その1 デスゲームお坊っちゃんの発案
「デスゲームがやりたい」
気怠げな木漏れ日が高価な絨毯を照らし、薄く開いた大窓から入り込む風がレースのカーテンを優しく揺らす。穏やかに過ぎていく午後の室内でぽつりと漏らされた一言に、豊かな白のカイゼル髭をたくわえた執事が振り返った。
髭のみならず、後ろへ撫で付けた髪も一筋の乱れさえなく白い。長身かつ痩躯、柱でも通っているのではないかという程にすっと伸びた背筋には、とても老齢とは思えない若々しさが満ちている。
その髪よりも更に白いシャツ、濃紺のジャケットにベスト。品のある紫のネクタイ。ぐいとせり出した鷲鼻と若干痩けた頬が表情に更なる厳格さを与え、鈍く光る銀縁眼鏡がそれらを一層引き締める。
まさしく老執事という概念を形にしたかのような、その完璧な佇まい。
彼はちょうど今、主人の為に紅茶の支度を始めたばかりだった。デスゲーム云々を口走った主人の為に。
振り向いたのは彼だけではなかった。
窓の拭き掃除をしていた若いメイドも、ぽかんと口を半開きにしている。
普通なら主人が部屋に滞在している最中に清掃作業は行わないのだが、これに関しては当の主人から直々に気にしなくていいと伝えられていた。実際、毎日欠かさず掃除されている部屋は極めて清潔で、少々ハタキを振り回したところで舞い散るような埃もない。何よりそれは、プライベートは自室にこもっている時間の長い主人からの、仕事をしやすくする為の思いやりでもあった。
「ショウマ坊っちゃん……」
「なんだい、曽根崎」
「承知の上でお尋ねしますが、今年でお幾つになられましたかな?」
「23歳だけど」
「23にもなって、やりたい事がデスゲーム」
「言うな。僕だって他に何かないかと散々考えたんだ」
彼――戦後に財を成した阿波辺家当代の次男坊である阿波辺将馬はいわゆる無能ではない、凡人だ。
名家の子女としてエスカレーター式の大学に流れのまま押し込まれ、特に問題なく卒業し、あらかじめ家によって用意された企業の、それらしい肩書きだけはある、実質ほとんど出社すらしなくていいような椅子を貰った。
在学中に研究論文めいたものも仕上げはしたが、課題自体はほぼ選んでもらったようなもの。つまりは最初から卒業の条件を満たす為だけの、なんら世に貢献しない飾り物の成果である。
高貴な血統と有能である事とは両立する。だが彼はそこまでではなかった。
別段、それに問題はないのだ。
ずるいといえばずるいが、コネや七光りは規模の差こそあれ社会のあちこちで当たり前に利用されており、なくす事は未来永劫できない。
言ってしまえば、阿波辺の家に生まれた時点で将馬は人として勝者なのである。
だから何かを新たに創造してみせる偉業は成し遂げられなくとも、用意された最上級のレールに乗って恵まれた人生を歩んでいけるのだ。
仕事は難しくない。というよりいてもいなくても影響のないポスト。やり甲斐はゼロに等しいが弁えているから不満もない。
代わりに、読書でも旅行でもスポーツでも余暇に使う時間はたっぷりある。
女関係については過去に一族内で余程痛い目をみた者がいたのか、唯一といっていいくらいに厳しく戒められている為、火遊びでトラブルを背負い込む心配もなかった。
若くして悠々自適な生活。
それこそが、阿波辺将馬という青年の現状を表す全てである。
「というか曽根崎、デスゲーム知ってたんだな」
「私も執事の道に入って長いですから」
「いや執事ってデスゲームの知識必須なものなの? 話が早いのは助かるけど……」
腑に落ちない顔をしながら、将馬はミルクティーを啜った。
細かい味の良し悪しを論じる知識はないが、そんな彼でも曽根崎の淹れる紅茶は一級品だと感じている。舌の上に広がるまろやかな甘みを楽しみながら、ふと彼は先程から完全に作業の止まっているメイドに目を向けた。
主人のいる状態で掃除をするだけでなく、作業を中断して聞き耳を立てるのもそれこそ言語道断なのだが、やはり目くじらを立てる気は将馬にはない。無論、自分以外の家の者がいる場所では注意した方がいいとは伝えてある。
「タエちゃんは知ってる? デスゲーム」
