ぬるま湯
お寿司屋さんは回転寿司が落ち着く。無理に卑下しているのではない。そりゃ、味はカウンターの寿司屋さんの方が良いに決まっている。でも、人が店を選ぶ理由は味だけではない。富倉麻衣は人と付き合うのが苦手である。カウンターの寿司屋さんは、自分の口でネタを注文しなければならない。それだけでもあまり心地よいことではないのに、寿司屋さんは得てして職人気質というか、頑固で気難しそうな人が多いような気がする。麻衣はそれが怖くてなかなか次の注文が言えない。後は、何というか、こちらを見透かしているのではないか、例えば、このネタの次にこのネタを頼むのは、彼らから見て素人ぽいとか、邪道な頼み方で、通じゃないのがばれるのではないだろうか、そんなことが気になってしまう。余計な気を遣い過ぎるのだ。回転寿司なら、好きなものが回ってきたら、すかさずそれを取ればいい。順番など気に掛けなくても誰にも咎められない。回って来なければ、テーブルに備え付けてある画面から、タッチすればいい。一言もいらない。何の気兼ねもない。だから麻衣は回転寿司が良い。ということで、順調に食べていたが、少し飽いてスマホを取り出す。いつも観ているサイトを出す。川出泰裕という俳優のファンが集まっているサイトである。現在テレビの連続ドラマに出演しているので、もっぱらその話題で持ちきりである。
「昨日の泰くんも良かった。相手の嘘に気付いて、切りっと睨み返す視線とか迫力あったよね」
「萌えー」
「それでも最終的には、それを許して腕を組み合う所とか、清々しかったな」
そこまで読んで、麻衣はチャットに参加する。
「川出さんの演技も素晴らしいけど、脚本も良いよね。聞いたことのない脚本家だけど、これから上がって来るかも」
そのコメントに続いて、何人かのコメントが出る。麻衣はしばらくチャットを続けて、それからもう少し寿司を食べて終わることにする。会計も備え付けの画面から選択すればいい。店の人が来て皿を数え、幾らですと言って、紙を渡される。こちらが喋る必要はない。その手軽さに慣れた感じで麻衣は店を出る。一人でそのまま家に帰る。
がらんとした部屋。富倉麻衣はネットを開く。そこで世界に繋がる。部屋の中には一人しかいないけれど、向こうには何人もの人がいる。現代社会は人間関係が希薄だと言う。そうなのだろうか。ネットの繋がりは無限ではないか。それは生身の関係よりもっと広い。そうは言っても、反論する人もいるだろう。それは顔の見えないやり取り。簡単に繋がるが、簡単に裏切ったり、批判に変わる危うい関係ではないかと。だけど麻衣は思う。生身の関係が必ずしも濃密だとは一概には言えないのではないか。どちらにも、妬みや憎悪などの負の連鎖はある。暗い闇が蠢いているのは、ネットでも生身でも同じことだ。高校時代、クラスでリーダーシップを取っている生徒がいた。ある日彼女が、前髪を伸ばして、眉毛ぎりぎりまでにして真っ直ぐに切った、ちょっと変わった髪形をしてきた。すると、彼女が何か言った訳ではないけれど、他の生徒もこぞって真似をした。でも、麻衣の小さな顔では、その髪型はボリュームがあり過ぎて、妙に艶めかしくて変であった。だから麻衣は前髪をアップにしてオデコを出した短い髪形をそのまま続けた。そしたら、何となくクラスメイトの自分に対する扱いがよそよそしくなった。麻衣自身、もともと話し掛けるタイプの人間ではなかったけれど、これをきっかけに、ますますクラスで孤立するようになった。まるで幽霊のような、いるのにいない感じの存在。そんな関係が、リアルだと言えるのだろうか。ネットの関係より濃密な関係だと言えるのだろうか。いや。麻衣は絶対にそうだと言いたくない。認めない。この学校での孤独な生活が、麻衣をネットの世界にもっとのめりこませた。時には中傷や悪口もあるけれど、中には本音を言える時もある。優しさやいたわりの言葉が交わせる時もある。