885.キセキ
「一つ、聞いていい?」
『なんだ?』
「君らは、人間の世に……人がいる〝界域〟に降りてくるの?」
『否。〝界域〟の支配者がいなくなったことで、扉は開かれた。だが〝物質界〟……人間界に干渉することは禁忌。頼もしい門番も控えているゆえ、間違いが起こることもなかろう。……こういう応え方であっていたか?』
「ん。安心した。もし何か起こりそうだったら、〝混沌〟に加えて〝亜人〟たちとの戦争にもなりかねなかったから」
『ふっふ……。そうか』
〝雷之神〟は何かを思い出すようにして笑ったが、その真意を問うようなことはできなかった。
徐々に精神世界が遠のいていく。
『ああ、そうだ。〝界域之力〟はそのまま人間に預けようと思う。どうやら、長兄よりもよほど上手く使ってくれるようだから』
その意味を理解する前に、キラもエルトも目を覚まし……。
「わお」
〈わお〉
ブラックやネメアやレタをはじめとして、たくさんの顔が見下ろしてきている状況に、どきりとした。
「起きたか」
ブラックはいつもの表情を崩すことなく。
「お、起きた〜……!」
ネメアは今にも泣き出しそうで。
「ほんとに寝てただけだった……」
レタは静かに驚いていた。
「んー……。ん?」
〈ねね。どういう状況?〉
寝起きということもあるが、飲み込みにくい状況ではあった。
ブラックたちには変わりはないようだった。〝ヨアラシ〟クルーも全員無事で、互いに無事を喜んでいる。
しかし彼ら以外にも、たくさんいた。人混みのする街中に一人寝転がっているような、妙な気分になる。
「一体、何が……?」
ふと空を見ると、七つの〝雲島〟が所狭しと身を寄せ合っていた。空飛ぶ船も無数に行き交い、大型船も中型船も混じっているその様は圧巻。
地上の人混みも相まって、絶望とは程遠い光景だった。
「脅威は去った……というわけではないが。どうやら、俺たちは古代人をまだ理解できていなかったらしい」
ブラックに助け起こされて、彼が指し示した方を見る。
そこには台座があった。〝パレイドリアの村〟の〝神殿〟で見たような、長方形の箱のような台座に、クリスタルが鎮座している。
「〝界域之力〟の……?」
「……なに?」
「あ〜……。後で話す。あれは、要は、〝亜空〟の力を封じ込めた……〝氷枷〟?」
「らしい。そして、アレの乗っている台座が〝シールド発生装置〟」
「シールド? ……ああ、なるほど」
〝魔物〟たちに追い詰められている時と違って、よく頭が回る。
確かに、二千年もの歳月をかけて〝亜空〟の力を研究していた古代人たちならば、大元となる〝界域之力〟を目の前に怯むはずがない。
むしろ、彼ら彼女らは嬉々として飛びつくだろう。
詳しいことは理解もできないだろうが、〝界域之力〟でシールドを展開し、黄昏色の空をも寄せ付けない空域を造り出したのである。
久しぶりに思える青空は、なんとも美しいものだった。
「いや〜……。私たちもその可能性に気づけたはずなんだけどね〜……。ちょちょっと改造すれば、船が墜落するなんてこともなかったよ」
ネメアが恥ずかしそうにそう言い、レタも付け加える。
「うん。私たちがもっとしっかりしてれば……。あの状況に狼狽えてさえいなければ。あなたが無理を通すこともなかった」
二人とも何かがぷつりと切れたのか、感極まったように抱きついてきた。
ネメアもレタも、人目を憚らずわんわんと泣いてしまう。
「お、おお……? と、とりあえず無事だったからさ。いいじゃんか」
なんとか宥めようと二人の背中を撫でていると、またも見知った顔がやってきた。
「良いか悪いかで言えば、悪いだろうな。一時は心臓が止まっていたと言うじゃないか。無茶をした証だ」
「イロンまで……。っていうか……ぼろぼろじゃん」
もう顔を合わせることもないと思っていた天才医師イロンとは、ずいぶんと様変わりした格好での再会となった。
平然を装っているが、その体はボロボロ。頭には包帯を巻き、左目に眼帯をつけている。さらに左足を引き摺りながら杖をつき……痛々しい姿だった。
「そうとも。かくいう私も、人のことをとやかくいえんのだ。他所様の心配はありがたく受け取っておけ」
「そうしておくよ」
キラは体の力を抜き、ネメアとレタの好きなようにさせた。気を抜いてうっかり倒れてしまいそうになるが、そこをブラックが支えてくれる。
「オロスたちは?」
「集中治療室に隔離中だ。特にオロスは、左腕が吹き飛び、腑が飛び散った。当面の間は絶対安静。……残念ながら、面会も謝絶だ」
イロンは付け加えるようにしてブラックに言い、ブラックは「そうか」とだけ返した。
そっけない返し方だったが、律儀なところのある彼のことを考えると、どこか残念そうに思えた。
「で……? 実際、何が起こったわけ? きっと〝亜空〟の力をシールドの展開に応用したんだとは思うけど……」
「なんだ、わかってるじゃないか。その通りだ。ドーム型から円筒型に変更して、少しでも〝魔物〟とやらへの迎撃体制をとりやすくしたのだ」
「二つあったはずだよね? 〝心臓〟」
「もう一つは研究用に厳重に保管してあるが……。〝心臓〟だと?」
「神サマがそう言ってた」
「〝亜人〟が?」
「いや……。〝雷之神〟。寝てる間に〝神通力〟ってやつで接触してきてさ」
「ふむ……。君は……というより、今もなお続くこの大騒動も含めて、我々は随分と大きな事象に直面したようだ。話を聞いてもいいか?」




