594.3-12「近い」
ニコラが案内してくれた先には、ある意味幻想的な光景があった。
二列に並ぶ街路樹の先に佇む教会。そこへ朝日がさしかかり、光の筋がその古めかしさを美しく照らし出している。
リーウも一歩止まって感嘆の息をつくほどで……しかし、徐々に現実の過酷さが浮き彫りになる。近づくほどに、敷地内の荒れた様子や、建物自体のひどい老朽化が目につく。
そんな教会の惨状を前に、跪くようにして作業をする人物がいた。
その人物こそがマルティン・イグレシアス卿なのだろうが……黙々と雑草をむしり、近くにこんもりとした山を築く姿に、〝枢機卿〟の〝す〟の字もなかった。
キラはリーウと顔を見合わせ、次にニコラの方を見た。しかし彼はイグレシアス卿がどういう人物なのかを把握しているらしく、特に驚きで足を止めることなく教会に近づいた。
「イグレシアス卿。お忙しいところ、よろしいでしょうか」
「ん……? おお、ニコラくん。どうかされたかな? 困り事かな? 懺悔かな? どちらでもよい。力になりましょう」
嬉しそうに振り返りながらも、足腰を労わりながらゆっくりと立ち上がる老人。
その様子は、まさに農夫。白くて薄い頭部をタオルで拭い、後ろに下げていた麦わら帽子をポンと乗せる。手に持つのは聖典ではなく片手用の鍬であり、身に纏うのは司教平服ではなくオーバーオール。
手や膝などは土で汚れ、しかしながらどこか満足そうにため息をつく様は、高位の聖職者には見えなかった。
「相談事といえばそうなのですが、困り事とかそういうことではなく……。〝聖母教〟の現状をなんとかできないものかと、彼らと話し合っていまして……」
「ほう! ほう、ほう! それはありがたいこと! ああ、こうして若き信仰者に支えられるとは……!」
イグレシアス卿は至極真っ当な勘違いをしていたが、キラは指摘したいのをグッと我慢した。その喜び方を見れば、どれだけこの街の教会の惨状に嘆いていたのか、いやでもわかる。
だが、リーウはそれを分かった上でどうしても訂正したかったようで……。
「いえ。私は〝天神教〟の信仰者です。もともと〝聖母教〟信者ではありましたが、改宗いたしましたので」
「り、リーウ……?」
他宗教とはいえ枢機卿を相手にした見事な物言いに、キラは肝を冷やした。
さすがにエルトも何もいえずに、この先に待つ結果を知りたくないのか、さっと引っ込んでしまう。
イグレシアス卿はポカンとしていたが、状況を理解するや否や、どっと笑い始めた。
「はっはっは! なるほど、なるほど。これは失敬した! 噂の〝天神教〟……話には聞いてはいたが、まさかこれほど早くあい見えることができるとは! なんたる幸運! 君は、帝国人だね? 羨ましいほどに背が高い!」
「はい。マルティン・イグレシアス卿……つい先ほど思い出しましたが、私もお話は聞いたことがあります。長く枢機卿を務め、〝聖母教〟教皇カスティーリャ様の右腕ともされているお方と。お心が広いお方と伺っております」
「ふっふ! 正直は善きこと。隠し事は話が拗れる元となる」
どうやらリーウは、事前にイグレシアス卿のことを把握できていたらしい。その上での物言いとわかってキラもホッとし、こそっと表面化してきたエルトも納得したようだった。
〈し、心臓壊れる……〉
〈キラくんがいうと洒落になんないよ〉
イグレシアス卿は腕を組んで満足そうに笑い納め、ほっと息をついたのちに聞いてきた。
「しかし……。であるならば、尚更なぜ?」
これにもリーウが答えるかと思いきや、彼女はにこりと微笑んで言葉を譲ってきた。
キラはドギマギとしつつ、イグレシアス卿に答える。
「あー……。あんまり良くない状況だっていうのを、ニコラさんから聞いて。僕ら、ちょっと前まで帝都にいて……で、そこもおんなじだったんです」
ニコラも初耳だというふうにまじまじと見つめてきたのを感じつつ、キラは話を続けた。
「帝国も〝聖母教〟が国教だったんですけど、戦争とか色々あって神を嫌う風潮が流れて……。で、悪意につけいられて……みたいな。話せば長くなるんで省くんですけど、とにかく国がひっくり返るような大ごとになったんです」
「ちなみに〝天神教〟が生まれたのは、その際のキラ様のご活躍のためです。私も、帝都の人々も、帝国も、キラ様に救われました」
リーウがそう付け加えると、ニコラもイグレシアス卿も納得したようにうなづいた。
特に、〝聖母教〟の枢機卿には深く話が刺さったらしい。かぶっていた麦わら帽子をとって胸に当て、深々と頭を下げた。
農夫のような姿をしていても、その立ち居振る舞いは枢機卿のものに間違いなかった。
「いやはや……。これはまた、私はとんでもないご無礼を。この街の若者とばかり思っていましたが、あなたがキラ様だったとは。お噂はかねがね……」
「う……。そ、そういう態度は、あんまり……。別に誰かに讃えられたいとかじゃないんで。〝天神教〟だって、なんというか……周りの好意というか……」
「む……? そうですか……。では、致し方ありませんな」
イグレシアス卿は不思議そうに首を傾げつつも、ようやく頭を上げた。
しかしその態度は戻ったとはいえず、どちらかといえば、その姿こそが高位神官たる〝枢機卿〟としてのイグレシアス卿らしかった。
「しかし……。そういった事例を聞きますと、うかうかとはしていられませんな。まずは信仰者が戻ってきやすい場所にと、教会の手入れから始めていたのですが……」
「まあ、見た目は大事だとは思いますけど……」
「ニコラ殿はどうお思いかな?」
イグレシアス卿は、ニコラに何か思惑があるのだと既に見抜いていた。枢機卿として現状の危機感を直に感じ取っているのか、随分と鋭い視線を差し向ける。
普通ならば……例えばセドリックならば腰を抜かしていただろうが、ニコラは違った。エマール領の兵士に扮しながらも、その裏で着々と〝武装蜂起〟の下準備を整えてきた胆力があるのだ。
ふむ、と動じることなく考えに耽り、自分の言葉をきちんと声にして出した。
「私としては、皆に〝神〟を身近に感じ取ってほしいのです。〝聖母マリア〟様に神の姿を見出した大昔の人々のように……」
「確かに、それが一番。ではあるものの……問題は、この街において、それほどのカリスマ性が〝聖母教〟にはないということ。キラ様のご威光をお借りすることも考えはできるが、流石に他宗教の〝主〟を称えるようなことは……」
「なかなか厳しいところがあります。私たちのような村出身の田舎者はともかく、この町で生まれ育ったヒトたちは、正直なところ〝聖母教〟に失望しているような節すらあります。〝イエロウ派〟がもともと〝聖母教〟の分派だったことも影響しているのでしょう」
「由々しきこと……。三百年にわたる因果に決着をつけられなかったその甘さが、全くの無関係の人々に害として降り掛かろうとは。――ちなみに、キラ様、帝国での〝悪意〟とやらを具体的に伺ってもよろしいでしょうか」




