800.助け
〝知恵の神力〟の暴走。
それが本来どういう規模で、今回がどれだけマシだったのかは不明。
ただ事実として、これまで生きてきたすべての記憶が消えるようなことはなかった。
失ったのは、ほんのわずかの間の記憶。
なぜ今倒れているのか……その一点だけ。
〝パサモンテ城〟からなんとか逃げたのも、〝チルドレン〟とやらと遭遇しているのも覚えている。
なぜ足が痛いのかも、ぼんやりと思い出せる。
それもこれも、アテナがギリギリまで必死に制御してくれたおかげだろう。
だが――タイミングが悪すぎた。
「ぐ……っ……」
〝神力〟の暴走は、その場にいるすべてに等しく作用した。
あたりは静寂に包まれ、混乱の最中にあったということを皆が忘れていた――〝チルドレン〟以外は。
静かな空気の中で、マーカスの呻き声がいやに響く。
何かが散る音も、甲高く響く金属音も、そしてどさっと倒れる鈍い音も。
「マーカスさん!」
何が起こったかなど、考えるまでもない。
その一瞬だけは、目に映るもの全てを素早く脳内で処理し――剣をとって立ち上がっていた。
「――このクソッタレがぁッッッ!」
もしかしたらアテナもマーカスも望んでいないかもしれないが、もう我慢ができない。
そうやって吹っ切れたからか、今までにないほど全てがクリアとなった。
視界に映る状況全てを把握することができ、風や〝気配〟で敵の動きを察知する。
右の小さな鎌による、大ぶりの横なぎ。
距離はあるが、右腕が伸びることでその鋭い先端を的確に当てようとしてくる。
これをエリックは、左の大鎌の動きに注意しながら、剣で受け流す。ひどい恐怖に押しつぶされそうだったが、冷静に処理できた。
と、そこで一旦停止。
勢いに任せて突っ込まず、あえて距離を保つ。
すると、先ほど弾いた小さな鎌が、腕が縮むのに合わせて戻っていく。
どうやら、腕が伸びるだけで、そこからさらに自在に動かせるわけではないらしい。
それを確認して前のめりになろうとしたところで――エリックは毒づいた。
「今度はお前が来んのかよ……ッ!」
〝チルドレン〟が左の大鎌を構え、突進してくる。
タイミングをずらされたことに苛立つが、少しばかり余裕がある。
一歩ほど距離を置きながら、観察。
大鎌の刃渡は百センチ以上。その刃はすでに血塗られており、マーカスを鎧ごと引き裂くほどの鋭さがある。
下手に刃を交えることはできない――回避一択。
そこまで思考が回ったのはよかった。
「――ッ!」
小さな体躯を目一杯に使った一撃必殺の大鎌。
そう思い込んでいたところへ、ニュッ、と右の小さな鎌が動き始めたのである。
腕が伸びるからこそできる曲芸に、エリックは目を細めた。
瞬時の判断で、大鎌の軌道を読み、受け止める。
もう一歩、何とか遠ざかり、大鎌の峰に剣を当てる。
〝チルドレン〟のパワーは、その見た目からは考えられないほどだった。大鎌の重さも相まって、軽く吹き飛ばされてしまう。
想像以上の力で肝を冷やしたが、それがエリックの狙いだった。
二つの鎌を捌くのは不可能。ならば、大鎌の可能性を潰した上で、小鎌ひとつに絞る。
しかし。
これもまた、中途半端。
「っ……!」
状況が好転しない。
素早く起き上がり、体勢を立て直す。
だけでも、〝チルドレン〟にとっては大きな狙い目であり――エリックにとっては、どうあっても埋めることのできない隙だった。
顔を上げたところで、すでに小鎌が目前にまで迫っている。
斜めから降りかかるような軌道。
そうやって攻撃を読むことはできたが、どう対処するか思考する猶予などない。
反射的に体を逸らし……パ、と胸を引き裂かれる。
革鎧のおかげで思ったほど深くはないが、鋭い痛みに身体が揺らぐ。
その怠慢を、〝チルドレン〟が許すはずもない。
すぐに、目の前にまで迫り来る。
「くそが……ッ!」
振り下ろされる大鎌を、ただ見ることしかできない。
死。
それを、目の当たりにして、心臓が冷えて固まる。
そこへ――。
「――助けに来たぞ!」
炎が、冷え冷えとした恐怖から救ってくれる。
間一髪のところで、スプーナーが〝炎の魔剣術〟で大鎌を焼き切ったのである。
どた、と後ろ向きに倒れて、エリックは呆然とその後ろ姿を見上げる。
全身を使って息をして、汗もダラダラと流れた壮麗の騎士。
その後ろ姿は、生涯忘れられないほどに格好良かった。
「平気か?」
「スプーナーさん……! なんで……っ」
「皮肉にも……。私は〝神力〟を探知するのに優れているらしい。――急いできてよかった」
「そいつ……そいつ! 身体が変形して……ともかく、気をつけて……!」
悠長にアドバイスなどしている暇はなかった。
〝チルドレン〟は、仮にも腕が焼き切られたというのに、他人事のようにその断面をしげしげと観察していた。
まるで痛がっていない。
どころか、その傷口がグチグチと沸騰するかのように泡立ち始め……大鎌が復活する。
「……エリック。マーカス殿が、例の協力者だったのだな?」
「そうっす……。あ……?」
「早く、声をかけてやってくれ。――ここは私が食い止める」
まるで記憶が蘇ったかのように。
今の状況を、ふと思い出す。




