さかむけ
月曜日。
いつものスーパーで、トマトを取ろうとした時に気付いた。
右手の指先に、鈍い痛み。
一体いつからそうなっていたのか
小さなさかむけが出来ていた。
『…っ』
トマトへと向かっていた右手にとっては不本意だろうが
その小さな痛みに引き返すほか術はなかった。
爪の横を、薄く深く抉るようなさかむけ。
一番痛みが長引くタイプ。
『…はぁ』
気付いてしまえば、もう忘れる事は出来ない痛みに
思わずため息が漏れる。
火曜日。
案の定、昨日のさかむけはじんじんと痛む。
とりあえず、絆創膏を貼ってみる。
小さい頃、おばあちゃんがそうしてくれたように。
吊革に掴まっていても
パソコンを打っていても
忘れないで
とでもいうかのように
一時もその痛みを忘れる事は許されない。
水曜日。
『あれ、指どうしたの?』
お茶を出した時に気付かれた。
40歳になって急に色気が増したねなんて、みんなから言われている課長。
『あ、大したことないんです。さかむけです』
『さかむけ?』
『…え?はい』
『さかむけって…。あぁ、そうか。君出身て確か』
『九州ですけど』
『そっかそっか。それ、ささくれの事だろ?』
『ささくれ…』
『そ。なかなか方言抜けないね~。こっち出てきて何年だっけ?』
『5年…ですかね』
『やっぱり方言って強いんだね』
俺、方言ないから羨ましいなと笑う課長。
さかむけが方言だなんて。
初めて知った。
木曜日。
朝から右手がじんじんと痛む。
あからさまに痛みが増している。
さかむけ――ささくれが出来てから、痛みで注意力が散漫になった気がする。
金曜日。
仕事でミスをした。
入力ミス。
相変わらず、右手が痛い。
全部ささくれのせいだ。
ずっと痛みを主張し続けるこいつに
ふと気をとられる。
全部こいつのせいだ。
また月曜日がきた。
まだささくれは痛い。
絆創膏を剥がすと
白くふやけた指が可哀想だった。
新しい絆創膏に貼り替えて
今日も満員電車に乗り込む。
『おはようございます。課長いますか?』
隣の部署の男性が来た。
とりあえず、一番近い席の私が対応する。
『すみません。課長は今、出てます』
『あ、そうなんだ。参ったな…』
『資料ですか?』
『明日の会議で使うんだ。うちの課長が、目を通してもらえって』
『あ、じゃあ渡しておきますよ。多分、11時頃には戻ると思いますんで』
『本当?じゃあお願いします』
資料を受け取る。
ふと、相手の右手に目が留まる。
『あ』
『え?』
『絆創膏』
『あ、君も?』
見つめあう。
『さかむけ?』
『え?』
『俺もさかむけ。一緒?』
『あ、はい。あの、出身ってどちらですか?』
『え?九州だけど。あ、方言出てた?』
口を押さえる仕草が
何だか可愛く見えた。
『はい。さかむけって』
『え、さかむけって方言?』
『みたいです。私も聞いたばっかりですけど』
『何て言うの?』
『ささくれらしいですよ』
『ささくれ』
『私も九州です。出身』
『そうなんだ。奇遇だね』
『本当に』
男性の指に巻かれた絆創膏に目がいく。
『あ、じゃあ資料よろしく。申し訳ないんだけど、夕方までに目を通して欲しいって伝えてくれる?』
『わかりました』
多分、ささくれに気付いてから
一番いい笑顔が出来た。
資料を持って、課長の席へ行こうと踵を返す。
不意に肩を掴まれる。
ぐいっと引き戻された左耳に
男性の声が響く。
『え』
振り返ると
もうドアから出ていってしまう所だった。
さかむけはまだ
じんじんと痛む。
でもきっと
明日には痛みも気にならなくなりそう。
そんな予感に包まれて
自然と笑みが溢れる。
私はそっと
絆創膏を剥がした。