11月11日
「十一月十一日はポッキーの日」
先輩がぼそりと呟いた。昨晩から吹き荒れる風にかき消されそうな程か細い声に、僕は思わず聞き返す。
「何か言いました?」
「十一月十一日はポッキーの日」
「…はぁ」
「昔、クラスの男子が授業中に立ち上がっていったの。「平成十一年十一月十一日。ポッキーの日!」 って」
はぁ。そりゃ、また、随分と前の出来事で御座いますね。
と、僕はそれが何年前の出来事なのかを頭の中で数えてみた。
そして、隣を歩く先輩の年齢を推察してみる。
先輩はそんな僕を見て、微笑んだ。
「三十四歳よ。来年の三月で、三十五歳」
「てことは、中学三年の頃ですか?」
「…あれ、そうなるのかしら」
小首を傾げる。ふんわりとした黒いマフラーが、雪のように真っ白な彼女の頬を隠す。艶やかな黒い短めの髪が揺れる。三十四歳がしても良い仕草ではない――などと言ったら色々と語弊があり、そして、それは誤りであり――目の前の人がする分には、何だって許される。
少なくとも、僕は、何だって許してしまうだろう。
「もうずっと前のことだけど。ふっと思い出したの。ねえ、今日って、何日?」
「十一月十一日ですよ。ジャスト」
「ジャスト」
きょとんとした後、彼女はくすりとまた笑った。
そして、手にしていたトートバッグに手を差し入れる。ポッキーの箱を取り出した。
「食べる?」
「頂きます」
彼女から受け取って、僕は箱をさっさと空けて、包装を開いた。中から子供の絵本の木のように明るい色の棒が飛び出している。僕はそれを一つ摘んで引き上げた。黒いチョコのコーティングがされた辺りの半ばほど口の中に差し入れて、ぼりぼりと齧る。
「美味しい?」
「甘いですね」
「甘いの嫌い?」
「好きです」
それなら、美味しい、って言いなさい。
彼女は口にして、僕の手の中のポッキーを同じように一本引き抜いた。
「好きなのよ。これ」
「そうですか」
彼女と歩くのはいつも、この道だった。
いつもは生きているのか死んでいるのかもわからないような川の土手の上。
ごくごくたまあに、犬を連れた人がすれ違う。自転車に乗った学生ともすれ違う。
誰も僕らの方など見もせずに過ぎ去っていく。
僕は何故か、彼らが行き過ぎた後を振り向いてしまう。誰も、僕らのことなど振り返りはしないのに。
黒いコートに黒い手袋、長く黒いスカート。
彼女のいでたちはまるで、一月末の夜のような、深くて物寂しい闇の中にいるような、そんな気がする。
彼女の唇の中に吸い込まれていくポッキーを眺めて、何故、僕は彼女ではないのだろう、とふっと思う。
その自分の考えの意味不明さに幾分か戸惑いながら、僕はまた一つポッキーを摘んだ。
日が落ちたら、あっという間に暗くなるのに、僕はどうしても、そのままでいたかった。
「あなた、何歳だったっけ」
「忘れました」
「私はちゃんと言ったのに」
「言いたくても忘れてしまっているので言えません」
暗くなっていく空を仰ぐ。
彼女が闇の中に溶けてしまうんじゃないか、と言うそんな想像に戸惑う。
ポッキーをもう一つ摘む。
彼女も同じように、摘む。
「少し前、空を見たら、凄く綺麗に星が見えて。子供の頃よりもずっと綺麗に見えたんだけど、やっぱり、昔よりも空気が綺麗になっているのかしら」
「どうなんでしょうね。滅多に星空なんて見ないから」
嘘だった。少し前、僕も同じように、綺麗な星空を見ていた。
「こんな田舎の話だから、多分、空気なんてそんな変わってはいないんだろうけど」
突然風が止んだ。
彼女がポッキーを齧る音が響いた。
僕が唾をのみ込む音も、重なった。
彼女は、僕を見上げた。
僕は、彼女に何を言うべきか、言葉を探した。
が、やっぱり、見つからない。
周囲を見回してみても、ちらほらと街灯のつきだした街が見えるばかりで、その程度なものだった。
「もう、夜になっちゃった」
「すぐに明けます」
彼女は僕を見つめて、そして、また、微笑んだように見えた。
本当にそれは微笑みなのか分からないまま、俯く僕に、彼女が手を差し出した。
黒いニットの手袋が酷く邪魔っ気に思えて。
「先輩、平成最後のポッキーの日ですね」
掴んだ僕の手を先輩は力強く握った後で。
「そうね」
と、素っ気なく、それだけ応えた。