03
当のサンライズは、というと。
家で耳が聴こえないことに気づいてすぐ、由利香に会社へ連絡してもらってから、このMIROC開発部直属の病院に入るまでに、実は軽くすったもんだがあった。
何で移動するか、という話になった時、当然カイシャから車を寄こしてくれるかと思っていたら、何と近辺の社用車がすべて本部の重要作戦に回されてしまったので、空きが一台もない、タクシーを使ってくれ、清算は後で頼む、と総務から言われてしまった。由利香が
「タクシーで来いって」
と紙に書いてくれたので、首を横に振ってポケットの定期を出してみせた。
「だいじょうぶ、電車で行くから」
身振りも入れて伝えると、由利香は泣きそうな顔をして「ムリよ」と口を動かした。
もちろん、子ども三人を抱えている彼女が付き添うわけにもいかない。
それでもどうにか説得して(うまくしゃべれないのと聴こえないのをいいことに)半分彼女を引きはがすように家を出た。
まず、表通りを渡る時に脇から飛び出してきた(ようにみえた)軽自動車にひっかけられそうになった。運転していた男は目を三角にして何かどなったようだが、何を言われているのか皆目見当がつかなかった。彼のぽかんとした表情をみて運転手は更に何かどなり、ぺっと唾を吐くような仕草をして乱暴にハンドルをきって表通りを去っていった。
駅のホームでも、何となく居心地は悪かった。
振動は足下から伝わってくるが、表示以外に電車がどの辺まで来ているのか判断する材料がなく、彼は始終あたりをきょろきょろ見回すしかなかった。
そう言う時に限って電車の事故があったらしく、ダイヤが大きく乱れていた。電光掲示板の情報だけではつかみ切れない乱れようだった。
携帯でとりあえず連絡だけでも、と思い電話を取り出してから、使えないことに気づき舌打ちしてまた胸ポケットにしまう。
舌打ちすら聴こえていないのが情けない。
だんだん混みあうホームでも、あちらから押され、こちらから押されいつもより数十倍も神経を使う。今から病院に入るからまあいいが、本当にビョウキになりそうだった。
多分オレは外から見ても、いつものオレと全然変わりがないはずだ。
それでもこの変わりようは何ということだ。
急に持っていた力を失うということが、こんなにも不安で恐ろしいなんて。
しかも目が見えないのだったらまだ分かり易いが、耳が聴こえないというのはどうにもアピールしようがない。
首から札を下げて書いておきたいくらいだった。
ようやく来た電車に乗ろうとして、なぜか後ろから突き飛ばされた。よろめいて何とか転ばずに済んだ。だが前にいた若い女性が背中に感じた衝撃できっとなってふり向いた。彼に向って何か口を動かす。「あの」言い訳をしたくとも自分の声も分からない。「すみません、ホントに」言っているうちにも後ろからぐいぐいと押されている。なかなか発進しない満員電車の中、先ほどの女性のすぐ近くでいたたまれない思いのままじっと、動き出すのを待っていた。女性はずっと睨みつけていた。周りから何か言われているのではないか、そう勘繰りたくなるほど空気が痛かった。
どうにか動き出した電車の中で、彼はずっと堅く目をつぶっていた。
アナウンスだけが頼りだ、そこまで思ってから急にぞっとする。
アナウンスが聞けるわけがない。
仕方なく、また目を開けて、今度はドアの上の表示をずっと頑なに見つめ続けていた。
ようやくたどりついた支部でも、まず総務に寄った(到着がかなり遅かったので、ずいぶん気をもんでいたらしい)が、担当はじめ顔見知りで事情を十分承知のヤツらでさえ、普通に話しかけてきてから、あっという顔をして口をつぐんだ。
本当にまるっきり聴こえていないというのが、どうしても理解できていないようだった。
労わりの目で肩を抱かれ、総務の担当者(名前が分からなかったが、聞く気にもなれなかった。後で御親切に名刺をくれた。「トノマツシンイチ」とあった)と今度はタクシーで病院まで。
ようやくたどり着き、ベッドにたどり着いた時には午前11時過ぎだった。もう一日のほとんどすべて、いや人生の9割まで終わらせてしまったような虚脱感で、彼はベッドに倒れ込んだ。
今でもその日を思い出すと、ぞっとしてしまう。
それでも落ち着いてみると、この暮らしもまんざらでもなくなってきた。
オレって本来、すごーくナマケモノなのかも、こうやって寝ていても全然苦にならない。しかもうるさく話しかけるヤツもいない。
目をつぶっていさえすれば、世界から切り離されたようだ。
もしかしてこの『聞こえないという状態』、実は自分自身の意思からきているのでは? とふと思えるほどだった。