190.4-9「変化」
セレナが立ち止まった目の前には、『リリィ・エルトリア』と刻まれた真鍮のプレートが打たれた扉があった。
扉の中央にはドラゴンをモチーフとしたノッカーがあり、セレナはこれで扉を叩いてノックした。ゴンゴンっ、と力強く。
「かなりいくね……」
「元帥の書斎には寝室もございますから。これぐらいしなければ聞こえないのです」
「ドアベルつければいいのに」
「元帥の部屋をこうしてノックするのは、基本的に身内だけですので」
扉の奥の方では、何やらドタバタと音が聞こえていた。
小さな悲鳴の後に苛立ちの声も聞こえ……静かになったと思ったら、急にドアが開いてリリィが姿を表した。
「早い!」
開口直後の文句は、セレナに向かっていた。
どうやら相当に慌てていたらしく、麦わら帽子が似合いそうな白いワンピースを少しばかり着崩していた。
チラリと白い肩が露わになり、どことなく石鹸の良い匂いも漂っている。
キラは思わず顔ごと視線を外して、凝視しないように努めた。だがそれでも自然とチラリと目線が戻ってしまい……その瞬間に限って、リリィと目があってしまう。
彼女は恥ずかしそうにはにかみ――次には、ギラっと目つきを尖らせてセレナを睨んでいた。
「十二時って言ってたじゃない!」
「サプライズです」
赤毛のメイドは主人の怒りをさらりとかわし、さらにその上でトンと押して部屋の中へ追いやる。
「さあ、さあ。立ち話もなんですから」
「それはこっちのセリフ!」
竜ノ騎士団本部にてリリィにあてがわれた書斎は、どこを切り取ってみても品があった。
ベージュの壁紙とこげ茶の腰壁の色合いや、渋みのある赤い絨毯……アロマ特有のふんわりとした良い香りが鼻をくすぐることも相まって、落ち着いた雰囲気が目に見える形で漂っているように思えた。
「それで? どういう風の吹き回しか、教えてくれるのかしら?」
リリィは、入り口正面にどんと鎮座する書斎机には向かわなかった。左手の壁に埋め込まれた暖炉のほうへ素早く移動する。
暖炉の前には、三人がけのソファと丸いローテーブルとがセットで配置されていたのだが……随分と荒れていた。もこもこのブラウンのクッションやら、真っ白な枕やら、寝室から持ち出したであろう毛布がソファを陣取っている。
それだけでなく、何着ものドレスやワンピースがソファの背に無造作にかけられ……そのことを今思い出したのか、リリィがもの凄まじい速さで回収して行った。
ばっと一さらいで着替えを抱え込み、暖炉横に据えられた扉を開けるや、思い切りよく投げ込む。
「……見ましたか?」
パタリと扉を閉めた錆びついたブリキ人形のように振り向いてきた。
「あー……部屋の中なら見えてないけど……」
「……その様子なら気付いていませんわね」
とりあえず安心したらしいリリィに、キラは終始首を傾げるしかなかったが……。
「いつまでたっても片付けを覚えられないからそうなるのです。大方、下着やネグリジェが紛れていたというところでしょう」
「ちょっと、セレナ!」
セレナは顔を真っ赤に染める主人を一切気にかけることなく、ソファを整えていった。
「ああ、そういうこと……。っていうか、下着見られるのってそんなに? 一緒のベッドで寝るよりも恥ずかしいことかな」
「だって! 普通は見せないんですもの!」
「血の繋がらない男女が一緒のベッドで寝ることもありえないと思うけど」
「……妙なところで常識的ですわねっ」
ぷんぷんになったリリィはポニーテールを揺らして、赤毛のメイドが整えたソファに座った。
キラが戸惑って立ちすくんでいると、
「何してますのよ。早く座ってくださいな」
ばんばんばんっ、と苛立ちのままに座面を叩いていた。
「たまにわけわかんなくなるよ……」
キラはリリィには聞こえないように一人ごちて、言う通りにソファに座った。
すると、ポニーテールな彼女は、最初こそそっぽを向いた態度だったが……甘えん坊な子供の如く、徐々に距離を詰めてきて、ビダッとひっついてきた。
「で……。なにかわたくしに用事があるのでは?」
丸テーブルに三人分の紅茶を用意したセレナが座ったところで、リリィが鋭く切り出した。
「ああ、まあ、確かにそうなんだけど……」
キラは、思わずリリィとは反対側に座ったセレナの様子を、ちらりと確認した。
彼女は、あいも変わらず無表情に佇んでいるだけだったが……内心気持ちがざわついているのか、紅茶を取ろうとする手が少しばかり震えていた。
そんな様子を見て、キラはもう一度リリィの方へ向き直った。