その関係が仮想のものだとは思えない。麻衣にとっては大切な関係である。それのどこが悪いのか。生身よりも悪いのか。顔の見える生身のやり取りが大切なものだということは麻衣も承知している。でも、ネットの繋がりだって、現代社会に生きる我々にとっては大切なものではないか。一概に否定はできない。今、目の前に広がる画面の中で、気に入った言葉に自分のコメントを挙げる。しばらくして、その答えが返ってくる。普通にお喋りしているのと変わりはない。この世界で、麻衣は繋がっている。それを実感しながら、しばらくチャットを楽しんだ。
チャットをひと仕切り終えると、違うサイトにアクセスした。しばらくすると、メールの到着を知らせる音がした。今まで来たことがないメールである。一応開いてみた。
「わたしは私立捜査官のものである。あなたの秘密を知っている。これは警察沙汰になるようなことである。言い逃れはできない。警察に知らされたくなかったら、下記の口座に振り込め」
煽情的な文句だったが、麻衣はこのメールを読んで驚愕した。脳裏に甦ってくることがあった。それは一人暮らしを始めた時のことである。コンビニに立ち寄った。そこでお目当ての手帳を手に取った。ちらっとレジを見ると、男の人が立っていた。その店員さんは真っ直ぐ前を見ていた。その形相が店員らしからず取っ付きにくくて、かなり怖かった。この人の所に行くのは嫌だなと思った。でも、その手帳は欲しかった。インターネットで調べて、このコンビニしか売っていない限定品である。麻衣はその手帳を見て、それからまたレジを見た。そのレジから、麻衣のいる棚はちょうど死角になっていた。男の視線も麻衣のいる方角からそれていた。そんなことが一瞬頭の中に渦巻いた。どうしてそんなことができたのだろう。思わず麻衣は、持っていた自分のハンドバッグに手帳を入れた。そしてそのまま何食わぬ顔をして歩き始めた。胸が高鳴った。一世一代の勇気だった。レジの横を通った。自動ドアを通過した。外に出ても、咎められなかった。それでも何かが追いかけているかのようなプレッシャーを感じながら、麻衣はアパートに戻った。家に入った途端、ほっと一息ついた。その後で、激しい気持ちが胸を襲った。自分に、こんな大胆なことが出来る邪まな気持ちがあったなんて信じられなかった。これは万引きというものである。ハンドバッグに入れた手帳を見ていると、その事実に打ちのめされた。後悔した。でも、そのコンビニに戻って謝ることも出来なかった。やっぱり、あの店員さんと話をしなければならないのは怖かった。それでそのまま、その手帳を引き出しの奥に突っ込んだ。それからは、さすがにそのコンビニには行っていない。これを反省として、麻衣は見知らぬ人ともちゃんと応対できるように努力した。店の人とくらいはやり過ごすことが出来るようになった。あれから大分経って、後悔の念も薄らいでいた頃、突如来たメールである。麻衣は真っ先にこのことを思い出した。薄らいでいたと言っても、やはり心の奥では忘れていないのであろう。罪の意識が押し寄せてきた。押し寄せてきた次には、麻衣はどう対処すればいいのだろう。この秘密をばらされたくないという気持ちが浮かんできた。引き出しから通帳を出し、口座番号を入力しようとした矢先、麻衣の賢明な部分が待ったをかけた。一度お金を振り込むときりが無くなる。それも嫌である。そう思ったら、何だか心が落ち着いてきた。疑問が浮かんだ。何でこのことを知っているのであろう。十年も前のことである。どうして今更なのか。おかしいと思ってメールを読み直した。すると、これはどうにでも取れる文脈である。具体的なことは何一つ書かれていない。これは悪質メールというやつではないか。適当なことを書いて送りつけているだけではないか。そう言えば、そんな詐欺が流行っているとテレビで観た記憶がある。麻衣は冷静さを取り戻した。万引きをしたあの当初なら騙されたかもしれないが、あれから十年以上経って麻衣も大人になった。強くなった。これは詐欺だと思ったら、拍子抜けした。なんだかおかしくなった。何もせず、麻衣はそのメールを削除した。でも気持ちが萎えたので、ネットを見るのはやめにした。
