845.トラウマ・2
〈効いてる……と思う。出航してからなんともなかったし。今は体の主導権ないからわかんないけど〉
「聞きそびれてたけどさ。船酔い……っていうか、乗り物酔いで人格のスイッチしたことあるの?」
〈んー……? ……いいや、ない、と思う。馬車とか船とか、大抵誰かと乗ってたし。エルトにスイッチしたら目が赤くなってバレちゃうからさ〉
「じゃあ……エルトくんに質問。キラくんが乗り物酔いだった場合にスイッチしたとして、その酔いが自分に回ってくると思う?」
船の操作を楽しんでいたエルトは、急に話をふられたことで首を傾げた。
「え? 私? ……いいや。私、乗り物酔いとかしないし」
「実体験はないけど感覚的にそう思う……ってコトでいい?」
「うん。……あれ?」
エルトは何かに気付いたのか、再度首を傾げた。
その疑問に答えるようにして、ネメアが続ける。
「まあさ。一つの体に二つの人格だなんて、私だってそんなの知らないから、絶対とは言えないんだけど。それでも。一つの体に異常が起きてる……なのに片方の人格にそれが伝わらないってのは、理屈としてはなかなかあり得ないことじゃない?」
〈あー……? 確かに、そうかも。どうせならエルトも船酔いで苦しんでほしい〉
「こらこら。……ってことはだよ。キラくんの方に何か問題があるって考えるのが自然……ってのがイロンが出した結論ね。一種のPTSDじゃないかってさ」
〈ぴー……何?〉
「心的外傷後ストレス障害……トラウマだね。キラくん、記憶ないでしょ? きっとそれが関係してると思う」
〈あー……ね。けど……乗り物酔いが? 人混みとか注目されるのとか、そういうのは覚えがあるというか、ハッキリ言って嫌なんだけど……〉
「んー……それもそうなんだろうけど、病気って観点で考えるともうちょっと違うとこに根っこがあるって言うかさ。これが症状だ、ってハッキリ言えるような何かがあるんだよね」
〈じゃあ……乗り物酔いするのは、乗り物そのものに弱ってるわけじゃないってこと? でもさ。いつも酔うわけじゃなくって……酔ったり酔わなかったり、みたいな〉
「――。まず、前提として。キラくんの脳みそは、おそらくエルトくんの脳みそと融合して、今の形になっている。それはわかってるね?」
〈ん。うん、まあね〉
「で、全身に至ってはツギハギだらけ。医学的にみてもなんら問題なく人の体として成立してるんだけど……。注目すべきは、なぜそうなったのか」
ネメアの言葉に、エルトが座席に深めに腰をかけた。操縦桿から完全に体を離して、〝カゼキリ〟の自動操縦に任せる。
「まあ……普通に考えると。〝雷〟も〝覇術〟も完璧に扱える状態のキラくんを、消し炭にしちゃうほどの脅威が襲ったってことになるよね」
「だから記憶を失った……って普通は思うでしょ?」
「……ん? 違うの?」
「全身がツギハギってことは、それが傷の形ってことで……。炎に焼かれたように爛れた形になってるのね。体も、内臓も、脳みそも」
「焼かれて……!」
「だけど、脳みそはちょっと違っててさ。だいたいは同じような傷跡なんだけど、大脳皮質……記憶の保管庫の一部は綺麗にくり抜かれてたんだって。まるで記憶を消去したみたいに」
「じゃあ……。キラくんの体をツギハギにして、ついでに私の脳みそも移植した〝誰か〟が……キラくんの記憶をあえて消した?」
「だろうね。PTSDが発作的な形で現れるのも、見方を変えれば、本来の症状が緩和しているともとれるし。その〝誰か〟さんはキラくんの命の恩人と言ってもいいよ。エルトくんの脳ミソのことを考えなければ、だけど」
ネメアが言及したのはそこまで。いかに古代人といえど、消えた記憶を含めて、過去に何が起こったのかは想像することすら難しいらしい。
とはいっても、キラの感想は何一つ変わることはなかったが。
〈生意気な……〉
「な、生意気て……。恩人に対して言う?」
〈ネメアたち古代人すらも驚く治療術をもった存在なんて、一つしかないよ。どこぞの〝神〟サマとやらが、何か自分の都合のいいように仕立てたんでしょ。そもそも、助けたい一心でたった一人の人間を助けるわけがない。そんな状況があったとしたら……〉
「〝カミ〟の思惑、ねえ……。色々と解き明かしたいけど、キミは特別〝カミ〟嫌いみたいだし、今は触れないでおくよ。それよりも今は目先のことに集中——見えてきたよ!」
ネメアの言う通り、〝カゼキリ〟の行手に”六つ目の獣”がいた。まだ小指ほどの大きさしかないが、その悍ましい迫力を肌で感じることができる。
何度目にしようとも褪せることのない恐ろしさに、エルトは力強く操縦桿を握った。
「目的は一つ。空間データを回収すること。そのためには、目的の座標に三十秒ほど止まる必要があるんだ。〝マシロキューブ〟に書き込む時間だね。これは私が行うとして——問題は離脱。書き込みが終わったのと同時に、ブーストを使った緊急離脱をしなきゃいけない」
「それはいいけど……。三十秒も留まってられる?」
「〝六つ目の獣〟は、見ての通りデカイ。だから、一つ一つの動作が遅くなってる。予備動作から実際になんらかの被害が発生するまで、猶予はあるんだ。座標と〝獣〟の位置関係もそう悪くない——から、全てを無駄なくスムーズにこなせば、被害はゼロって計算さ」
「ってことは……。接近の方法も考えなきゃってことだね? 例えば……雲に紛れて近づいて、一気に懐に潜る! とか」
「いいね、それ。採用! じゃあ、早速行動に移そう。シールドを展開して、自動操縦に切り替えれば、〝カゼキリ〟ちゃんが目的地まで運んでくれる」
「りょーかい」
エルトは手足のように〝カゼキリ〟を操った。
船体がシールドに守られたのを確認してから、操縦桿を倒して雲へ飛び込む。視界が真っ白になったところで水平飛行を保ち、両手両足を離した。
すると〝カゼキリ〟はその意図を汲み取り、雲に隠れたまま進んでいく。視界はつぶれたままではあるが、それに惑わされることなく、少し進むごとに微調整してくれる。
「いっそのこと透明になれればいいのになあ」
「ステルス機能の搭載は考えたんだけどね。けどあれって、船体全体に特殊なコーティングが必要でさ。ってなると、その稼働のためのバッテリーも別に積まなきゃいけなくって……。どうしてもガッチガチな戦闘船になっちゃうんだよねえ。意味ある? みたいな」
「まあ……。どんだけ船体が頑丈でも、〝怪物〟の小指がチョンって当たっただけでアウトだもんね。じゃあ、速さ取るね~」
「そういうコト。無人偵察機で試したら、悉く破壊されちゃったからさ。機械も人工知能も優秀は優秀だけど、〝波動〟の微細な動きを読み取るのは人間には敵わないんだよ」
「便利だけど、万能じゃないんだ。だから、私が操縦?」
「作戦が開始したら、もう私はキミたちのそばには居られないからね。なんにしろ〝カゼキリ〟ちゃんはとびっきり有能で、きちんと座標まで運んでくれるだろうけど……それでもキミらの判断には敵わない。〝波動〟を読むのもそうだけど、戦場で培った勘ってやつは機械は持ちえないからね」




