睡蓮
睡蓮 一寸木 一二三
幼い頃からの私の数少ない趣味として、まず散歩が挙げられるだろう。ことに近くの公園にある、蓮の花の池が、私のお気に入りだった。古い古い池の美しい蓮の花を見るのもすきだったが、私は水の中の蓮の茎を見るのが一番好きだった。深さを感じさせる透明な水に手を浸すとき、私はいつも微笑んでいたに違いない。そしていつからだろう。
睡蓮の下の少女の存在に気づいたのは。
いつものように散歩をしながら、ふと覗き込んだ先に少女はいた。
細い蓮の茎の束に埋もれるように、首から上だけが見えていた。
恐怖よりもまず、私は少女のあまりの美しさに驚いた。青ざめた白い貌を取り巻くように、つややかな黒髪が揺らめいていた。卵型の輪郭の中に、細く通った鼻筋と、ぽってりとした唇が完璧に配置されている。異国のビスクドールのように端正な、まさに神が創ったとしか思えぬ美貌だった。扇を伏せたような睫の奥の目が見たかった。
こうして、私は彼女に恋をした。しかし彼女は決して私を見てくれることは無かった。
私はその事実に絶望しながらも彼女の元に通い続けた。
愛の言葉は硬質な水面と、絡み合う蓮の茎に邪魔されて届かなかった。手を伸ばしても、予想外に深い水は私から少女を護り続けた。
それでも、少年だった私は諦めなかった。いつの間にか私は蓮を見ることも忘れて少女ばかりを追っていた。不思議なことに、私以外の誰も彼女に気づいてはいないようだった。まるで魔法だ。
蓮池の水を調整するポンプをいじって怒られたこともある。勇気を出して水の中に入ろうとすると、公園の管理人が鬼のような顔で走ってきたので、必死で走って逃げた。
春は、水中から頭をもたげる新芽と新しい葉の間に彼女を見つめた。夏には水底にも容赦なく差し込んでいる日差しに彼女が苦しまないように、蓮の葉を彼女に差しかけた。傍らに咲く朧に白い花はいかちも彼女に相応しかった。秋には朽ちていく葉が彼女を隠してしまわないように取り除けた。冬は、池が氷に閉ざされて、彼女の姿を見ることができなかった
そんなことを何度も繰り返して、何年もの時が過ぎて、いつしか大人になった私は諦めた。蓮池の少女を忘れて、現実に生きようと思った。最後に一度だけ彼女に会おうと思ったが、そうすればますます彼女を忘れられなくなることを私は知っていた。それからは散歩もやめてしまった。
そして私は現実の女性と交際を始めた。手当たり次第に何人も。しかしどんな女性の感触も、私に彼女を忘れさせてはくれなかった。生身の肌は私には火傷するほど熱く、その匂いに嘔吐すら覚えた。彼女を思うだけの苦しみに夜中に町中を走り回ったこともある。
どうしても彼女を忘れることはできなかった。
悩んだ末、私はある夜あの池に行ってみた。涼しい夜の空気が肺に心地よかった。
蓮池は確かにそこにあった。
しかし、私の知っている蓮池ではなかった。
たくさんの蓮たちは、水から引き離されて、ぐったりとしていた。
満々と水をたたえていた池は無残にも干上がり、数人の男たちが水底を歩き回っていた。私はそのうちの一人を捕まえて、何故こんなことになっているのかたずねた。驚愕の表情すら浮かべられない私の顔は、醜い能面のようだったろう。男は、この公園が無くなることと、池が埋め立てられることを教えてくれた
男に礼を述べた後、私は少女がいた辺りを目指した。何年もの間通いつめた道だった。
私は干上がった池を覗き込んだ。無数の茎が折り重なって倒れている中に、彼女の姿を探したが、あの美貌はどこにも見当たらず、私はひざを抱えて、子供のようにうずくまった。
涙でぼやける視界に、ふと黒いものが映った。
予感がした
私は池の中に飛び込んだ。か弱い茎を掻き分けながら、私は彼女を探し、そして
ついに見つけた。
注意しようとやってきた男が息を呑むのが分かった。私はゆっくりと彼女を持ち上げた。
ふとその瞬間、私は確かに見た。蓮池は昔のように豊かに水を湛え、白い蓮の花は青白い月明かりを跳ね返し、優しい光を放っている。
水の中で、私は彼女を抱きしめていた。彼女も、私も微笑んでいた。彼女の目は黒曜石のような色をしていた。私は歓喜すると同時に言いようの無い悲しみにつつまれていた。この世では決して手に入らない幸せだということを、私は誰よりもよく知っていた。
瞬きの瞬間に消えてしまったが、私は確かに幻の極楽を見たと思った。幻でしかありえない美しい世界だった。
私は嗚咽しながらオレンジ色の街灯に照らし出された彼女に指を滑らせた。暗い眼窩から、彼女は確かに私を見てくれた気がした。
男が人を呼び、何人もの人間が集まってきたが、私は彼女から目を離すことができなかった。
白い肉の落ちきった頬を縁取るように、長い髪が私の手にも絡みつく。つるつるとした表面にまとわり付くきれっぱしを取ってやりながら、私はほかの部分も探してあげなければいけないと思った。
誰かの悲鳴がする。