真っ白なタオル
命素…ヴィレ、と発音
命素術…ヴィラスタ、と発音
終始、無言だった。重苦しい空気はなおも続き、べそをかきながらミネットにしがみついているレイナを、クロードは見ることができなかった。しかし、クロードの心に後悔の念はなかった。自分のやるべきことをやった――その事実だけが、地の命素に蝕まれた体を動かしていた。
やがて村の明かりが見えたころ、入り口で右往左往している影を見つけた。マーサだった。子どもたちの帰りを今か今かと待っている孤児院の母親の姿を見つけて、レイナは走り出した。マーサはそれに気づくと、レイナを見て心底安堵したように笑顔を浮かべ、その小さな体をぎゅっと抱きしめた。
「マーサさあああん! 怖かったの、本当に怖かったの!」
「ああ、レイナ! よく無事で……よかった、本当によかったわ! ……クロード?」
マーサがクロードの名前を呼んだ瞬間、レイナはマーサの腕をすり抜けて、そのまま村の中へ駈け込んで行ってしまった。マーサは驚いたようにレイナが走っていった方を見ていた。
「レイナ……? クロード……あなた血だらけじゃない!」
「……俺は。これは俺の血じゃないんです。魔物の血です……レイナには本当に悪いことをしましたから」
「……そう。あなたのことだから、ちゃんとした理由はあるんでしょうけど……わかったわ。それと、ミネット。ありがとうね。あなたが追いかけていてくれなかったら、どうなっていたかわからないわ」
「いいえ、わたしは何もできませんでした……本当に、何も」
「そんなことないわよ。さ、孤児院に帰りましょ。皆心配してたわよ」
はい、とクロードはやや苦しそうに、ミネットは少し遠慮気味に返事をして、三人は孤児院へ帰っていった。もうとっくに夜の闇も深くなり、家の明かりもぽつぽつと消えかかっていた。そんな中、クロードはずっと下を向いて歩いていた。
孤児院に着くと、明かりはまだ点いていた。一階にも、二階にも、たくさんの光がちかちかと輝いていた。皆、レイナが心配だったのだろう。中に戻ったらしいレイナを迎える明るい笑い声が、木の扉の向こうから聞こえてきた。クロードはドアの前でぴたりと足を止めると、方向を変え、木の下にあったベンチに腰を下ろした。
「クロード?」
「……寝かしてやってください。俺は皆が寝付くまで、ここで待ってますから」
「……そう。あまり無理しちゃ駄目よ?」
「はい。すみません、マーサさん」
マーサはクロードの心情を察して、先に孤児院の中に入っていった。子どもたちの力がまた大きくなり、クロードはそれに押しつぶされそうになっていた。もう固まってしまいそうな魔物の血を無言で見つめながら、ため息を吐いた。
その時、自分の手にそっと、温かいものが重ねられたのを感じて、クロードは顔を上げた。そこにはミネットの綺麗な白い手が、まるでクロードを守るかのように重ねられていた。マーサと共に孤児院に入ったと思っていたミネットは、クロードの隣に腰を下ろして、淡泊だけれど優しげな表情を浮かべ、月を見上げていた。
「無理してるんでしょ? 見てたらわかるよ」
「……レイナがこんなことをする必要はないさ。だったら俺は……」
「クロード、無理してる。もっと周りをよく見て? ね」
「ミネットは……」
血がついた自分の手に、躊躇うことなく手を重ね、体温を伝える少女にクロードは問いかける。
「怖くないのか? 俺のこと」
「そうだね……ちょっと怖いって思ったかも。でも、クロードが一番辛そうな顔してた。だから、怖いのよりもクロードが……心配だった」
「心配? 俺が?」
「うん。とても心配。クロードは、周りを見すぎてて全然見えてないの。もっとゆっくり、眺めるような感じでいいから、一度見てみて。あなたが思っている以上に、周りはあなたのこと、心配してるの」
クロードは俯いた。ミネットの言う言葉の意味がよくわからないにも関わらず、随分と心の奥底に潜り込んでくるような感覚に囚われ、わずかに頭痛を覚えた。ミネットは変わらず月を眺めて、静かに、穏やかに口を開いた。
「ねえ、わたしね。見つけてもらったのがクロードでよかったって思ってる。まだ前のことは思い出せないけど、寂しくないのは、きっとクロードのおかげだもん。毎日がとても楽しかった……もう、行かなきゃいけないけど」
「行く? 行くって、どこに?」
「わたしね、命素術を思い出した時にね、ふと感じたの。呼ばれているような感覚……だから、行かないと。行かないといけないことだけは、わかるの。どこへかはわからないけど……たぶん、あっち」
ミネットは宙で遊んでいた手を伸ばし、方向を指差した。ちょうど、北の方だった。あちらにあるのは首都、そしてさらに北へ行けば別の大陸も考えられる。どちらにせよ、それは曖昧だった。しかしミネットの目は、覚悟に満ち溢れていた。おそらく、誰かが止めたとしても、彼女は行ってしまうだろう。
「だからわたし、明日になったら行くね。今までありがとう、クロード」
ミネットが立ち上がり、やや寂しそうな笑顔を浮かべた。それを止めなければならない気がして、クロードは声をあげる。
「ミネット! 待っ……」
その時、突然大きな音がして、孤児院の扉が開いた。びくりと肩を揺らし、クロードとミネットはそちらを向いた。すると、そこには真っ白なタオルを両腕に抱えているレイナが、目の周りを真っ赤にして立っていた。クロードは目を見開き、ミネットは優しく微笑んだ。
「レイナ……?」
「魔物の血は毒があるって、リックが言ってた! 早く言って欲しかったのに……リックのバカ! クロードお兄ちゃん、動かないで!」
「うわっ、レイナ?!」
レイナはクロードの背後に早歩きで迫ると、タオルを後ろからかぶせて、ごしごしと拭きはじめた。随分と力任せな方法だったが、今のクロードにとっては、その痛みが何よりの救いだった。レイナは鼻水をわずかに啜りながら、クロードの腕の血を拭おうと必死に擦る。
「私だって、わかってるもん……クロードお兄ちゃんは、誰よりも私たちのことを考えてくれてるの。だからあれだって、私を守るためだって、わかってるもん……でも、私だって、お兄ちゃんみたいに皆を守れるようになりたいの。お兄ちゃんに頼ってばかりなのは、嫌だったの!」
「レイナ……」
「私、やっぱり命素術を覚える! それで、お兄ちゃんみたいに正しく使って、皆を守りたいの! いつかお兄ちゃんも、レイナが守ってあげるもん!」
レイナは半ば訴えかけるようにして、クロードに自らの決意を伝えた。クロードは何も言えずに、ただただ俯いて、レイナの施しを受けるほかなかった。そしてしばらくして、今度はたくさんの子どもたちが孤児院からぞろぞろとやってきて、口々に告げた。
おかえり、お兄ちゃん、と。クロードは震える声でただいま、と言うしかできなかった。