900.1-14「迷える子羊」
〝恋バナ大会〟直後ということもあってドキリとする問いかけだったが、〝イエスマン〟自身がその意味を理解していなかった。
嘶きや吠え声と同じく、攻撃の際の威嚇行為でしかない。
しかし、悪魔に変貌する前は確かにヒトだったのであり……おそらくは恋バナ好きな女性だったのだろうと思うと、セレナはどうしようもなく悲しくなった。
「……せめて。苦しみなく葬って差し上げます」
〝イエスマン〟は愚鈍ではあるが、とにかく硬い。数千の悪魔の魂を喰らったのだと考えると、それも納得の防御力である。
リリィの〝紅の炎〟ですら、焼き尽くすのは手がかかるだろう。
しかも簡単には近づけない。
触れられなければいいが、なにせ謎の多い敵である……だから大丈夫とは断言できない。
遠距離でひたすらに魔法を叩き込むか、あるいは……。
「……っ!」
猶予はそれほどなかった。
〝イエスマン〟が周囲の全てを飲み込むほどに、大きく息を吸い込み始めたのだ。胸部異常に膨れ上がり、生物ではあり得ない形状となる。
足場も隠れ場所もない空中では、引き摺り込まれるばかり。
それだけではなく、全身から生気が抜けていく。
魔法障壁を張ってみるも、それもみるみるうちに剥がされる。
で、あれば。張り続ける。
一枚でダメならば二枚、二枚でもダメならば三枚……魔法で風を操り、〝魔素〟をかき集めつつ、防御に徹する。
「――」
〝イエスマン〟が〝魔素〟を取り込む様を、〝魔瞳〟に焼き付ける。流れ方と、蓄積量と、その後の〝魔素〟の流れを、全て。
〝イエスマン〟には、今の所〝魔力〟がない。ただ〝魔素〟を溜め続けるだけ。
すなわち、魔法を使えない。というのに、魂あるいは生気を吸収するという〝力〟を使いこなしている。
ならば、〝イエスマン〟の体内のどこかしらに、〝力〟を発動するための何かがあるはず。
「ふむ」
予想は的中。
〝イエスマン〟の心臓部に溜まり続けている〝魔素〟。これが細かく振動を始めていた。
魔法を使う前兆ではない。〝魔素〟という物質が、物理的に揺さぶられているのだ。
同時に、心臓部から得体の知れない〝気配〟を感じる。
「決めるのならば、次の一手ですね」
〝イエスマン〟の攻撃は直線的。
胸いっぱいに吸い込んだ息をどうするかなど、子どもでも想像できる。
これを、利用する。
「イ、イィィィ――イヤ、ダァァァァァァ!」
醜く巨大に変形した胸部が、一気にしぼむ。
その内側に圧縮して溜め込まれていた空気が解放され――爆発。大気中の〝魔素〟すらも消し飛ばしてしまうほどの威力となる。
そのまま放置していたならば、地上はさらなる被害を受けていただろう。
人体を引き裂く突風が吹き荒れ、地震をも引き起こし……リケールもろとも消滅させる大災害となっていた。
「――ふう。流石に、驚きましたね」
そうさせないための実力を、セレナは〝元帥〟として有していた。
普通に魔法障壁を張ったのでは不可能だった。その威力を受け止める強度もそうだが、広範囲をカバーしきれない。
だが、何も爆発を封じ込めねばならないわけではない。炎が吹き荒れるわけでもなければ、槍が降るわけでもないのだ。
その威力を削ぎ落とし、単なる突風にまで抑えればいい。
だから、これまで散々そうしてきたように、大気中の〝魔素〟に頼った。
〝黄昏現象〟にも負けないほどの密度の〝魔素〟をかき集め、地表を覆い。爆発が起こるのと同時に、その全てを〝風〟に変える。
そうして、渦潮の如き〝風〟で爆発を相殺したのである。
その上で。
「ちゃんと〝錯覚系統〟が効いたようですね」
爆発が成功しようが失敗しようが、〝イエスマン〟の気が緩む瞬間が訪れる。
それを見逃さず、瞬時に死角へ潜り、魔法による催眠術をかけ……強引にでも戦いを終わらせることができた。
「さて……。苦しみなくとは言ったものの、どう終わらせるものか」
改めて見ても、二十メートルは巨大だった。
黒く長い体毛に覆われた体は筋肉質で、波打つ毛並みが凹凸に波打っている。さながら筋肉の塊のようであり、これが地上で暴れていたと思うとゾッとする。
極め付けは二本のツノ。歪みながら捻れたそれは、大の大人をゆうに越すくらいの大きさである。
到底、人類とは共存できない。
少女の魂が埋め込まれているのだと思うと、少し気が引けてしまうが……暴力の化身のような生物を見逃すわけにはいかない。
「やはり斬首が……。む?」
セレナが迷いつつも魔法を使おうとした時、〝イエスマン〟の体がひび割れ始めた。燃え尽きた木炭のように、ぱらぱらと灰となって散っていく。
そこで、空の裂け目の方を振り向いた。
見れば、ひび割れを起こしていた空が、今に閉じようとしている。傷が治るのではなく、無理矢理にでも縫合するかのように、強引に。
ごぅん……と低い異音が鳴り響いたかと思うと、空は何事もなかったかのように元通りになった。
〝イエスマン〟に取り込まれていただろう少女の魂も、数千の魂も……目に見えることもなく消えていくのを、なぜだか感じ取ることができた。
「なんと、まあ……。まさしく悪夢のような出来事でしたね」
眼下に映るのは、歴史も文化も丸ごと潰されてしまったリケールだけ。地下に逃げ込んだ人々がそろそろと出てきているのが見える。
「キラ様は無事だとして……。先に、リーウさんの恩人から探しましょうか」
とにもかくにも。いきなり巻き込まれることとなった大騒動に終止符がついたことに、セレナは一安心した。
○ ○ ○




