02
柚が行き倒れを拾って半月ほどが過ぎた。
当初は命も危ぶまれた男の傷は順調に癒え、柚に対する警戒心もいつしか薄れたようで、この頃には男も時折気安い笑顔を見せるようになっていた。
柚は男よりは二三は年上だろうか。大柄なたくましい体つきだったが、よく見れば愛くるしい顔立ちで、大きな黒目がちの目が印象的な女であった。柚が男を好ましく思ったと同様、男も柚には好感を抱いたものらしい。拾った当座からきれいな顔立ちだとは思っていたが、険が取れたその笑顔には、柚の心もざわめくほどだった。
すっかり男が元気になったある日、これの前に、柚はいくつかの品を並べた。ぼろに包まれた小さな壺や巾着の類である。
「おまえのものやろ」
と柚が言った。
「わしの……?」
「船の中にお前と一緒にあったのや。おまえのもので間違いないわ」
中を見てみろ、という柚の言葉に促され、男はそれぞれの包を解き、壺の蓋を開けた。
ぼろと油紙に包まれた壺の中身は何やら甘い匂いのする油、包みにはこれもまたしっかりと油紙に包んだいくつかの蛤の容れ物、小さな梳き櫛や黒い糸が入っていた。
「……なんやこれ……」
男は面食らったように呟いた。そこらの男の持ち物にしては、奇異な品々ではあった。
「それから、これ」
と、柚が短刀を差し出した。
柄を葛で巻いた山刀である。鞘を払うと、現れた刀身もまた、そこらでは見かけぬ諸刃であった。よく鍛えられた鋼の鈍い光が、柚の目にも入った。
男はしばらくその刀に見入っていたが、やがてかすかに息を吐くとそれを再び鞘に納めた。
「これも……」
続けて押しやってきたものを見れば、いくつかの指貫のようなものである。よく見ると、そこには先の黒糸と思しきものが巻き取ってあった。
「これは……?」
「みんなおまえのや。その指貫はおまえの指に嵌っとった。それが何かは、おれにはわからん……」
「……」
男は指貫をひとつ取り上げまじまじと見つめたが、それが何かを思い出すことは、やはりできなかったらしい。男は再びため息をついた。
「きっと大事なもんなんやろ……。持っとけ」
柚はそう言い、いっそうそれを男へと押しやった。それから
「相変わらず自分のことも思い出せんのか……?」
と訊ねた。
男は苦く笑った。どこか自分に呆れている風情であった。
「……そやけど、名前もないでは不便やろ……」
柚が遠慮がちに続けた。
「何でも、好きなように呼んでくれたらええ」
男が奇妙な笑顔のまま答えると、柚が上目遣いに言った。
「そんなら、葉蔵でええか……?」
男が顔を上げ、笑った。今度はさっぱりとした笑顔であった。何も聞かず、
「葉蔵か。わかった」
と答えた。
その翌日。所用を済ませた柚が小屋へと帰ると、何やらぼろ屋が違って見えた。
一体どうしたのか──と目を見張ったが、理由はすぐに知れた。
穴が開いたままの壁や、崩れかけた屋根が小奇麗に修繕されていた。崩れかけの掘っ立て小屋に、赤の他人が頼まれもしないのに手をかけるはずもない。
「葉蔵」
と、柚は内を覗いて声をかけた。が、姿がない。
裏手に廻ると、葉蔵はそこにいた。
足元に咲くのは数輪の白い花。その中にぼんやりと突っ立っていた。
葉蔵は、小屋の裏手に白い花があることは知っていた。
動けるようになった頃、この花の蕾をすでに目にしていた。だが、今これが咲いているのを見た時、なんとも言えない感情が心に湧いてきたのだ。
「…………」
葉蔵は顔をしかめた。この花のことは知っている。死人の血を吸って咲く花だ──だが、この花の色は──。
「葉蔵」
と、柚が声をかけた。葉蔵は振り返った。
「きれいな花やろ。これは天上に咲く花やそうや」
「天上……? 死人花と違うのか」
「真っ白やろ。これはあれとは違う、ありがたい花なんやで……」
恍惚とした表情すら浮かべて柚はそう言いかけたが、何かに気付いたような表情になると、口早に続けた。
「おまえ、これには触らなんだろうな。これには毒があるんや」
「天上に咲く花が毒の花か?」
皮肉っぽく笑いながら葉蔵が応えたが、柚は存外に真面目な顔つきで、
「この世は苦界やからな」
と言い、小さく続けた。
「そう、父親が言うとった……」
「…………」
「ようけ咲いとるところを知っとる。見に行くか?」
気を取り直したように、明るい声で柚が言った。
「村の者も、この花のことは嫌うて近づかん。おれだけの大事な場所や」
正直なところ葉蔵も好きでもない──むしろ厭わしいその花の群生を見たいわけもなかったが、せっかく柚が「自分だけの場所」を教えてくれるというので頷いた。
柚が案内した場所は山腹の日だまりであった。湧き水でもあるのだろうか、辺りは湿地になっているらしい。
一面の白い花が、目に眩しく、まばゆく光っていた。なるほど天上はかくや……と、葉蔵ですら考えてしまうほど、その光景は美しかった。
「どうや、きれいやろ。この世の憂さなど全部忘れてしまうやろうが」
振り返りそう言った柚の笑顔は、言葉の通り何の翳りもない晴れやかなものであった。
葉蔵はあらためてこの花を見た。繊細な弧を描く花弁、細く長く伸びた蕊……天上に咲くという白い花は、たしかに忌むべきあの赤い花と同じ形をしていた。
「裏手の花はここから持って来たのか」
「父親がな」
ほんのわずかな沈黙のあと、そう答えた柚の表情には、なぜか奇妙な憚りがあった。
「おまえの父親は、薬師か何かか」
重ねて訊ねる。
「いや。父親は病人やった」
今度の答えは早かった。
「病人がこの花に触れて平気やったのか。毒の花やと言うとったやろう」
「……それは」
柚は再び奇妙に表情を歪めて笑うと言い淀んだ。それから気分を変えるようにさっぱりと笑い、
「ええやろ、もう、父親のことは」
と言った。
「……毒は用いようで薬にもなる……」
ひとりごちるように葉蔵が呟いたのを、柚が聞き咎めた。
「何や? おまえこそ、薬師か何かか」
「さてな。もしそうやったとしても、今のわしでは何の役にも立たんわ。何も覚えてないではな」
今度は葉蔵が笑い、柚の表情がすまなそうに変わった。
「そんな顔をするな。この花畑にはふさわしゅうなかろうが」
そう言うと、柚も笑った。
──毒は用いようで薬にもなる──
柚の子供のような笑顔を見ながら、葉蔵は先のおのれの呟きを胸の中で反芻していた。
あれは誰の言葉だっただろう。自分か、あるいは近しい誰かか。どうしてあの言葉を思い出したのだろう。
自分のことなど、何ひとつ覚えていないはずなのに──。