20.常異空間
目を閉じる。身体が浮遊してる。
その感覚はまるで落下しているようで、或いは浮上しているようでもあり、静止しているようでもある。
外界は毒で、身の回りを這いずる膨大な情報量に自分が保てず触れた部分から自己の存在が瓦解していくような錯覚を覚える。
そんな常に外側から圧力をかけられるような、霧散していきそうな自己を押しとどめるよう願いながら、目を開けた。
白い世界に、浮遊している。
ここには全てがあり、何もない。目が痛いほどの純色の白い空間を、同じく純白に同化した膨大な情報が高速で行きかっている。
その情報の浸食を避けるように身体を緊張させて丸める。だが外に触れている身体の表面から外の情報に同化し消滅していきそうな錯覚を覚える。
でも現実にそんなことはあるはずはない。そう、俺ならばあるはずはないと何故か俺は知っている。
上も下も右も左もない白い筒のような世界を、歩くこともせずに願うままに前に進んで行く。
永遠に終わりがないと錯覚させるような空間を前に進んで行くと、遠くに誰かいるのが小さく見えてくる。
地面もない白い世界に立っている一人の少女。ショートカットながら前髪の右側だけを伸ばしてピンで留めている、年齢は十代前半くらいだろうか。小柄で内気そうな少女だ。
何も無く全てが有るあやふやな世界で、彼女だけが確固とした情報であった。
溺れる世界から逃れるようにもがき続けると、地面もないのに彼女の方へと近づいていく。
近くへ来て見てみれば、目に生気が宿っていないのだが、それでも整った顔をした少女であった。
だが、不思議と俺は彼女を知っている。何処かで見たことがあるのだ彼女を。
どこだったか。どこだったか。
「誰なの? あなたは」
そんな俺に、憂いを含んだ表情で、そして不思議そうに声をかけてくる少女。
「何であなたはここにいることが出来て、そして自分を保てるの?」
近づいてくる。その姿に不思議と奇妙な懐かしさと、そして恐怖を覚えた。
「あなたはここにいるべきではないのでしょ? どうやってここに……そう、そんな方法が」
眼を伏せて悲しそうな表情でそんな意味の解らないことを呟く少女。
「どういうことなんだよ。あんたは誰で、ここはいったいどこなんだよ!」
この世界で唯一の確かなものである少女に右手を伸ばして肩を掴もうとする。
「っ! ダメ、私に触ったら!」
「え?」
彼女に触れたと思った右手がするりと彼女をすり抜けていく気がする。まるで霧を掴んだような、いや、逆だ。俺の右腕が霧になったかのような、そんな感覚。
「だめぇっ! 離れて今すぐに!」
憂いを含んだ瞳のまま悲しそうに、そして内気そうな彼女には見合わないほどの激情を込めてそんなことを叫ぶ。
瞬間、視界が暗転し、意識は電気のスイッチを切ったかのようなパチンと言う音を立てて消滅した。
「……君! 山田君! しっかりしなさい! 山田君! 起きて!」
すぐ近くで必死な声が聞こえる。
瞼を上げると顔と顔が引っ付きそうなほどの距離に悲痛な表情をした美人の顔が。
「あ、えん……どう?」
「気が付いたのね山田君! 意識はしっかりしてる!?」
そう言いながら心底心配そうな顔で俺の顔を覗き込む遠藤。
服装はさっきまでの年齢とマッチしな過ぎるファンシーな魔法少女のものから、いつの間にか学校の制服へと戻っている。
「ん、あ、あぁ。何とか。俺は、戻ってきたのか……?」
「ええ、信じられないことだけど戻ってきたわ。常異空間に入った人間が戻ってこれるなんて聞いたこともないけど確かにあなたは戻ってきた」
「常異空間? 何だよそれ」
「はぁ、あなたやっぱり、本当に魔術師じゃないのね。魔術や魔法に携わる人間なら常異空間を知らないなんてありえないし」
「聞いたことも無いぞそんな言葉。本当に何のことを言っているのか解らないが。そう言えばさっきの穴はどうなってるんだ?」
「ああ、ゲート? まだ空いてるわよ。少し離れた場所まであなたを引きずってきたけど。ほら、すぐそこにあるわよ」
そう言って遠藤が指さしたその先を倒れたまま顔を動かして見ると、先ほどと変わらぬ書割の黒い太陽の様な穴が音も立てずに浮かんでいた。
「ゲートに入った時も、ゲートの前に気絶したまま現れた時も心臓が止まるかと思ったくらい驚いたわ。あと他にも結界をすり抜けて堂々と入ってきたりと、本当に山田君には今日は何度となく驚かされる日ね」
「いや、俺のせいではないし、そんなこと言ったら俺の方が驚いている」
先ほどまでの衝撃的な光景と今目の前にある現実感のない黒い穴を見ながら言う。
「だがとりあえず俺はさっきまでの記憶もあるな。と言うことは遠藤に暗示もかけられてないし、一応心身共に無事なようだな」
「無事、か……」
そう言うと何かを堪えるような表情で俺を見る遠藤。
「その、ね……山田君。落ち着いて聞いてほしいんだけど」
「ん?」
「貴方の身体、その、言いにくいんだけど……」
「何だよ遠藤。勿体ぶらずに言えよ」
「言いにくいんだけ、ね。その、無いのよ」
「無いって何が。だって俺は何処も居たくないし怪我もしてないと思うし、ほら」
そう言いながら証明するように起き上がろうと肘をつきながら身体を持ち上げようとしたら、全く意味も解らずにバランスを崩してべちゃりと顔から地面に倒れこんだ。
「んぶっ! な、何が!」
「大丈夫山田君! 落ち着いて、落ち着いて聞いてほしいんだけどあなたの、その、あなたの手が、手がね……」
「手ってなんだよ。俺は手なんて何ともないし、ほら」
そう言って左手で身体を支えて起き上がり、目の前でぶんぶんと手を振る。
「って、あれ……?」
左手は視界に入るのだが、右手が入らない。いや、それどころか右手を動かしているつもりなのだが、何も動かしていないような妙な違和感がある。
「あれ、そ、そんな……」
「そうなの。あなたの右手。その、無いのよ」
「無いって、だって何も痛くないし、そんなはずは……」
そう言いながらも妙な不安に煽られるように左手で右肩を押さえるといつもより身体の内側まで手が入る。
恐る恐る視界を右下に向けると。
「あ、う、嘘。おい、あ、あああ、ああああ、うわあああああああ!」
そこには肩の先から何もなく、文字通り右腕が付け根から消えていた。