その一週間後。富永麻衣は小笠原涼子と会った。人付き合いが苦手な麻衣でも、友人と呼べる人は少なからずいる。小笠原は高校時代、多くのクラスメートが麻衣を敬遠した中で、唯一態度を変えず接してくれた人だ。いつも一緒というようなべたべたした関係ではなく、普通に挨拶をして、さり気なく声を掛けたりしてくれる人。変に仲良しだよねとか言って近づくのではない、その距離感が、孤独だった麻衣にはかえって信頼できた。この人となら普通に話が出来た。そんな人が一人でもいてくれたから、麻衣は高校時代を不登校にもならず、無事に過ごせたのだと思う。卒業した後も、この関係は続いていて、今でも時々だけど会うのだ。麻衣はこの間の変なメールについて小笠原に話した。秘密があると言われて心当たりがあったことは伏せて、こんなやり口もあるんだというような感じで話した。小笠原は、
「そんな秘密があるとか知らない人に言われて、お金を振り込む人がいるのかねえ」
と呆れたように話す。その言葉を聞いて麻衣は、誰にでも探られたくない秘密はあると思う。そういう小笠原にだってあるのではないか。麻衣は知っている。それは小笠原が現在付き合っている男性についてである。町で小笠原が少し年配の男性と連れ立って歩いているのを見かけた。パッと見ただけで、同僚とか元クラスメイトとか、そんな関係ではないと分かった。それを見て、麻衣は合点した。確かにこの頃小笠原は綺麗になったもの。でも彼女から何も聞かされていないし、すごく楽しそうにしているので、麻衣は声を掛けずにおいた。その一月後である。麻衣は偶然、その男を再び見かけた。見間違いではない。確かにその男性である。ドキリとしたのは、その男性が違う女性と一緒に歩いていたことである。麻衣は何だか心に胸騒ぎがして、二人の後を秘かに付けた。会話がわずかに聞き取れた。男性は相手の女性をお前と呼び、女性は男性をあなたと呼んでいた。そのことで麻衣はあることが分かった。男は既婚者なのである。その事実に麻衣は動揺した。曲がり角で二人から離れた。その日、家に帰ってからもしばらくドキドキが止まらなかった。恐らく小笠原もこのことを承知しているだろう。だから付き合っていても彼のことを麻衣には告げないのだ。人間関係のごたごたが苦手な麻衣は、小笠原にこのことを直接尋ねることは出来なかった。ただこのことを知っていることで、小笠原と話をしていても、少し優位に立っているような気分を感じることがあった。勿論、このことで小笠原をさげずむ訳ではないし、今でも変わらず友人として慕っている。でも、人の関係はそんな一枚岩ではない。色々な思いが去来するものだ。そんなことを思いながら、麻衣は小笠原と何の変哲もない会話を続けた。それは少なからず楽しいと感じるものであった。
スマホをいじっていた。一人で部屋にいる時である。臨時ニュースが入った。俳優の川出泰裕が女性に対する猥褻容疑で訴えられたという記事である。富倉麻衣は仰天した。何が起こったのか、俄かには理解できなかった。しばらく茫然として、その場で佇んでいたが、ファンサイトにアクセスした。色々な書き込みが躍っていた。
「これ本当なの?ショックだわ」
「信じられない。信じたくない」
「何かの間違いじゃないの」