「い、いえ存じ上げません! ごめんなさいっ!」
「別に責めてないよ。あと何度も言ってるけど僕なんかの前で固くならなくていいから。デスゲームっていうのはね……いろんな年齢や職業の人を攫ってきて、一箇所に閉じ込めて競技の中で殺し合いをさせる?みたいな催しかな」
「なんでそんな酷い事させるんですか?」
「なんでだろうね。でも現に僕もやってみたくなってるんだから、これが抗えぬ金持ちの業ってやつなのかもしれない……」
「世の全ての金持ちに謝罪なさいませ坊っちゃん」
何かに覚醒したかのように己の両手を見詰めてわなわなと震え始める将馬に、曽根崎は淡々と言った。
「……とはいえ、主人の求めとあらば尽力するのがこの曽根崎の務め。ここは最大限好意的に、一風変わったパーティーを開催したい、と捉えるとしましょう」
「パーティーか……まあパーティーっちゃパーティーなのかな。悪い偉い奴がワイングラス傾けて談笑してるイメージある」
「悪い奴なのか偉い奴なのかはっきりなさいませ坊っちゃん。
それで、デスゲームと考えるとピンときませんが、パーティーと言い直すといろいろ必要なものが浮かんできます。具体的にはお分かりになりますか?」
「ああ、まず会場だろ? 自前で土地や建物を持ってるならいいけど、そうじゃなければ借りなくちゃいけないよな。そういえば豪華客船でやるデスゲームなんてのもあったっけ」
「正解です。しかも参加者に複数の題目で競わせる訳ですから、一箇所なら高層階から地下まで含めて相当な広さがなければならず、それが無理なら複数の会場を用意しなければなりません。その場合は輸送手段の確保も必要になりますね。これだけでも大変な手間です。なにせ殺し合いをさせている以上、決して人目についてはいけないのですから」
殺し合いの一言に、将馬は押し黙る。
つい今しがた説明の為に自分でも言ったばかりだが、他人の口から告げられると別の重々しさがあった。現実味と生々しさが一気に湧いてくるのだ。
「殺し合い……やっぱ殺すのか」
「死にたくないと足掻くあまりパニックを起こしたり、親友や恋人を醜く裏切ったり、逆に極限状態の中で友情が育まれたり、かと思えばおとなしそうな人が思いもよらぬ才能を発揮したりといったところがデスゲームの醍醐味でしょうから」
「そりゃそうだけど、でも考えてみたら初回からいきなり死人出すってのはハードすぎるよな。こっちだって手探りなんだし、様子見兼ねて骨折……いや骨折も生活が大変になるか、捻挫くらいからスタートしてみるのはどうかな」
「それはデスゲームではなく捻挫ゲームです坊っちゃん」
「人数もあんまり多いと管理が大変だから、多くて10人とかさ。
それで勝ち残った人には20万円くらいの賞金出すってのはどうだろう。最初としちゃ悪くない線いってると思うけど」
「20万の根拠は何なのですか」
「懐が痛まない範囲で僕がすぐ出せそうなポケットマネーだよ。そんな顔するなよ、こっちまで悲しくなってくるだろ。立ち位置が微妙に心苦しくてまだ給料に手付けてないんだよ」
「うまく勝てたら20万円もらえるけど負けたら捻挫するかもしれないゲームですかー。その条件なら結構参加希望者いそうですよね。わたしもやってみたいな!」
「タエちゃんって運動得意だっけ?」
「中学の時は陸上部でした」
「ふーん、それじゃあ捻挫したら困るよね……」
「坊っちゃん、まさか今のは『こんな場所であなたも死にたくないでしょう?』のおつもりですか?」
「そう。怖かった?」
「怖くないですー」
「そっか……」
馴染みのメイドは、雑巾を手にニコニコと笑っている。
いわゆる典型的な服装を除けば、メイドというよりはお手伝いさんと言った方が似合っている素朴な笑顔だった。黒髪を臙脂のリボンで団子にまとめたヘアスタイルに、短いフリルの付いたエプロンがよく調和している。
タエちゃん、と将馬は彼女を呼ぶが、厳密にはそれは名前ではない。
フルネームは田江幸穂。つまり姓である。
屋敷住み込みのメイドとして阿波辺家に務めて5年。将馬とは年齢が近いという事もあって、会話をかわす機会も自然と多くなった。
