さよなら僕の夏休み
「今日から本当の夏休みの始まりだ!」
日めくりカレンダーを破るとそこには予定の書きこんでいないまっさらな日付があった。
「八月十一日……この日をどれだけ待ち望んでいたことか……!」
毎日、毎日、補習の連続。朝八時に登校し、ひたすら問題集をやらされる。休憩時間は昼食の一時間のみ。夕方ごろにやっと解放されるのだ。だが、地獄はそこで終わらない。帰り際に教師たちから満面の笑みで大量の課題を課されのである。しかも提出期限は明日。そのおかげで、夏休みというのに自分の時間はどんどん削られ、勉強漬けの毎日である。
今年の春から高校に進学したのだが、僕の進学した高校は生徒たちに極限まで勉強させるスタンスをとっている進学校だったらしい。なので授業時間も他校と比べると遥かに多く、『補習』という名目で土日に登校させる日も少なくはない。
よりによって僕は『難関国公立大学コース』へ受かってしまい、ただでさえ勉強時間が多いというのに、そのさらに倍勉強させられるのだ。
「偏差値だけで学校決めたのがやっぱりいけなかったですね……まさかここまでとは思ってもみなかったですし」
そんな『夏休み=補習』な僕に残された最後の希望が八月十一日から十八日の一週間である。
その期間だけは補習が無いのだ。
「課題は一応出されたけど一週間後までにやればいいわけですから」
少なくとも補習があるときよりはのんびりできそうだ。
「さあて今日は何をしましょうか……中学のときの友達に久しぶりに会ってみるとか……プールにも行ってみたいですね……むしろ海に行ってみたいです……美味しいクリームあんみつを食べながら水平線へ沈む夕日を見る……ああ、夢が広がります」
これからの夏休みに対する期待でいっぱいな、すがすがしい朝。
そんな朝を一通のメールが引き裂いた。
フレンチトーストを片手にケータイを取る。差出人は
「父さん……? 一体何の用だろう」
僕の父さんは名古屋市の郊外で探偵事務所を開いている。父さんは事務所にいることが多く滅多にこの家に帰って来ない。そのうえ全然連絡を取らない。そのくせ突然連絡が来る。そして連絡があったときは大抵嫌な予感しかしない。
「奔放な人間が身内にいるとこれだから困る」
サラダを頬張りながらメールを開く。――――[件名:緊急事態]
「ッ!」
野菜ジュースで無理矢理流し込み、むせ返るのを防いだ。
「父さん……何かあったのかな?」
父さんはもういいオッサンである。しかし誠に残念ながら本人にはその自覚が無いため無駄にアクティブなのである。
「この前とかマラソン大会に出てしばらくしたら道路に倒れてたし……」
またそんなことがあってたまるか。早速メールの本文に目を通す。
[今すぐに俺の事務所に来い。今すぐにだ]
背中に氷水を流し込まれたような凄まじい悪寒を感じた。こういう文章が少ないときは決まって――
「ああもう!」
フォークをレタスに突き刺したまま放置し、すぐに玄関へと向かった。スニーカーの靴紐を結ぶことさえ忘れてひたすら駆け出す。
いくつ信号を渡っただろう、何人の人を追い越しただろう、それさえも記憶にとどめられずただ足が勝手に動いてくようだった。意識も思考も吹き飛んでいく。
事務所まではいくつか交通機関を乗り継ぐ必要がある。始めの駅に着いた瞬間、改札口に電子マネーカード『マナカ』をかざし駅の構内まで一直線に駆け抜ける。
ホームにはちょうど電車が着いていた。満員電車に無理矢理体を押し込む。
二区間くらい乗ってからすぐに降りて、別の電車へ乗り換えた。汗だくの僕を行きかう人々が奇異の目で見る。
電車を降りて改札口を抜けると見慣れた看板が目に入った。
『ママイ探偵事務所』
父さんは今そこで……
両足が悲鳴を上げ始める。視界がぐらついて目が霞んでいく。あと少し、あと少しなのに。
「根性見せろ! 僕!」
赤信号が青に変わったとき、最後の力を振り絞る。ビルの階段を駆け上がりドアノブをひっつかんだ。ドアノブには『ママイ探偵事務所』と書かれたプレートが下げられている。
「父さんッ!」
蝶番が外れてもおかしくないような勢いでドアを開けた。そのさきには――――
誰もいなかった。
閑散とした無機質な空間が僕を迎える。
「…………父さん? どこにいるんですか? 父さん!」
事務室からベランダ、トイレに至るまで隈なく探したが、見慣れた小汚いオッサンはどこにも見当たらない。
「まさか、もう救急車で運ばれたあとでしょうか……?」
にしても、野次馬が全くいないからやっぱり違うだろう。
「なら一体どこに……?」
開けっ放しにしていたベランダの窓から生温い風が入ってきた。その風は事務机に乗っていた一枚の紙をそっと僕のもとへ運んだ。
「なんだろう、これ」
その紙には
[親愛なる善行へ
パパから善行へオ・ネ・ガ・イ♪ パパは今日から温泉旅行へ行くので、事務所の留守をお願いしまーす! ちなみに帰ってくるのは一週間後だお。よろしく☆
善行が大好きなパパより]
油性ペンで書き殴ったような汚い文面。内容によれば父さんは倒れていたのでも何でもなかったようだ。
それはいい。
しかし、この手紙によれば僕に探偵事務所の留守をしろと言っているようである。その期間は八月十一日から十八日。僕の補習が無い期間である。
何度読み返しても、何度読み返しても、手紙の文面は変わらない。目がダウトしまくってるけどどうやらこれは現実らしい。
中学時代の友達と会う計画も、プールも、海も、美味しいクリームあんみつと水平線へ沈む夕日も、あっという間に砕け散った。今日から僕の補習が無い期間の予定はすべて事務所のおもりで埋まってしまったのだ。
「ぼ、僕の……夏休み……返してくださいよお!」
全身の疲れがどっと出て、膝から崩れて床に伏せった。窓のカーテンが虚しく揺れている。
僕の夏休みは今日をもって――――消滅した。
〈ヨシユキMEMO〉 - - - - - - - - - - - - - - - - -
マナカ 名古屋市に登場した電子マネーカード。なごやのドまんなかとかいうキャッチコピーとともに登場したが、今では他の都府県の交通機関でも使えるっぽい。でも東京のスイカとは十年遅れての登場だからやっぱり名古屋はなんだかんだ田舎
補習 学生の天国・夏休みを食いつぶす魔物。生徒の悲鳴と教師たちの陰謀によって生成される。ほとんどの場合成績不振者《選ばれし者》に出現するが、僕の学校の教師のようにたくさんの生徒へ不条理に襲わせるケースもある。
~だお 一つだけ言えるのは四十代のオッサンが使う言葉じゃないこと




