611.3-29「身内」
「キラ殿を貸してくれ、か……」
〝教国〟ベルナンドは、アベジャネーダを国として認めていない。
〝贋の国〟と蔑みを込めた別称をつけ、決して〝アベジャネーダ国〟とは表現しないくらいである。
しかし一方で、アベジャネーダが三百年間〝国〟として生き続けてきたのもまた事実。
民がいて、彼らの生活があって、経済が動くのと同時に、数多の命が息づいている。
そして、〝教国〟ベルナンドの国教たる〝聖母教〟は、世界随一の宗教。
世界各地に信徒を持つ立場にあり、それはすなわち、ベルナンド国としての矜持を貫くことは難しいことを意味する。
元々自分たちの領土だったからと、現在根付いている罪なき国民を焼き払ってしまえば、それこそ〝イエロウ派〟の思う壺……世界最大宗教の名は地の底まで堕ちるだろう。
〝教国〟ベルナンドは、領土を返してほしい一方で、アベジャネーダを国として認める方針も用意せねばならないのである。
いがみ合っていた過去を清算し、共存の道を探るべく手を取り合う――それこそ、王国と帝国のように。
確かに、前例はできた。
だがそれは、全く別の歴史を歩んできた国同士であるがゆえ。帝国が〝食〟の確保に困難しているということも大きかっただろう。
だが、かつては身内だったベルナンドとアベジャネーダでは、またわけが違う。
相続で争う兄弟のようなものである。
かつての仲の良さはない……何せ三百年間、互いを邪魔な存在と思い続けてきたのだから。
「なぜキラ様を……。いえ、そもそもなぜ〝領土奪還作戦〟とやらは〝秘密裏〟なのでしょうか……?」
ローラの疑問にはクロエが答える……と思っていたが、彼女はやはり全く別の何かに気を取られていた。
彼女の様子を気にしながら、ラザラスが応える。
「〝教国〟として正式に奪還することはない、という意思の現れであろうな」
「正式ではない……?」
「〝教国〟として動くのならば、まずは交渉から始めねばならん。もし仮に話し合いで領土を返してもらったとしても、それ相応の見返りを用意する必要がある。例えば、別の土地を与えて、正式に〝アベジャネーダ国〟として認める……などな」
「それは……。難しいのではないでしょうか。旧エマール領での〝武装蜂起〟の内容を聞く限り、犯罪者組織を身内に置くようなもの。仮に私が〝教国〟の立場でしたら——」
そこまでいって、ローラは〝教国〟およびエステル・カスティーリャの意図を感じ取ったらしい。
「なるほど……。確かに〝国〟として正式に認めたくはありませんね。といっても、アベジャネーダには過去のしがらみの知らない方たちも多く暮らしているでしょうし……。となると、確かに〝秘密裏〟というのは合理的です」
「〝教国〟としては、アベジャネーダが勝手に崩れてくれれば最善……しかし現実問題、そんな偶然を待っていては何も変わらん。そうして三百年が経ったのだからなあ。とくれば――おそらく、アベジャネーダ内での内紛を狙って活動を始めるだろう。あれだけ歪な成り立ちの国家……国民レベルとなれば、どんな不満が募っているかもわからん」
「そのためにも、キラ様を……?」
するとその瞬間に、クロエがぴくりと動いた。今までどの話にも反応しなかったというのに、〝キラ〟の〝キ〟の字が出た瞬間にローラを見やる。
そこでようやくその内心がわかり、ラザラスはそれを口に出してみた。
「考えてみれば、キラ殿は誰にとっても都合の良い存在。竜ノ騎士団でもなく、ましてや王国騎士軍でもない。帝国で〝天神教〟とやらを設立したとは聞いたが、あの欲の浅いキラ殿が主導なはずもなかろう。大いなる力を手にしながらも、誰よりも自由であり……ゆえに、縛られることはない。――クロエよ、それが心配なのであろう?」
「……はい。実を言えば、先ほどからずっとそのことばかり考えていました。私の知る限り、キラ様はトラブルに巻き込まれてばかりです」
「ふっふ。キラ殿もそればっかりは言い返せんだろうな」
「思い立ったように帝都へ向かったことといい、彼には〝居場所〟という概念が薄いように感じてしまいます……。また、どこかへ旅立って……今度は、戻ってこないかもしれません」
「ふむ……? しかし、それこそ彼の自由であろう?」
「それはそうですが……。嫌な感じがするのです。自分でも良くわかりませんが——とても嫌な予感が。王都を……願わくば……彼の〝居場所〟としてほしいのです」
「おう……? ふむぅ……。恋……か」
ぽそりとつぶやくと、クロエは遅れて反応した。
その言葉を初めて聞いたかのようにぽかんとし、次の瞬間に顔を真っ赤にする。そうして、俯いてしまい……。
ローラは、同じ女として何か感じるものがあったらしい。きらりと目を光らせる。
「結婚……ですか?」
「――! ローラ様! それはいささか気が早いのですがっ?」
「早い……? 遅かれ……早かれ……的な?」
「う……!」
何にしろ、クロエの気持ちは明らかだった。
が、今までそういったことに無頓着だった彼女は、漂う空気に耐えきれなくなった。ばちんっ、と自分で自分の両頬を叩き、白い肌を赤くしながら話を戻す。
「ともかく。キラ殿の自由奔放さには対策を打たねば。彼がもしも国外に移住するとなれば、王国にとっても大きな損失です。〝黄昏現象〟の際に見せた何者にも屈しないその強さといい、帝都で宗教を作ってしまうほどのカリスマ性といい――もはや、唯一無二の存在なのですから」
「確かに、わしも彼には竜ノ騎士団か王国騎士団に籍を置いてほしくはあるが……。無理強いするわけにもいかん。法や命令で縛れば、こちらが痛い目を見る。そうそういい手立てがあるものか?」
「そ、それこそ……。私が……かれと……け、っこん、を……すれば」
顔を真っ赤にして、最後にはごにょごにょと口篭ってしまうクロエに、ラザラスは笑ってはいられなかった。
ちらとローラを見やると目が合い、娘もたいそう驚いているのがわかる。
「それほどまでに入れ込んでおるとは……。正直、意外じゃった。いや、何においても悪いというわけではない。だが――なぜ?」
「思い当たる節はいくつかあるのですが……。おそらく、それはきっかけに過ぎないでしょう。何がなくとも、私はきっと……」
「お、おお……。そうか、そうか。――考えてみれば、悪いことでもない。むしろ、クロエ、お主にとっては善きことばかり。その意固地な性格も治してもらえ――騎士で在るばかりが人生ではなかろう」