どの人もまだ、麻衣と同じで状況を呑み込めていない感じだった。それから何日か、麻衣はニュースに注意した。それによると、訴えたのは三〇代前半の飲食店に勤める女性で、川出にホテルに誘われたと主張していた。だが、川出は否認している。そこが争点となっているようだ。しかし、あるニュース番組で、訴えた女性の独占インタビューが流れた。素人だし、事が事なので顔は隠してあった。川出が嫌がる自分に、力づくで押し倒してきたと涙ながらに訴えるその様子が、ある種の方向性を導いた。このインタビューが放送されてから、女性に対する同情票が多くなり、マスコミの川出批判が色濃くなっていった。それにつれて、ファンサイトでも、川出に対する幻滅のコメントが増えていった。
「あんなことをするなんて、川出もいい加減だね」
「すごい良い人そうだったのに、がっかりだ」
「女の敵だ!」
麻衣は、気持ちが動転したし、はっきりするまでは待っていたいという考えから、あれからコメントを控えていたが、あまりにも辛辣になってきているので、
「でも、本人は否認しているんだよ。本当のことはまだ分かっていないんだし。非難は一方的すぎるのではないかな」
麻衣は報道に心を痛めていたが、それを鵜呑みにしてはいけないと思った。川出を信じたいという気持ちが奥底にはまだあった。憶測だけで安易に批判してはいけない。本当のことを知りたいと強く感じた。でも、それに続くコメントは、麻衣の意見を無視したものだった。それから、少し自分の意見に対するコメントらしきものがあった。
「やったことを認めないのは、悪いことをしたという自覚が無いんだよ。そんな横暴な人だとは思わなかった。せめて反省してほしい」
そのコメントを読んで麻衣は、なぜ一方的に決めつけるのだろう。真実を見極めようとしないのか。それが悲しかった。それから川出批判がより加速していった。しかし、そういう風潮の中で、
「ちょっと前に、まだはっきりとしたことは分からないという意見があった。私もそう思う。今冷静さを失っていると思う。この中で、こういうコメントをした人は勇気があると思う。私はその人を評価したい」
YAIKOという名前で投稿されたこのコメントを読んで、麻衣は何だかほっとした。今まであれだけ川出を褒めて、好きだったのに、ちょっとしたことでこんなにも非難ごうごうに変貌してしまう。人間のもろさを垣間見た。麻衣はこのサイトで、同じものを共有しているものとして繋がっていると感じていたが、それが裏切られた気分に陥っていた。麻衣が築いてきたと思っていた絆はこんなにも危ういものだったのか。そんな中でこのコメントは、世の中にはちゃんと見てくれている人が必ずいると思うことが出来る救いの意見だった。しばらくしてYAIKOから、
「今あのサイトは炎上状態である。だから川出を応援する新しいサイトを立ち上げた。良かったらアクセスして」
川出の事件にしても、ファンサイトのこの頃の風潮にしても、麻衣はげんなりすることが多かった中で、やっとほんの一息つけるものだったために、YAIKOのサイトにアクセスした。それからこの人と交流を始めた。
それでも、麻衣はこの頃鬱屈としていた。確かに、味方になってくれる人は出来た。だが、メディアが伝えることは、川出に不利な証言ばかりが目立った。ファンサイトも日を増してパッシングに転じた。連続ドラマも放送中止になったし、たくさんあったCMも降ろされた。川出を信じたい麻衣も、連日の報道に接していると、本当のことなのかと疑いを増した。たとえ事実だとしても、こういう時こそ支えたい、支えるのが本当のファンだと思った。そのことをYAIKOのサイトに書いたら、YAIKOから、
「そうだよね。何があっても私も川出さんのことを見守っていたい」
という返信があった。事件そのものも悲しいけれど、麻衣を落ち込ませているのはそれだけではない。そのことであぶり出された人間のどろどろとした感情である。人の汚らしさや醜さを目の当たりにすることが怖かった。今までの絆だと思えたことが幻想だったのだろうか。それが麻衣を暗くさせた。
そんな中、ある日仕事を終えると、先輩の花畠あざみがやって来て、
「今から何人かで食事に行くけれど、富倉さんもどう?」
