801.メシ・2
「早く、声をかけてやってくれ。――ここは私が食い止める」
まるで記憶が蘇ったかのように。
今の状況を、ふと思い出す。
〝チルドレン〟との戦いで機敏になっていた身体が、嘘のように鈍くなる。
マーカスが倒れている場所はわかりきっているのに、なかなか目を向けられない。
「マーカ……ど、の……!」
弱々しいアテナの声を耳にして、エリックの体はようやく動いた。
地面に横たわったマーカスは、この世から旅立とうとしていた。自らの血に溺れたかのように、全身が真っ赤。
〝神力〟の暴走で衰弱したアテナが、見当違いな方向へ這いずっている。
「……!」
『村に居場所がない』……いつだったか、吐き捨てるように言ったことがある。
今思い返せば、随分と平和ボケしたセリフだった。
エリックは、死を直接見たことがない。
〝武装蜂起〟の際、狂人クロスによりアテナの両親が殺害されてしまったが、それも目の当たりにしていたわけではない。
どさ、という不自然な物音が聞こえて、振り向いたらだらりと力なく横たわる腕と血溜まりがあっただけ。
命の灯火が刻々と消えゆく様を目にしたのは、これが初めてだった。
それを思えば、〝隠された村〟での生活がどれだけ幸運だったか。
父も母も健在で、友達もいて、時折悲しい瞬間に遭遇することはあるけれども、自分の身に降りかかったわけではない……。
幸せというには過酷だった。
しかし揺らぐことない〝日常〟が確かにあった。
「あ……?」
無知は罪。
知らないからこそ……何をすればいいか、一つもわからない。
ただただ、頭を真っ白にして、血の海にへたり込むしかなかった。死にゆくマーカスの顔をのぞくこむことなど、できやしない。
「えりっ……あて、な……。おれの……ともよ……」
それでも幸いだったのは。
マーカスが、引き攣りながらも、笑顔で目を合わせてくれたことだった。
「ありがとう……」
「え……あ……?」
「きみ、らが……ともだちで……」
もうすでに、目には何も映っていないはず。
もうすでに、呼吸もできないはず。
なのに。
はっきりと。
ニカっと笑って。
「とても……楽しかった!」
その瞬間に。
エリックは、ようやく口を開いた。
「俺も! 俺も……! メシ、すげえ美味かったっす!」
ひどく静かに安らかに……。
マーカスは、いい夢でも見るかのように、この世を旅立った。
「……逝ってしまわれたか」
エリックも不思議なことに……。
相変わらず頭が真っ白で、何も考えられないというのに、スプーナーの言葉を受け入れることができた。
「良かねえけど……良かった。言葉……ちゃんと受け取れた」
ぐしぐしと痛くなるくらいに目元を擦り、鼻を啜る。
「眠る場所……。見つけてやんねえと……。ここじゃあ寝心地悪そうだし」
「……そうだな」
ただ、エリックの体は、意に反してマーカスから離れた。
少し離れたところで地面にうずくまり、泣きじゃくるアテナの元にヨタヨタと向かう。
「アテナ……。聞いただろ? 楽しかったってよ」
「聞いたよ、バカ……! だから……!」
その言葉の続きも、アテナの想いも、痛いほどよくわかった。
しかしそれをひとたび口にしてしまえば、混沌に突き落とされたリケールの中で、ただただ泣きじゃくる他に手立てがなくなってしまい……エリックはぐっと堪えた。
「マーカス殿は私が連れて行こう。君はアテナを……。残酷だが、ここでまごついているわけにはいかない」
「うっす……。けど、スプーナーさんは大丈夫なんすか?」
「疲れてはいるが、ほぼ無傷さ。あの妙な包帯だらけの子どもも、時間だなんだと呟きながら戦線離脱した……。しかし君の方こそ、ボロボロじゃないか」
「ぶっ倒れるまでは動けます。――うまいメシ、たらふく食わせてもらったんで」
〝平和〟だった〝隠された村〟でも、死というやつは誰のそばにもいた。神様とやらに指さされて死んでいったヒトたちを、エリックもたくさん知っている。
皮肉にも、この喪失感は親しみのあるものだった。
だから……無理矢理にでも前を向かねばならないのだと解っていた。
「アテナ。いくぞ。俺らでやり遂げるんだ」
「……何を?」
「エグバート王国じゃあ、エマール家は反逆者だ。けどマーカスさんはそうじゃねえ……俺らで、あのヒトの汚名をすすぐんだ。絶対に……!」
「……そんだけじゃ足りない。私らでマーカス殿を英雄にする。私とエリックの存在を世に知らしめて、マーカス殿という英雄がいたんだって……世界中のみんなの記憶に刻む」
「――いいな、それ。やるぞ、アテナ」
「うん。……ありがと、エリック」
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