第一話 おかりなさい、パパ! ~娘たちのお出迎え~
「わたし、パパとけっこんするっ!」
それは、幼い娘から父親への、無邪気で可愛い愛情表現。
父親にとっては、冥利に尽きる、と言ってよいほどに嬉しい言葉。
ありがたいことに、俺の八人の娘たちはみんな、その言葉を言ってくれたことがある。
しかし、その言葉が叶うことはない。
子どもたちは、いつかきっと、パパよりも、ママよりも、大切なものに出会う。
親としては、少し寂しいかもしれない。
けれど、それは自然なこと。
そして、喜ぶべきこと。
俺にとって何より大切なことは、娘たちの幸せだ。
だから、旅立ちの日が来たときは、一番幸せになれる道へ、娘たちを送り出そう。
――と、思っていたのだが。
俺はやがて思い知る。
娘たちの愛情は、俺の予想も覚悟も、遥かに超えていたようだ。
振り返ってみると。
その予兆は、日常の中で無数にあったのかもしれない。
たとえば、あの楽しくもありふれた、いつかの週末にだって――。
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「ここで失礼しますっ!」
「じゃ、また月曜日に」
「おつかれ~」
電車を降りていく同僚たちに挨拶を返すと、俺は少し広くなった車内を何となく見回して、つり革を握り直した。
金曜日の夜。
みんなと飲みに行くのもいいけれど、今日はパスさせてもらった。
俺には、できるだけ早く帰るべき理由がある。
そして我が家では、飲み会よりも楽しいことが待っているのだ。
同僚たちと別れ、電車に一人残った俺は、携帯電話を取り出した。
そこに表示されているのは、愛する妻からのメッセージ!
この文字を妻が打ってくれたと思うだけで、顔がにやけてしまう。
――車掌さんの穏やかな声が、発車の合図を告げる。
もうすぐ、我が家の最寄駅。
到着が待ち遠しい――!
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「パパ~!」
改札を出た俺の目に早速飛びこんできたのは、とてもとても可愛らしい、幼い女の子。
幼稚園の年中組である、俺の娘、愛だった。
とてとてとてとて……。
ぷくぷくと丸っこい手をこちらへ向けて元気に振って、小さな足を一生懸命動かして。
お姉さんに結ってもらったツインテールをぴょこぴょこ揺らして、ふんわりしたスカートをひるがえして。
俺の元へまっすぐ走ってくる。
そして俺は、そのままの勢いで胸へ突っこんできた愛を――抱きとめる!
「おかえり~♪」
「ただい、」
どーんっ!
「 う゛っ」
抱きとめきれなかった。
思ったよりも、突進力が強い……。
「パパ、だいじょぶー?」
愛が心配そうに、おなかを押さえる俺を見上げてくる。
「ああ、大丈夫だよ」
少しびっくりしたけれど、別に痛くはない。
そもそも、こんなに柔らかくて可愛い愛から、ダメージを受けるはずがない……!
「ぽんぽん、ぽんぽ~ん♪」
俺が体勢を立て直す間にも、愛は小さな手を伸ばして、おなかを優しく叩いてくれる。
愛の言うぽんぽんは、おなかのことなのか、それを叩く擬音なのか、その両方か。
分からないけれど、俺のぽんぽんをぽんぽんしてくれる愛を見ているだけで、突進の衝撃も、一日の仕事の疲れも、どこかへ飛んでいってしまった。
「愛、ありがとうね。本当にもう大丈夫だよ」
「そーう?」
愛の頭を撫でながら言うと、愛は名残惜しそうに手を引っ込め――。
「そうだ、いいことかんがえた! マホウで、もっとなおしてあげる♪ パパがきょうずっと、ねないで、あそべるようにっ!」
今度は、斜めがけにしていたポシェットへ手を突っ込み、がさごそと何かを探し始めた。
きっと、おもちゃのステッキを取り出そうとしているのだろう。
妻と俺がふたりでプレゼントしたおもちゃを、気に入って持ち歩いてくれているようで嬉しい。
それに、愛の魔女っ娘パフォーマンスなら、いくらでも見ていたいものだ。
しかし、ここは改札口の近く。
今は人の出入りも少ないし、通行の邪魔にならない場所に立ってもいるが、愛の魔法が始まると注目を集め、ギャラリーで混み出してしまうかもしれない。
そんなゲリライベントも悪くはないのだが、愛のマジカルステージには、もっとふさわしい場所があるはずだ。
そう思って、愛に魔法を中断してもらおうとしたとき――。
「あいちゃ~ん! まって~!」
ぱたぱたぱた……。
新しい足音が聞こえてきた。
なんて可愛い足音なんだ!