大人になって麻衣も、少しは度胸がついて、他人に挨拶したり、近場の人間と当たり障りのない会話を交わしたりするくらいはできるようになっていた。でも正直な気持ちを言うと、出来るなら人と接することは避けていたい。会社の人間ともつかず離れずの関係でいたい。外食も、店員にメニューを注文するくらいの会話は何とかできるが、食事の席でのどうでもいい会話にそれなりの相槌を打つのは、麻衣にとって面倒で、苦痛なことでもある。特に今はそんな気分じゃない。花畠は時々こうして食事に誘ってくる。そんなに行きたくはないのだけれど、要領が悪く人付き合いが下手な麻衣は、断る口実をすぐには思い浮かばない。花畠は会社の先輩だし、無下にはできない。なので誘いに乗ってついていく。彼女が連れて行くのはいつも決まって、会社から数百メートルの所にある食事処である。ネットの食べログでは星二つの評価があるそこそこ有名な店だ。だが、味付けが塩ベースなものが多く、どちらかと言うと醤油ベースが好みの麻衣にはあまりなじめない味だ。そんな不満を隠して、麻衣が食事を続けていると、後輩の女性が花畠に愚痴を言っている。
「何だか最近だれてきて。疲れているのかな。仕事はきちんとしてるつもりですけど、ちょっとありきたりになって、映えない感じがして」
それに対して花畠は、
「仕事はそんなものだからね。刺激はうちに帰ってからじゃないと」
「家に帰ってもそんなにすることはないし」
「だったら外出したら。気持ちを温めるのだったら温泉にでも行ってくればいいよ。随分気持ちがリフレッシュするよ」
それを言いながら花畠は、その後輩に向いていた顔を少しだけ、端に座っている麻衣に向けて目配せらしきことをした。そこで麻衣ははっとなった。職場では平常通りにしているつもりだったが、やっぱりどこか鬱屈とした気持ちが出ていたのか。そこを見抜かれていたのかと思った。花畠はそんな気配りができる人間である。だから麻衣は気が進まないけれど彼女の誘いには応じて来たのである。ひょっとしたら今日も落ち込んでいるように見える自分を励ますために誘ったのかもしれない。今日の会話によるとその後輩も悩みを抱えていたので、同じように誘ったのだろうか。プライバシーに関わることなので、直接尋ねることをしないで言い出すのを待つのも彼女らしい。さらにかこつけて言い出さない自分にエールを送るのもすごい。平気を装えない自分の至らなさと、それを見抜いて密やかに励ましてくれる花畠の思いやりに、恥ずかしいような照れ臭いような気持ちがした。麻衣は少し前向きになって、そうだよね。事件に関しては自分は傍観者であって、川出にどうしてやることもできないのである。ニュースやネットの中傷にやきもきして自分の生活を見失うようじゃ駄目だ。唐突みたいだけれど、気分転換に温泉に行くのも良いかもしれない。今度の休みに行ってみようかとそのつもりになった。麻衣はそれから花畠達と解散して家に戻ると、今日はニュースもファンサイトもYAIKOのSNSも見ずに、インターネットで近場の温泉を検索した。あまり賑やかな所は嫌である。静かな佇まいのこじんまりとした場所が見つかった。ここにしようと麻衣は決めた。
抜けるような清々しい青空。淀んだ気持ちの富倉麻衣には、正直皮肉だなと感じた。でも雨よりはましかと車を走らせる。遠くに出掛けるのは何カ月ぶりだろう。カーステレオからCDを掛けた。最新のものではない。好きなアーティストの聴きたい曲を聴きたい順番に並べてパソコンでコピーしたオリジナルCDである。このアーティストの曲を聴くのは久し振りである。覚めるような天気にお気に入りの曲を聴きながらのドライブ。今日はそんな調子で過ごしたいと麻衣は思った。マイナスの感情を無理にでも晴らしてみる。そんな気持ちでいられたら。目的地の中間地点で道の駅に寄る。そこで昼食を取ることにする。地元名産の食材が入ったうどんを食べてみることにする。