序章
◆ 一人の男の朝
朝目が覚めると、あたりは静まり返っていた。
昨夜の、由利香との言い争いを思い出した。
久しぶりの本格的なケンカだった。
元々の原因は、オレだ。口の中が苦い。煙草がほしい。せっかく禁煙したのに。
彼はのろのろと起き上がった。
◆ もう1人の男の願い
お前はだまっていろ、お前が口を利くといつもロクなことがない。
何度そう言われたことか。
故郷にいた頃、父親は、事あるごとに彼に辛く当たった。
彼は、その蔑みに満ちた目を、口角に泡を浮かべながら飛んでくる罵倒を、酔った勢いでの殴打を、ただ反抗的な沈黙と共にずっと耐えていた。
復讐は、考えていない。和輝は思う……それでなくともオヤジは全てを失ったのだから。妻を、会社を、家を、そして全財産を。
元はと言えば身から出た錆だと言えなくもない。父親のやり方はあくど過ぎた。それでも、彼は決して父に表立った反抗はしなかった。元々そんなに悪人ではない、俺だってオヤジみたいな経営者の立場だったら同じようなことをするだろう、と。それに彼が金に汚いのは俺ら家族を養うためだとずっと自らに言い聞かせてきた。
しかし、そんな忍耐をあざ笑うかのように、父は彼の心を苛んでいった。
挙句の果てに、俺がここまで落ちぶれたのはお前のせいだ、お前が何かしゃべるたびに周りが不幸になる、と面罵した。
カメイさんが800万貸すから、そう言った時にテメエが「だめだよ、おじさん」なんて一言よけいな口挟んだばっかりに「だよな、騙すようなモンだから」って向うはあっさり引き下がっちまった。バカたれが。騙すのはこっちの専売特許なんだよ。金受け取ったらさっさと逃げちまえばいいんだ、古くからのつき合いだって? 知るかそんなん。アイツの年金額、聞いたことあっか? それに退職金。何ならぶち殺してでも金ひっ攫っちまいたいもんだ。
テメエ、口は災いのもと、って言葉、知ってっか? そりゃ、オメエのためにできた言葉さ、はあ。その口つぐんでろ、一生なぁ。
俺はお人よしなんだ、きっと。和樹はそう自らを結論づけた。あんなに憎んでいたはずの父親でさえ、許してもいいかも、などと思っている。全ての願いを叶えたい、なんてのは所詮無理、子どもですら考えない内容だ。だったら、現実を自分に沿わせるのではなく、自分が現実に寄り添うしかないではないか。
お人よしはお人よしとして生きるしかない。それで世の中を渡っていけるの ならば。
少なくとも、父親は弟を可愛がっていた。少しでも幸せに暮らして欲しいと願っていた、不思議なことに、できそこないだと思われていた弟の方が、父親には癒しを与えていたらしい、しかし、そこだけは、和輝も父も同じだった。弟は二人の安らぎだった。
ただ弟が幸せになってくれればいい、と。それだけが今の願い。いや……
もうひとつ、願いはある。
彼の心のうちを、知ることができたならば。心を通い合わせることさえできれば。
そうすればもう他には何も、必要ないのに。
遠く離れたところに住む弟に、胸を痛め、
同じように遠く離れたところに潜む父親にも、また、胸を痛めて彼は今日も東京の片隅に暮らしていた。
口もとに偽りの笑顔を浮かべ、目は乾きながらも心のどこかで密かに涙を流しつつ。