も嬉しいが、俺にとってはその経験が何よりの収穫だった。
でも「F」ランクのダンジョンになんであんな規格外のゴブリンがいたのかがわからない。今日はもう探索どころではなく、すぐに帰って調べてみる必要があると思った。
「……流石に今日はもう、撤退だな」
今日のダンジョン初体験は反省点だらけだった。
今後安全に探索をするために、色々とするべきことが見えてきた。
好奇心はあるが、今日はこの辺りで撤退しなければならない。
でも、やるべきことを終えたら、また俺はすぐにここにやってくる。
そんな予感を胸に、俺は出入り口の『光の渦』が再活性化するのを待つと、すぐに『幻想領域』を出て、想定外だらけだった初のダンジョン体験を終えたのだった。