普通はうどんにいれる食材ではないがどんな味がするのだろう。麻衣は味に関して保守的であまり冒険をするタイプではないが、今日は思い切って今まで食べたことのないものに挑戦してみる。大人だもの。自分の気持ちの落ち込みは、自分で何とかしなけりゃね。自分の気持ちを鼓舞してみなけりゃ。あれ?それってちょっと無理してるのかな。でも大人なのだから。耐えなければならないんだ。そんなことを言い聞かせながら得体のしれないうどんをすすってみると、案外美味しくて驚く。だしにその食材がよく合っていて、食べた後口の中に風味が残って美味しかった。うん?私、意外と楽しんでるのかな。こんなことで良い気持ちになれて何だかちょっとおかしかった。人間なんて簡単なものだね。それに気を良くしてお土産屋さんなどを少しぶらぶらしてみる。饅頭に漬物、採れたての野菜、実に色々売っている。華やかに装われ買われるのを待っている。麻衣はそれらを微笑んで見送って、道の駅を出発した。それから一時間程走って、目的の温泉に到着した。少し都会から離れて辺鄙な場所の温泉をわざと選んだのだけれど、土曜日だからか、結構人気があるみたいで、少なからずの人がいた。黙ったまま麻衣は着替えてそそくさと湯船に入る。三つの湯船がある中の、取り敢えずオーソドックスなのに入ってみる。温度は少し熱めであるが、肩まで浸かる。それから出て、体を洗う。備え付けの石鹸やシャンプーを使う。シャンプーはここのおすすめの成分が入っている特別の奴で、確かに洗った後、髪の毛がつるつるしてきた。体が綺麗になったら、心も何だか洗われるようだ。ここしばらく感じた人間の欺瞞や悪い気持ちを、今日は吹き飛ばせそうな強い気持ちが生まれたみたいだった。今度は薬草風呂に入ってみる。温度は先程より低めだが、しばらく浸かっているとだんだんと芯から温かくなっていく。肌を触るとすべすべになっている。浸かりながらほうと息を吐く。悪い感情が出ていくような感じ。やっぱり温泉は良いなと思った。体だけでなく、気持ちも穏やかになっていくようだ。一時間くらい風呂にいて、さすがに少し疲れて来たので上がる。着替えをする。ドライヤーをしたら、髪の毛に指がすっと入って驚いた。暖簾から出ると、お土産などを販売しているコーナーに立ち寄る。そのシャンプーが売ってあった。気になって値段を見たらちょっと値が張る。麻衣はしばらく迷ったが、せっかく来た記念だもの。ちょっと羽目を外してもいいのではないか。思い切って決断し購入する。それから車を走らせ帰途に着く。晩御飯はスーパーに寄ってお弁当を買うことにする。今日は面倒臭い家事も何もやらないと決めていた。気分が上向きになった。今日行って本当に良かった。明日も休みである。こんな気持ちが持続すればいいのにと麻衣は思った。
近所の定食屋さんに来ている。ここは味が富倉麻衣の好みで、働いている人も親しみやすい人ばかりで安心して来られる店だ。メニューを見ていると、麻衣の二つ隣の席に、恰幅のいい中年男性がやって来た。そのフォルムに見覚えがあったので顔を窺ったら、小笠原涼子の不倫相手だった。麻衣は食事を注文してスマホを見ながら待っている間も、男が気になってつい見てしまう。麻衣のすぐ隣の席は空いているので、男の姿が分かるのだ。変にならないようにスマホをかざしているが、どうしても視線がそちらに向く。それでもスマホもそれなりに見る。ネットでは相変わらずの川出批判が溢れている。その女性だけでなく、過去にも強引なやり方で迫ったことがあるのではと疑惑の目が向けられている。でも、記事を注意深く読んでいると、どの記事も思わせぶりに書いてあるだけで、決定的な事実ではない気がする。それでも、それを真に受けて悪口雑言を書き連ねる人が後を絶たない。それに心苦しさを感じながらも、同時に小笠原の恋人のことも気にかかる。何度か視線が合いそうになり、慌てて目線を元に戻す。努めて知らないふりを心掛ける。食事が終わるとそそくさと店を出る。何歩か進むと後ろから声を掛けられた。振り向くと先程の男である。
