889.1-3「境目」
「ほら。空」
エリックに促されて、〝宵闇現象〟があった上空へ目をやる。
空に入っていたヒビは元に戻ることはなく、むしろ広がっていた。
ぴしり、ぴしり、とカケラを飛ばしながら、その内側を曝け出す。
隙間から覗いたのは、〝宵闇現象〟とはまた別の闇。どろどろと濁ったようにどす黒く、今にもこぼれ落ちそうなほどに蠢いている。
「気持ち悪ぃ……。キラは……アレに取り込まれてたのか……?」
「――いえ、おそらく違うでしょう。彼ほどの人物であれば、まず何よりもアレの対処に動かないはずがありません。つまりは……純粋なトラブルメーカーということです」
シスの言葉を体現するかのように、空間の裂け目から何かが溢れ始めた。
最初は水が垂れ始めたのかと思った。巨大な水滴が一滴だけ漏れ出たように見えたが……違った。
確かに途中までは水滴のような形を保っていたが、しばらくするとバラバラになり始めたのだ。リケール全域に、それこそ雨のように降り注ぐ。
ただ、それらが何なのかは一向に理解できない。
見た目は、半透明なオタマジャクシ。目もなければ口もなく、血すら通っているようには思えない。
「人魂……?」
ドミニクが呆然としたようにつぶやく。
「んなバカな……」
「だって……。〝命の鼓動〟が、うっすらと視える」
「じゃあ……。あれがヒトだって? でも……〝気配〟も何も感じないんだぞ」
徐々に、その得体の知れなさに鳥肌が立ってくる。
エリックは何があってもいいようにアテナを抱えて身構え、スプーナーもマーカスの遺体を素早く抱える。
「あまり好ましい事態ではありませんね。――戦う準備をシロ」
シスは黒マントを真っ白に染めて、粗野な人格を呼び起こした。
「ドミニク、いけるか?」
「倦怠感がひどいけど……。平気。体は動く」
セドリックは剣を引き抜こうとして、その感触がないことに気がついた。〝宵闇現象〟から逃げる際に取り落としてしまったのだ。
少しの期待を込めてエリックに目配せをすると、仕方ないとばかりに剣を放ってくる。
「俺はアテナを守ることに集中すっからな」
回りくどくこの場を任されたことに、セドリックは嬉しくなった。ドミニクとシスとともにエリックたちを囲い、全方位を警戒。
そして――。
「瓦礫に、人魂が……?」
雨のように降り注ぐ人魂が、地上に到達。
地面に染み込んで消えるようなことはなく、そこら辺に散らばった瓦礫に入り込んでいく。
家屋の壁や屋根といった比較的大きなものから、棚や机やイスなどの家具、さらには割れた花瓶など小さなものにまで。
セドリックは眉を顰め……次の瞬間、ひどい悪寒を感じた。
モノが、人じみた〝気配〟を持ち始めたのだ。
それと同時に、形を変え始める。机であろうがイスであろうが、一度ぐにぐにと丸まり……手と足が生える。さらには、細い尻尾と気色の悪い黒い翼も。
「絵本に出てくる悪魔みてぇだ……!」
「言い得て妙……! よりによってこの国に現れるとは、なんの因果か……!」
毛玉のような悪魔、ゴブリンのような悪魔、オーガのような悪魔……。
大きさも特徴もてんでバラバラではあったが、総じてヒト型という共通点があった。二本足でしっかりと立ち、翼と尻尾が生えている。
しかも――。
「ア、ア、アッ〜! 転生、成功だァ〜ッ!」
聞き間違いでも何でもなく、ヒトの言葉を持つ個体もいた。
毛玉から枝のような手足の生えた悪魔が、真っ赤な目と大きな口をかっぴらいて叫ぶ。
これに、周りの悪魔たちが呼応した。
地鳴りにも似た雄叫びが、辺り一帯を支配する。そのあまりの迫力に、悲鳴や怒号が入り混じる。
セドリックも、耳を塞ぐようなことはしなかったものの、目を細めて剣を落としそうになった。
「来んぞ、気をつけろ!」
エリックの声もあって、セドリックは素早く対処に入った。
目の前から、まるで覆い被さるかのように両手を広げて、熊の悪魔が襲ってくる。
「ブ、ブファ、ブフォァァ!」
引くことはできない。防御も難しい。
だから――突っ込む。
「こん、のッ!」
懐に飛び込んで、刺突。
が、手応えはイマイチ。突進も止まらない。
それでも、考えることも動くこともやめない。
素早く剣を引き抜きつつ、横移動。
投げ出すようにして足をスライドさせ、悪魔の侵攻方向から逃れる。
間髪入れずに、一振り。
狙いは、熊の足元。
剛毛に阻まれて、わずかに肉を削ぐぐらい。
しかしそれでも十分にふらついてくれた。
続け様に、細長い尻尾を引っ掴む。
「グルァアァ!」
ぐい、と思いっきり引っ張る。と、その凶悪な巨体のどこから出たのかというほど、と甲高い悲鳴をあげた。
熊の悪魔が涎を垂らしながら睨みつけ――、
「〝イエロー・グローブ〟」
その隙に、ドミニクが至近距離で〝雷の魔法〟を叩き込んだ。
どうっ、と倒れたところに、セドリックが剣を振りかざす。首元へ深く。
熊から人じみた〝気配〟が薄れていくのを感じた。
一安心しつつも、警戒は緩めない。
ドミニクを引っ張りつつすぐさま陣形に戻り――喋る毛玉の悪魔と対峙する。
「お前らは……何なんだ!」