それなりにキャリアを積んでいるのに初々しさが残っているのは、未熟さというよりは人徳故にであろう。会話をする相手を疲れさせる事がないというのは貴重な才能だ。実際それを見込まれ、何度か新人の最初の教育係に当てられていたのを将馬も知っている。
「ゲームの路線はひとまず置いておくとしまして、会場が用意できたら次は仕掛けを考えませんと。これもまた大変です。内容によっては建物そのものに手を入れないとなりませんし、あまりに大規模な改修をしてしまったらその建物は他の用途に使えなくなります。およそ汎用性皆無なデスゲーム専用物件の誕生です」
「嫌な物件だなあ。事故物件の方がまだマシな気がしてくる」
「相当な資産価値のある建物を丸ごと捨てる覚悟が必要になりますね。ライブ会場をレンタルするのとは訳が違うのですよ」
「曽根崎ってライブ好きなん?」
「ロックを少々」
マジかよと愕然とする将馬の前で、曽根崎は片手で軽く弦を弾く動作をしてみせた。
ギターなのかベースなのか判別がつかない。
「そんな建物、僕は個人所有してないしなあ。まさかグループで保有してる建物を勝手に改築させてもらえる訳がないし」
「何らかの事業に使いたいとなれば一考されるでしょうが、審査がいるでしょうね。ましてやデスゲームとなると」
「勘当って言葉が脳裏をちらつく」
「ああ、事業といえばそちらの話もしなければなりません。ある意味で最も大切なのが収益です」
「収益?」
「収益ですよ」
「デスゲームで稼ぐの? それ無理じゃない?」
「稼ぐといいますか、運営費や維持費ですよ。人集めから設備のメンテナンスまで含めて、どこから肝心のお金が出てくるとお考えなのです」
「そりゃ当然主催だろ……ってああ、そうか……。
デスゲームを鑑賞する側はたぶん会費とか払ってんだよな、あれ」
「規模が相当に大きくなれば利益も出てくるのでしょうがね、まずは維持費の穴埋めが先です。優勝賞金で20万円を提案してくる人がそれらを全部自腹でまかなえますか? 言うまでもありませんがランニングコストは20万円では済みませんよ」
「20万円連呼するなよ、別にそれが全財産って訳じゃないんだぞ」
「あのう、デスゲームって赤字運営とか自転車操業してまでやるものなんですか?」
「違うと思う」
億単位の出費如き痛くも痒くもない、それこそ無駄金を湯水のように垂れ流してでも愉悦を得たいごく一握り、否、一摘みの層のみに許された道楽。一応は上流階級に含まれる将馬をしても想像すらつかない世界に生きる、暇と人脈を持て余した特級大金持ちのみが見る事を許された悪夢。
阿波辺グループはそれなりに歴史ある名家とはいえ、同族の中での序列はせいぜい中の中から下といった位置付けになる。地方ではどんなに優秀でも、怪物が集まる都会に出たら埋もれてしまうのと同じだ。
要は、一声かければ善良な市民の死に様を眺める為に幾らでも金を出すような最悪の仲間がわらわらと集まってくる身分ではないのである。
「お仕えする家を下に見るのは気が引けますが、残念ながら阿波辺では募集をかけたところで入会してくださる御方がいる見込みは極めて薄いと言わざるを得ません。またデスゲーム参加者の側から会費を徴収する訳にもいきません。収益をあげるスタンダードな手段であるグッズ販売等も無理です」
「確かに誘拐されて会費払えはないわ。そもそも金に困って参加する人も多い印象だしな、デスゲームって」
「これから死ぬかもって時にグッズも買いませんよねー……」
「そもそもというなら坊っちゃん、世の富裕層は坊っちゃんが考えているよりずっとまともなのですよ。デスゲームを観賞しませんかと持ち掛けたら、話に乗ってくるのではなく距離を置かれます」
「それは僕も知ってるよ。基本的にいい人ばっかりだよな、子供の頃からちゃんとした教育受けて、洗練された環境で育ってるから」
「条件は坊っちゃんと大差ない筈なのですが、どうしてデスゲームに走ってしまったのでしょうね」
「グッサグッサ刺してくるのはやめてくれ」
