778.動乱
「んー。おしー……。意外と機敏だー」
マント姿の主人の代わりに、インコが甲高い声で喋る。
エマール家が軍の大きな力として招いた〝授かりし者〟。
ほぼ顔を合わすようなことはないが警戒するに越したことはない人物と、マーカスから教えられていたロキがそこにいた。
「くそっ、何でバレた……っ?」
「なーんかコソコソしてるからー。マーカスってのに聞いただけー」
「……! テメェ、マーカスさんに何しやがった!」
「随分信頼してるねー。だいじょーぶ。やったのはベルゼでー、マーカスは何一つ覚えてないからさー」
つまりは〝忌才〟にしてやられたのだ。
マーカスもベルゼに関して相当警戒していたというのに、何かの拍子に上手を取られたらしい。
「で? 見逃すって手はあんのか?」
「ないねー。〝知恵の神力〟……さすがに興味あるでしょー」
全くそう思っていないような間延びした口調にイラッとしつつ、エリックは必死に頭を回した。
ロキを相手に立ち回るのがどれだけマズイことか、旧エマール領のゴタゴタでよく知っている。
マーカスも〝操りの神力〟の全容を把握していないのだ……戦うのだけは絶対に避けなければならない。
かといって、アテナを連れて逃げられるかと言われれば、かなり怪しいところだが――。
「おー……?」
ロキが不自然に意識を逸らした隙に、エリックはアテナを腕の中に引き込んだ。
考えるまでもなく、扉を蹴破ってマーカスの私室を飛び出る。
「ひゃっ」
「なんだあっ?」
マーカスの私室。
すなわち、パサモンテ城の一室。
〝聖母の間〟を追い出された時点で、〝イエロウ派〟の巣窟に放り出されたことになる。
メイドや執事はともかく、騎士に見つかったらまずい。エリックはアテナをことさら強く抱きしめて、焦る気持ちを走る力に変えた。
「エ、エリック、私を置いて……」
「黙ってろ! それよか案内! マーカスさんに城内図教えてもらってたろ! ――今部屋出て右曲がったとこ!」
「あ――え〜っと、えと、この先、階段! 下に!」
すれ違う使用人の視線を感じつつ、廊下を走る。
〝身体強化〟を使えれば良かったが、こうも緊迫した状態でサッと全身に通せるほど熟練度は高くない。
だが幸いなことに、ロキが追ってくる様子はなかった。
「なんだ……? あんだけ派手に部屋壊しといて――」
「エリック、バカ、前前!」
アテナの金切り声に、エリックは瞬時に反応した。
ロキがいつの間にか通路を塞いだわけではない。再びあの謎な破壊を撒き散らしたわけでもない。
ただ、一人の人間が廊下に立ち塞がっているだけ。
だからといって、いきなり声を上げて驚かせたアテナにあたることはない。むしろエリックは感謝したくらいだった。
「〝忌才〟……ベルゼ……!」
目の前に立ちはだかったのは、白衣の学者。
老人か中年か分からないほどに枯れた人物であり、その立ち姿は木の枝が自我を持って動いているかのよう。
それだけに、不気味だった。
こけた頬に落ち窪んだ眼窩は、とても生きている人間とは思えない。白髪混じりのボサボサの黒髪は、みたこともないほど生気がなく、汚げ。
ヒヒヒ、という呼吸音と共に押し出される言葉も、何とも気味が悪かった。
「アぁー……。ロキはよくやってくれたようダネ。本人はナニカに気を取られているようダガ……まァイイ。ようやく会えたネ、〝知恵の神力〟の子ヨ」
「木の枝がアテナに何の用だ」
「お、ット……口に気をつけタマエ。獣じみた戦いは得意分野ではナイが――子ども一人をひねるくらいワケはナイ」
「だったら――」
やってみろ! 威勢よく啖呵を切ろうとしたその直前に、くらりと視界が傾いた。
少ししてから、自分の体が倒れかけているのだと気づく。
アテナを手放してはならない。
エリックはそれだけを脳みそに焼き付け、膝をつくことで無様に転ぶのを防いだ。
「――〝錯覚系統〟だ! エリック、悪い!」
べちん! と。掌底にも似たアテナのビンタが響き渡る。
頬に痛みが走るのと同時に、視界が揺れる。
そこでエリックは、なぜだか自分が頑なに呼吸をしていないことを自覚した。
「――ぷはっ。さ、サンキュー、アテナ」
「ンー……! イイゾ! 実に素晴らしいゾ、〝知恵の神力〟! 記憶の参照と行動がこうも速いトハ……! てっきり辞書を引く程度かと思ったが……これは朗報ダ」
「てめぇ……! アテナをもの扱いしてんじゃねぇよ!」
「コノ素晴らしさがわからないトハ、なんと嘆かわしい……。ゆえニ……キミの手には負えナイ。私が上手く扱う――よこしなさい」
「そう言われて誰が……!」
また。
立ち上がったところで体がふらつき、膝をつく。
今度は転ぶようなことはなかったが――〝忌才〟が同じように仕掛けるはずがなかった。
「なんだ……? 腕が――焼けるみてぇに……!」
アテナを抱きしめる腕が、燃え上がるように熱かった。
じりじりと肌が焦げる音すら聞こえ、思わず少女を落としそうになる。
「堪えるダロウ? 脳ミソというやつは騙されやすくてネ。勘違いでヤケドもしてしまう――実に、面白イ」
エリックは生唾をのみ、奥歯を噛み締めた。
こめかみから嫌な汗が垂れる。
〝忌才〟の術中にハマってはならない。これは魔法による錯覚。単なる嫌がらせに過ぎない。
そうやって〝錯覚系統〟を頭の中から追い出そうと思っても、腕の中のアテナは依然として焼けるように熱い。
ジリジリという幻聴まで聞こえてきた。
アテナも状況を察して、ジタバタともがいていたが……エリックは、むしろ強く掻き抱いた。胸から首、そして頬にまで、幻の炎が這い回る。
「思い通りにゃさせねえぞ……! ヤケドくらい後でどうとでも治せんだよ――舐めんじゃねえよ!」
「そうか……。では、次は毒ダ――どこまで持つカナ?」