「こんにちは」
笑顔は気さくで悪い印象ではない。一目見た感じでは、小笠原が惹かれるのは少し分かる気がする。
「いい天気ですね。良かったら今から飲みにでも行きませんか。日はまだ早い。大人ならまだまだ家に戻る時刻じゃありませんよ」
始めて会った人に、いや、麻衣が前に見掛けたのは遠くだったから、この男は麻衣のことを知らないはず、それなのに、こんなにあからさまに誘うなんて呆れる。そうか。店でしょっちゅう見ていたから、男は麻衣に気があるのかと思ったのかもしれない。勘違いさせてしまう態度だったか。
「いえ、結構です」
やんわりと断る。だけど、
「いいじゃありませんか。良かったら奢りますよ」
意外にしつこい。そこで麻衣はぶちまける。
「私知ってますよ。小笠原涼子と付き合っているのでしょう。私は彼女の親友です」
そう聞くと男は、少し表情が変わるがすぐに元に戻る。開き直った感じ。
「何だ、涼子の知り合いか。それは厄介だな」
そう言うと、いきなり麻衣の体を引き寄せ、唇を接近させるように顔を近づける。唐突なことに麻衣は怯むが、慌てて男を引き離す。急いで家の方角に走り出す。男はそれ以上は追って来なかった。家に戻る道中から、麻衣は何ていい加減な男なのだろうと怒りが湧きたつ。妻がいながら小笠原と付き合い、それを知っている麻衣にまで手を出そうとする。麻衣は小笠原に忠告したい気持ちが浮かんでいた。あんな人、止めておきなよ。そうすぐにでも言いたい。でもそれを言うには、今日のことを話さなければいけない。麻衣は男の行動を拒否したが、下手に小笠原に話して誤解されては困る。その辺をうまく伝える説明を、麻衣は思いつかない。友人として助言したいという親切心と、絆が壊れてしまうかもしれないという恐れとがせめぎ合い、決心がつかない。ネットでも今まで絆だと思っていたことが崩れているし、最近は関係が危うくなるようなことばかり起きる気がする。二、三日悩んでいたら、小笠原から会いたいという連絡が入った。どうするかはまだ決めかねているが、会うのは普通に会いたいので承諾した。
それから何日か後、ネットを見ていたら臨時ニュースが入った。川出泰裕に関するものであった。詳しく読むと、訴えた女性からの新証言であった。警察の詳しい事情聴取で、女性はもう誤魔化せないと思い、真実を述べると話した。訴えた内容は事実ではないという。長い間付き合っているのに、川出がいつまでも結婚してくれないので、困らせるために嘘を付いたという。暴力的なことは一切されていないとのこと。富倉麻衣は何だか拍子抜けがした。どうすればいいかしばらく考えあぐねた。しばらくして、何だ、川出さんは全然悪くないんだ、信じて良かったと思った。麻衣はすっきりしたが、世間ではどうなんだろう。一度貶められた風評は簡単には戻らないだろうし、いくら女性側が嘘だと言っても疑惑の目を全て一掃できるとは思えない。その女性は罪つくりなことをしたと思う。YAIKOのサイトから、
「疑いが晴れて良かったね。川出さんがそんなことをする筈がないと思ってた。信じててやっぱ正解だったよ」
そのコメントに麻衣は取り敢えず、
「本当だね。これで彼に対する非難が鎮まればいいけど。川出さんはどうなるのかな」
とコメントした。しばらく様子を見守っていきたいと思った。
まだまだすっきりしない感じのまま、麻衣は小笠原涼子と会った。これはこれでどんな顔をして会えばいいのだろう、難問だった。麻衣は多少どぎまぎしていた。小笠原は、最近のニュースや同級生の近況など他愛のない話を喋っている。それからしばし話題が無くなって沈黙になる。その時不意に小笠原が、
「私、見たんだよ。麻衣とあの人が会っているのを。曲がり角の所でずっと見てた」