もう、足音だけで可愛い!
声と足音の方向へ顔を向けると、それはそれは可愛らしい女の子が走ってきていた。
愛よりやや幼いその女の子は、今年、幼稚園の年少組に入った、俺の娘、優結だ。
「あ、パパだーっ!」
わちゃわちゃと両手を振り回しながら、愛よりもさらに小さく短い足を使って、自分を目がけて走ってくる、愛しい娘の姿……!
その健気さあふれる走りを、いつまでも見ていたい!
だが、優結と俺との間には、まだ少し距離がある。
優結は小さな体であんなに頑張っているのに、それをただ見ているだけというのは、何だか可哀想だし――駆け寄って、抱き上げよう!
……いや、やはり甘やかさず、自力でゴールへたどり着くまで、待っていたほうがいいだろうか?
わずかな間に、そんな葛藤をしていると――。
「あ! 優結もおいで~」
優結の接近に気付いた――というか、思い出したらしい愛が振り返った。
そして、すぐさま優結のそばへ行き、二人で手を繋いで、俺の元へ戻ってきたのだ!
何と素早く、賢い判断だろう……!
愛は、妹のことをよく見ている。
俺よりよほど頼りになる、いいお姉さんだなぁ。
――そう、愛と優結は姉妹だ。
愛は、我が家の七女。
優結は、我が家の八女にして末っ子。
妻と俺の間には八人の娘がいて、姉妹はみんな仲よし。
中でも愛と優結は、ほとんどいつもいっしょにいる。
「パパ、あいたかった~! ゆい、ずっとまってたの。でも、もうまてな~いから、おうちから、はしってきたよ! ほら、ぶーぶー! ぶたぴんも、パパにあえて、うれしいって!」
「そうか! ありがとうな、優結。それに、ぶたぴん?」
「ぶっぶぅー♪」
ぶたぴんとは、優結が髪に付けている、ブタのキャラクターのヘアピンのこと……のようだ。
今日の優結は、愛と違って、髪を結ったりはしていないが、そのヘアピンがオシャレのアクセントになっていた。
ぶたぴんも、妻と俺が選んで、優結へあげたもの。
しかし、優結にそんな名前を付けられていたとは知らなかった。
「すりすりり~♪」
俺の脚につかまって、顔をこすりつける優結。
「わしゃわしゃしゃ~!」
お返しに、両手で頭を包んで、ドライ洗髪してやる。
「うぃっひひ~♪」
俺の指へ自ら髪を絡ませるように、頭を振る優結。
ひとしきりわしゃわしゃしてやると満足したらしく、脚から離れた。
ズボンが甘噛みされた気配はあったものの、湿ってはいない。
今朝、家を出てから半日ぶりの、優結との再会。
そこで早くもよだれを付けられるかと思ったが、それには至らなかったようだ。
しかし、油断はできない。
いつも優結は俺を見ると、顔と言わず腕と言わず、やたらと舐め回そうとしてくる。
今も、俺の指の一本をつかんで、自らの口へ運ぼうとしている……。
やんわりと避けるべきか、このまま好きなだけ舐めさせてあげるべきか、少し考えていると――。
「はぁっ、はぁっ……愛も優結も、はやいよ……。華弥、おいつけない……。……わぁっ! お父さまだ♡ おかえりなさいませ~♡」
「一番乗りは取られちゃいましたね♪ お帰りなさい、お父さん♡」
新たに二人の美人がやって来た。
【八女・優結のウワサ 1】
一番好きな食べ物は、「パパ!」らしい。