「その、今朝色々と話しててさ。まあ、なんていうか……帝国との和解のこととか」
「なるほど。そういうわけでしたのね」
リリィの瞳は、紅茶を引き寄せるセレナの手を写しているようだった。その瞬間に、目つきが柔らかくなり、頬にも緩みが出る。
「その言い方……もしかして、気付いてた?」
セレナがピクリと体を震わすのを、隣にいるキラは強く感じ取った。
「もちろん。一番の親友ですもの。想像すらしていましたわよ」
リリィが胸を張って言うのを聞いてか、セレナがそこで初めて口を開いた。
「私は……どうすれば良いのでしょうか」
「そんなの決まってるじゃない。あなたの一存じゃ国は動かないんだから、別に変わらなくても良いわよ」
「変わらなくても……」
「というより、わたしだって前とあんまり変わってないわよ? その証拠に、王国議会への招集も断ったんだもの」
「しかし、議会の欠席自体はシリウス様の提案で……」
「あら。お父様がそんな突拍子もないことを自ら進言すると思ったの?」
「まあ、少しばかり不思議に感じていましたが……。では、本当にリリィ様が?」
「ええ」
リリィはこともなげに答え、丸テーブルへ手を伸ばした。セレナの淹れてくれた紅茶を香りから楽しみ、そして一口つけてホッと息をつく。
キラも、彼女が促してくれたこともあって、同じように紅茶を味わう。一段と深いコクに胸が満たされる。
「ビスケット欲しい……」
その一瞬だけ、空気が止まったような気がした。
不思議に思っていると、両隣の淑女たちがふっと吹き出す。手にしていたカップから茶プリと紅色の水玉が跳ねて、危うく膝下に溢れそうになる。
そんな二人の様子に、キラはようやく考えていたことを口に出してしまったと気付いた。
「そ、そんなに笑うことないじゃん……!」
「ふふ……。だって。今の話の流れを思い返してみてくださいな」
くつくつと喉を鳴らして言葉を出せなくなるリリィの代わりに、セレナがなんとか冷静さを装ってつなげる。
「私たちが真面目に話し合っているときに……。そのように可愛らしい呟きを聞くと、どうしたって気が抜けてしまいます」
「じゃあ、頑張って黙ってるよ」
鼻を鳴らしてティーカップをテーブルに戻すと、他の二つも両隣に並んだ。
そうして、キラがソファの背もたれに体重を預けると同時に、リリィもセレナも詰めより腕に絡みついてきた。
随分と雰囲気の変わった二人にため息をつき、キラは思わず問いかけていた。
「なに。話はもう終わったの?」
「ええ。おかげさまで」
リリィのニコニコとした笑顔に癒されていると、どんっ、と心臓に潜むエルトが主張する。おそらくは「私の娘可愛い!」と。
負担のかかる主張にキラは少しばかりイラッとしながらも、セレナの方へ質問を投げかけた。
「何もした覚えはないんだけど……。セレナも、納得できたの?」
赤毛のメイドは、少しだけ間を置いてから答えた。
「帝国を受け入られるかと聞かれれば、やはり否です。しかしリリィ様のお考えを聞いて、気が楽になりました」
「楽?」
「拒否対象だったのが監視対象となった……とでも言えば良いでしょうか。嫌いも嫌いですし、積極的に関わる気もありませんが、拒絶はしないでおこう――そういうふうに思えば、楽になりました」
そのとき、キラはもちろん、リリィですらぽかんと口を開けて呆けた。
いつも真横だった眉が下がり気味になり、真っ白な頬は紅潮してぷくりと丸みを帯び、そして口元は弓形を描いていた。
今までも、頬を緩めたり目つきが柔らかくなったりしたことはあったが……今回ばかりは、正真正銘の笑顔と言えた。
「だめ!」
〈見ちゃ、め!〉
思わずセレナに見惚れていると、リリィが勢いよく目を覆い隠してきた。それだけでなく、エルトの声がガンガンと頭の中で響く。
「ちょ、なにを……!」
「キラはわたくしの婚約者で、セレナは親友! だから、だめです!」
「い、いや、何が……!」
「二人ともわたくしのなんですから!」
「何そのガキ大将感……!」
意外と力強いリリィの拘束から抜け出せないでいると、続け様にエルトが体の内側で叫びだす。
〈私の可愛い娘二人よ! まだ手出しは許しません!〉
リリィの声とエルトの声。親子なだけにさすがに似通っていて、キラは迂闊に抗議もできなかった。
そうして、これも初めてな屈託のないセレナの笑い声も聞こえてきて……やがて何故かくすぐり合いへと発展し、三人とも綺麗にぐうと腹の音を響かせるまで続いた。




