759.アテナ
アベジャネーダに到着して、早二週間。
今振り返ってみても、なぜマーカスが匿ってくれたのかはわからない。
本当は料理好きの好青年だったとしても、エマール家としての立場があり、彼もそれを重視している。
そのしがらみを考えれば考えるほど、誰かにかまっている暇などはなかったはず。
だが、きっと、どんな形であろうと、知り合った以上は助けてくれるのだと確信できる。
敬虔な〝聖母教〟信者である彼は、彼なりに常に正しく在ろうとしている。
エリックとしても、それに縋っていくような生き方はしたくない。
それでいいのだと毎回彼は笑っていうが、最低限恩返しはしたかった。
「何にせよ……。金稼がねえと」
「だから言ってんだろ。私の脳を使え。何でもござれよ」
「したらお前、熱出すだろ。この国じゃあただでさえ〝悪魔〟扱いなんだ……あんま目立つのは得策じゃねえって」
「ム……」
旧エマール領リモン〝貴族街〟からは、多くの〝イエロウ派〟信者たちが避難した。
エリックとアテナも避難民という位置付けにあり、各都市の仮設住宅地区に振り分けられることとなった。
とは言っても、仮設住宅地区に住んでいたのは三日程度。
なにしろ、エリックもアテナも他の避難民とは違う。
〝イエロウ派〟に心酔しているわけではなく、むろん、〝エマール家〟に忠誠を誓うこともない。そして何よりもアテナは〝授かりし者〟……他人との接触は少ない方がいい。
そういうわけで、マーカスの計らいによって〝トラエッタ区〟の住宅区の空き家を借りることになった。〝イエロウ派〟の中でもとりわけ温厚な〝隣人派〟が多く住む地区らしい。
そのおかげもあって、職にあぶれることはなかった。確かに隣人たちは気前がよく、相談すればたちまち近所の酒屋の配達業を紹介してくれたのだ。
他にも人手が足りないところを次々と紹介してもらい、今では店と店とを繋ぐ配達屋として顔を知られるようになった。
だが、いくら気のいいヒトたちとはいえ、アテナを任せるつもりにはなれない。
かと言って目の見えない彼女を一人にしておけるわけもなく……マーカスに頼らざるを得ないのが現状だった。
「ム……。俺の飯を断る……と?」
「うぅ……。い、いや、俺だって食いたいっすよ? けど、毎回毎回俺らの分も持ち込んでちゃあ、どうしたってバレるっしょ」
「ふん。俺がそんなに考えなしと思うか?」
「……。ちょっと。勢い任せなとこはあるかなって」
「……。否定はせんがな。だがわざわざ秘密通路を作るために別棟一階に部屋を構えたんだ……ついでに貯蔵庫を構えるくらいわけない」
「はあ……なるほど。どおりで」
「そういうわけで食っていけ。何を配達するかは知らんが、どのみち体力勝負。空きっ腹でこなせることではない」
「……うっす」
◯ ◯ ◯
〝知恵の神力〟。
それはアテナにとって、〝呪い〟そのものだった。〝イエロウ派〟は〝悪魔〟というが、むしろ〝力〟を押し付けられた被害者である。
まるで乾いた土地のように……。〝情報〟という水分を取り込み、吸収していく。
もはや焼印。アテナ自身も気づかないうちに、脳みそに刻まれていくのだから。
そうして、両目の視力を失った。生後六ヶ月の時である。
アテナの最も古い記憶はそのあたりから。
ひどい頭痛と高熱にうなされ、そんな中でも、両親や医者の会話を逐一脳に叩き込んでいた。
物心がついたのと同時に、大人たちの会話に混ざれるくらいに精神も発達した。
とはいっても、〝知恵の神力〟は発育に作用するわけではない。
当然、舌足らずの赤子では喋ることなどできず、手足もろくに動きはしない。ぐ、ぱ、と開く小さな手のひらを不思議な感覚で見つめる日々……地獄である。
自分がどれほど異質なのかも、物心がついてから数週間で把握した。
赤ん坊は泣くのが仕事と知ってはわざとらしく泣き、お乳をなかなか飲まないという呟きを聞いてそれらしく啜った。
両親が〝知恵の神力〟に気づいたのは……すなわち、娘が〝悪魔〟であると知ったのは、アテナがそう仕向けたからである。
一歳から二歳にかけて、どれだけ異常な知識を持っているかを徐々に知らせていったのだ。
捨てられるかもしれないと思っていた。
それならそれでよかった。
目も見えず、たびたび高熱に苦しめられ、挙句幼い体に似つかわしくない発達した精神……その苦しみが何十年と続くならば、死も救いに思えた。
だが母も父も、親であることを選んだ。
なぜなのかは、怖くて聞いたことがない。もしもそれが〝知恵の神力〟の将来性を期待してのことだったら……その記憶を抱えて一生を過ごす気にはなれなかった。
しかし聞かないなら聞かないで、時折余計な考えがぐるぐると回り……。
全て愛情によるものと真に知ることができたのは、最悪のタイミングだった。
両親共に、声もなく死した時である。盲目による影響で鋭敏になった聴覚でさえも聞き取れないほど、二人とも静かに凶人に倒れた。
この瞬間ほど、自分を呪ったことはない。
自分の存在が、親を殺したのだ。
消えてなくなるべきは――。
『何が救済だよ、嘘つき野郎が!』
そんな時である。
ドンッ、とドアが揺れるのと同時に、その向こう側から少年の声が響いたのは。
『――ンな胸糞悪ぃ話聞いて、誰が感謝なんかするかよ! くそくらえ!』
誰かに怒りをぶつけているようだった。
間違いなく、両親を殺した人物。
アテナは我も忘れて部屋から出ようとした。目が見えないことも忘れて、音のする扉にしがみつき、飛び出て行きたかった。
だが一向に扉は動かない。向かい側にいる少年が、開かないように必死に押さえ込んでいたのだ。
吹っ飛ばしてでも殺人者に一矢報いたかったが……室内育ちの貧弱なアテナには、そんな力は到底ない。幾度か扉を押しただけでヘタり、膝をついて咳き込む他になかった。
気づいた時には……。
『なぁ。俺と一緒に来るか?』
絶望の淵で伸ばされた手を、アテナは無意識に掴んでいた。




