はじまる世界
整然とされた一室に、朝の日差しが迷い込む。最低限の家具のみが揃えられ、生活感の欠片も感じられないような部屋の主は、よほど几帳面に部屋の整理を行っているのだろう。服の一枚も放り出してあれば、まだ違う印象を持っただろうに、その部屋は何の面白味も含んではいなかった。唯一、変ったものがあるとすれば、本が仕舞ってある棚の上に置かれた、一体の熊の木像だけだろう。これだけは素人の手製なのか、少し荒々しい削り跡が残されている。とはいえ、優れた意匠が凝らされているのも確かだった。生き生きと魚をくわえる熊からは、製作者の努力が窺えた。
「ん……」
ベッドの上で、もぞりと動く。布団が少しベッドの外へ滑り落ちて、揃えられた両足が顕になる。彼こそがこの部屋の主であり、朝の日差しから目覚めの催促を受けた少年――クロードだった。クロードは半分開いた目で起き上がると、壁にかけてあった時計に目をやる。寝ぼけ眼だった蒼の瞳が見開かれ、布団を勢いよく弾き飛ばした。
ベッドから飛び降りると、クロードは側にあった木製のクロゼットをばん、と開いた。そして中から急いで何着かの服を選定すると、それを引っ張り出してベッドの上に放り投げた。寝巻として着ていたゆったりとした黒い服を脱ぎ捨てると、シャツに腕を通し、ぶかぶかのズボンを履いてベルトで固定し、黒く肩下まで伸びる髪を結い、頬を叩いた。
「寝坊した!」
クロードは慌てて部屋を飛び出すと、早足に廊下を歩く。まだ一階だったのが救いだろうか。これがもし二階ならば、到着が更に遅れてしまうことになっただろう。前方に大きな木造の扉が見えると、ついにクロードは駆けだした。
扉にもたれ掛かるようにして開けると、すぐに鼻孔をくすぐるいい香りと遭遇した。おそらくは、今日のスープがこの香りの正体だろう。クロードは大きな食堂を抜け、厨房に入った。するとそこには妙齢の女性が、鼻歌を奏でながら大きな鍋をかき混ぜているところだった。
長い栗色の髪を三つ編みにし、優しげな丸い瞳を持つ、質素なワンピースを着た女性を見つけて、クロードは息を整えた。そして笑顔を浮かべると、その女性に向けて口を開いた。
「おはようございます、マーサさん」
「あら、おはよう、クロード。ふふっ、今日も早起きね」
マーサはクロードに気付くと、くすりと笑って挨拶を返した。優しげな笑みからは彼女の人の良さが窺える。クロードはその笑顔を見て安心すると、すぐに台に並べられたパンに目をやった。皿の数を数えると、およそ二十余りある。その皿の上に、二種類のパンが並べられ、挟まれたレタスが美味しそうな色を放っていた。
「これ、並べていいですか?」
「そう? ありがとう、助かるわ」
クロードは手際よく皿を持ちあげると、先ほどの食堂に運んで行く。それを数回繰り返し、厨房のパンはすべて食堂へと運ばれた。その頃にはマーサが作っていたスープも出来上がり、それらを器に移す作業に移行していた。その器もすべて運び、マーサとクロードは揃って息を吐く。そして互いの顔を見やり、笑顔で徒労をねぎらった。
「ちびたちを起こしてきますね」
「ありがとう。いつもごめんなさいね」
「いえ。マーサさんにはいろいろよくして貰ってるんですから、これくらいは」
クロードは厨房から飛び出すと、食堂を出て、二階へ通じる階段へ向かった。ぎしぎしと軋む階段に僅かな恐怖を覚えながら、クロードは二階へと至る。そしてすぐ右側にあった扉を開くと、中に眠っていた数人の子どもたちを見つけ、一度息を吸う。
「皆起きろー! 朝ごはん出来たぞー!」
そして慣れない大声で子どもたちを起こしにかかる。何人かの子どもたちは先ほどのクロードと同様に半目で起き上がり、何人かの子どもたちは身じろぎをしてまだ眠っていた。起きた子どもたちの内、一人の少女がクロードの姿を捉え、完全に覚醒した。
「おはよう、クロードお兄ちゃん! レナが全員起こすから、男の子の方に行ってあげて!」
「ああ、レナ。頼むよ。じゃあ」
レナはしっかりした少女だった。大きな黒い瞳がチャームポイントの彼女は、言うなれば女の子部屋の室長といったところで、いつも真っ先にクロードのサポートに回る、11歳の女の子だった。女の子だらけの部屋をあとにすると、クロードは息を大きく吐き出した。何度やっても、女の子たちの部屋に入るのは緊張するのだ。全員が、まだ子どもとはいえ、着替えているところへ入ったりなどしたら、洒落にならない。
クロードは男の子の部屋に行こうと、向い側のドアを見た。すると、ドアは少しだけ隙間を作り、そこからいくつもの視線がクロードを見つめてにやにやと顔を綻ばせていた。
「クロード兄ちゃんがエロいこと考えてるぞー!」
「ばっ、アレックス! 勝手なことを言うな! ……飯だ。早く降りてこい」
「はーい! ふっふふふ」
順番を間違えたな、とクロードは重いため息を吐き出した。幼い子どもたちはその純粋さ故に、こうして最年長であるクロードをたびたびいじる。それがふざけたものであったとしても、クロードは毎回赤面をし、そっぽを向くので、それが面白いに違いない。子どもたちのきゃっきゃという笑い声を素直に喜べずに、クロードは重い足取りで階段を下る。
「クロード君、待って!」
その時、頭上から降ってきた声に、クロードはぴくりと反応する。するとどたどたと階段を駆け下りてきた、一人の少女の姿があった。青い髪を肩の上で切りそろえ、緑の瞳を潤ませて、クロードのすぐ傍までやってきた少女は、嬉しそうに笑みを浮かべていた。
「お、おはよう、クロード君……」
「ああ、おはよう。シェリル」
名前を呼ばれた途端に、シェリルはぴくんと体を揺らした。クロードは首を傾げながら、食堂に行くことを促した。シェリルは慌てて頷くと、小鳥のようにクロードのあとを追いかけていった。
食堂に着くと、マーサがミルクを配っていたので、クロードは駆けて行った。残されたシェリルは少しだけ残念そうに声を漏らしたあとで、いつも自分が座っている席についた。そのあとしばらくして、眠そうに眼をこする子どもたちがぞろぞろと食堂に入ってきたので、全員揃ったのを確かめると、クロードとマーサも席についた。
「じゃあ皆! 手を合わせて!」
マーサの号令で、子どもたちは一様に同じ動作をする。そして全員で一斉に「いただきます」と言った後に、それぞれの目前に置かれたパンやスープ、ミルクにがっついた。その時だった。
地面が大きく揺れた。それは体感できるほどのもので、比較的大きな――地震だった。マーサは急いでクロードに目配せをする。クロードはその意味を理解し、頷いた。
「皆落ち着いて! 机の下に!」
「慌てるな! 落ち着いて、机の下に隠れるんだ!」
騒ぎ出す子どもたちに呼びかけ、泣き出した子どもたちを机の下に入れ、二人も机の下に入った。揺れはしばらく続き、いくつかの食器が砕ける音がした。やがて完全におさまると、クロードはゆっくりと机の下から出て、状況を確認する。食器が倒れて割れていたり、スープやミルクがこぼれていたりすること以外は、特に無事みたいだった。証明が落ちたり、棚が倒れたりしている様子はなかった。感じたよりは、小さな揺れだったようだった。