麻衣はその言葉に小笠原を凝視する。なぜか恥ずかしさを感じる。
「麻衣は断ってくれたね。麻衣はあの人のこと、知っていたんでしょ。それを承知できっぱり断った。私に遠慮したんでしょ。嬉しかった」
にこっと微笑む。
「すぐに手を出す、あんな人だとは思わなかった。それを見てせいせいした。彼とは別れるわ」
その言葉を聞きながら麻衣は、男の誘いを断ったのは、果たして小笠原を思って、彼女を裏切れないと思ったからだろうかといぶかしがる。その気持ちは多少あったかもしれない。でも一番の理由は、妻子があって、不倫までしていて、更に自分までも手を出す男の軽薄さに嫌悪の情を抱いたからである。それは自分のためだった。でも小笠原は、麻衣が小笠原を思ってのことだと取っている。そして、
「私達、これからも親友でいようね」
麻衣に感謝の言葉を述べる。それは少し勘違いなのだ。誤解が多分に含まれている。でも、その思い込みを、麻衣は訂正しないでおく。麻衣は小笠原のことが好きだし、これからも関係を続けたいと思っている。そして、一番危惧していた、男との関係も切ると言っているのだ。麻衣にとってはうまく事が運んでいるのである。細かい行き違いをどうこうする必要はないのではないか。大人の関係は、多少行き違いを含むことがある。それでもスムーズに運ぶのならそれでいいのではないか。せっかくできた良好な関係を続けるのが、麻衣にとっても得策である。だから何も言わず、その言葉を受けた。そんなこんなで麻衣は小笠原と別れた。
それからしばらくして、富倉麻衣は気になったので、川出泰裕のファンサイトにアクセスした。あのニュースがあった後のコメントを読んでみた。
「川出さん、間違いだったんだ。そうだよねえって感じ。ほっとした」
「濡れ衣を着せられてるのに、弁明もしないで耐えていたんだね。やっぱヤスくんはかっこいい」
「もしかしたら、嘘を付かれても、その女性を貶めたくなかったのかも。なんていい人なんだろう」
それを皮切りに、コメントは川出への称賛の声で埋まっていった。麻衣はこれらを読んでいると、何だか違和感を覚えた。その前まではあれだけけなしていたのに、掌を返したように今度は褒めムードになる。人の気持ちの何ていい加減なことだろう。その節操のなさに、麻衣は軽い苛立ちを覚えた。川出の無実が明らかになったのは嬉しいが、手放しで喜ぶことは出来ない。人々の心の移ろいに辟易する。彼らは何を感じ、何を信じて、川出の何を好きだったのだろうか。滅茶苦茶である。自分はこんな人達と今まで共鳴していたと思っていたのか。何だか情けない気持ちになった。それから何日かしてYAIKOから、
「川出さんに対するパッシングも無くなってきたね。ファンサイトも落ち着いてきたから、このサイトもそろそろ閉じるね」
麻衣は、
「川出さんの無実が証明されたのは嬉しい。でもこれに関する渦を垣間見ていたら、何だか疲れてきた。しばらくはそっとしていようかなと思う」
ファンと称する人達の軽薄さが余りにも露で、麻衣はちょっと人の言葉や心が信じられなくなった。本音はどこにあるのかと推し量ることにくたびれを感じている。川出への興味すら、何だか薄らいでいくようだ。暗い、どうすることもできない虚無感が麻衣の心を支配していく。YAIKOのようにずっと支持してくれた人もいる。ネットの世界にだって、ちゃんと真実を見極められる人はいるし、生身の世界でも、多少の誤解から生じていたとしても、小笠原涼子とより深い関係になった。ちゃんとそういう人がいてくれるという事実が、絶望のどん底にまでは麻衣を落とさない。けれど、今はちょっとどれにも距離を置いて自分自身を見つめ直したい。そしていつかこのぬるま湯のような関係を超えて、本当の絆を模索、構築していきたいと思う。ほのかな祈りを胸に秘めて、麻衣はネットを閉じた。画面が一瞬切れて、待ち受け画面に戻った。