「仮に僅かな下卑た悪党がいたとしましても、その辺の若造が新たに始めたしょぼいデスゲームを会費払ってまで見ようという物好きは更に少ないでしょう。今後に期待して投資……などといううまい話はそうそう転がっておりません。普通は成長してからおととい来やがれとせせら笑われて終わります」
「もしかしなくても曽根崎って僕のこと嫌いか?」
「健やかにご成長なさる姿を幼少の頃より見守ってきたこの曽根崎、心から坊っちゃんを愛しております」
「どうもありがとう」
将馬は、すっかり空になったティーカップをソーサーに戻した。
おかわりはいかがですかと勧めてくる曽根崎に、黙って首を横に振る。
なんとなく思い付いたデスゲーム。やってみたくなったデスゲーム。これといった不満もないまま流されてきた人生で、初めてと言っていい大胆かつ意味不明な決断。いざ実行に移そうと詳細を検討し始めてみれば、そこには血生臭さと残酷さを容易く塗り潰してしまう程の圧倒的な現実が横たわっていた。
今更ながら、歴代のデスゲーム主催者たちはとても優秀で計画性があったのだなと感じ入るばかりである。
「でっかい会場に、手間も時間もかかる仕掛け多数に、莫大な費用……どこもかしこも金、金、金ばっかりだな」
「世の中、所詮は金なのですよ坊っちゃん」
「身も蓋もない現実突き付けてくるなよ、そんなの特別優秀でもないのにこんな生活できてる僕が一番身に沁みて実感してるわ。
だけどさ、いま出てる問題って、最初に僕が言ったように規模を落としに落としまくればどうにかなりそうじゃないか? デスゲームに限らず、どんなイベントだって大規模になるほど費用も手間も嵩むなんて当然の話なんだ。会場は持ち物件じゃなくレンタルできる所にして、建物自体を改造しなくても済むくらいの仕掛けとゲームを考えて、参加者の人数も絞って……ってやってけばだんだん何とかなりそうって思えてくるだろ? 千里の道も一歩からってね」
「素晴らしい、堅実さは人生において大きな武器となります坊っちゃん。結果としてそれはデスゲームじゃなくて町内会の親睦イベントだろという本質的な問題に踏み込んでしまっている件には、この曽根崎あえて目を瞑りましょう」
「目を瞑ってても口に出してたら意味ないんだよ曽根崎」
既に田江は一礼して掃除に戻っている。
同じ確認の繰り返しになって停滞しつつあった空気を動かすように、曽根崎は自慢のカイゼル髭をぴんと指先で扱いた。
「一旦まとめましょうか。
いきなり誘拐されて、体育館程度の広さがある会場に集められた10人前後のそこそこバリエーション豊かな一般市民。彼らに向かって、道化のマスクで顔を隠した坊っちゃんはモニター越しに語りかけます。これから皆さんにはちょっとしたゲームをしてもらいます。勝ち残れば20万円の賞金が出ますが運が悪ければ捻挫するかもしれません――」
「締まらないなあ」
「まあ、これでも演出と文面を練れば少しは格好がつくでしょう。
なにせ突然誘拐されるだけでも普通の人間には耐え難い恐怖ですから、学芸会レベルの出し物でも怯えて頂けるかと」
「いや誘拐はやめよう。うちに揉み消せるような権力ないし一発で捕まって終わる」
「日和りましたね坊っちゃん」
「ここで日和らない度胸の持ち主なら僕はもっと上に行ってるよ」
「ごもっともです」
ともあれ単なる気紛れの思い付きから、スタートラインのそのまた5メートル手前くらいには立った。あとは一歩ずつ距離を詰めていけばいい。そうしていよいよ白線を踏んだ時、本当に走り出すのかはまた未来の自分が判断すべき事である。
久々に、体の内側に熱が巡っていくのを将馬は実感していた。こんなのは、もしかしたら何かが変わるかもと期待していた大学入学の時以来だ。
あの灯火は気付かぬうちに消えてしまっていたが、今度こそ――。
「いくら小規模ったってぶっつけ本番は無茶だから、そんなに手間もお金もかからない身近な範囲で予行演習をしてみたい。曽根崎、参加できそうな人を探してみてくれ。趣旨も伝えてな。善は急げだ」
「悪ですよ坊っちゃん」
結局は他力本願の、馬鹿げているとはいえ悪趣味な富豪の道楽には違いない要請に、容赦はないが忠実でもある執事は、かしこまりましたと恭しく頭を下げた。