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01


「あっ……、は……っ」

 途切れ途切れの、呻吟とも嬌声ともつかぬ声が小屋に満ちている。

 筵の上で若い男が組み敷いているのは、男よりはもう少し若い娘であった。大柄な身体には不釣合いなほどに白い肌は肌理も細かく、上気し、薄紅に染まっている。

「おまえもほんまに変わっとるな……。見ず知らずの行き倒れを助けるために、こないなこともするのか」

 男がそう言うと、娘は目を開け、焦点の定まらぬ目で傍らを見やった。

「そやかて……」

 と、うつけたような声が応える。

「おれが行き倒れを助けたら……、そしたら葉蔵かて……。行き倒れても、誰かに助けて貰えるやろ……」

 囲炉裏の向こう、娘の視線の先には、これよりもなお若い男の姿があった。

 まだ少年とも呼ぶべき年頃の男である。同じく筵に寝かされたこれは額に汗を滲ませ、固く目を閉じ荒い息をついていた。

「まあええ……。わしかて人でなしとは違うからな。あれが助かるかどうかはわからんが、できる限りのことはしたろうやないか……」

 男はなぜか奇妙に表情を歪めるとそう言い、再び激しく娘を揺さぶりはじめた。


 男が去った後。

 娘はしばらく体を投げ出したままぼんやりとしていたが、やがて汗が浮いたままの肌に垢じみた単衣を羽織ると、奥に寝かせた若い男を覗き込んだ。しばらく痛ましげにその顔を見つめていたが、やがて額に浮かんだ汗を袂でそっとぬぐってやると、娘は欠けた碗に汲んだ薬湯を少しずつ男の口に流し入れた。

 娘の住むあばら家は村はずれにあった。雑木林を抜けた、川べりの僅かな土地にへばりついた掘っ立て小屋。崩れかけ、穴のあいた壁には藁が突っ込まれ、土間には敷き伸べられた筵の他、雑多な器や籠が片隅に転がっている。それらのいずれもが欠け、あるいは色褪せて毛羽立った、粗末なものであった。

 この若い男を見つけたのは三日前。ひどい嵐の後で、娘は何か拾いものでもないかと出かけたのだが、見つけたのはこの行き倒れだったという次第である。これは程近くの河原で、茂った葦に隠れるように乗り上げた小船の中に倒れていた。

 ずたずたに切り裂かれた野良着は雨に洗われてなお血痕をとどめ、その体はすっかり冷たくなっていた。最初は死人かと腰を抜かしそうになったが、よくよく確かめると息がまだあり、娘はこれを引きずるようにしてねぐらへと連れ帰ったのである。

 筵の上で着物を脱がせ、改めて見た男の傷の様子はひどいものであった。娘はいまやボロ同然の行き倒れの着物を裂き、包帯代わりにそれの全身に巻きつけた。膾のように刻まれた刀傷を見ているとなぜか涙が滲んできたが、薬も何も持たぬ身ではそれ以上になすすべもない……。冷えきった体は、おのれの肌で一晩中温めてやった。

 先の男がたまさか訪ねてきたのはその翌朝である。これは甚助といい、村の顔役の倅であったので、娘はいくばくかの薬草や食べ物をねだり、この男に身を任せた。男の先の物言いはこれが故であった。

 助かるか否かは五分と五分……それは娘にもわかっていた。

 そうしてまた五日ほど経った後、いつものようにやって来た甚助は、戸口代わりの筵を潜ろうとしたとき、見慣れぬ若い男が塞ぐようにしてそこに立っているのに気がついた。

「お……」

 甚助は一瞬のけぞるようになり間抜けた声を上げたが、すぐにそれが行き倒れと気づき、愛想よく

「何や……ちょっとの間に、えろう元気になったもんやな。どないや、具合は」

 と声をかけた。

「おかげさんでもう大丈夫や」

 言葉は如才ないが、無愛想な声音である。長く寝ついていたせいか、ひどく乱れたままの長い髪を束ねもせず、俯いた額に落ちかかる前髪を透かすようにして甚助を見たその目の色も、ひどく剣呑なものであった。

「そやからもう、わざわざ来て貰わんでもええからな」

 甚助は眉をひそめ、一瞬怯えと不快さを露わにしたが、すぐに気を取り直したか、再び笑顔を作った。

「それは何よりや。そやかてまだ、治りきってはおらんやろう? ゆうはどないした?」

「おらん。娘に用事なら、出直して来てくれ」

「…………」

 にべもない口ぶりに、今度こそ甚助も黙った。甚助はそのまま踵を返すと、来た道を戻りはじめた。

「甚助やないか……? どないしたのや、こんなとこで。うちに寄ってくれたのか……?」

 林の中で馴染んだ声に呼び止められ、振り返った甚助はいきなり噛みつくように言った。

「何やあれは? けったくその悪い」

「え……」

 対する娘──柚は甚助の怒りの理由がわからず、呆けたような表情になった。

「あの死に損ないや。あやつ、命の恩人に向こうて『もう来るな』やと……」

「……あれが……? 目が覚めとったのか……?」

「 目が覚めとるどころか、戸口でわしを塞ぐようにして睨みつけてきおったぞ」

「ご……ごめん、甚助」

 柚は慌てて言った。

「あれは今まで正気がなかったから、おまえが助けてくれたことにも気づいとらんのや。おれがよう言うとくから、気い悪うせんといて、な?」

「…………」

「ほんまに何くれとありがと。あれが死なずにすんだんも、みんなおまえのおかげや。ほんまにありがとう思うてる……ちゃんと、よう言うとくから……」

 とりなすようにそう言いながら、柚はどこか急いているように見えた。

「……まあ、別に、礼などええが……」

 柚に何度も頭を下げながらそう言われ、もごもごと甚助も応えた。

「ほんまにごめんな……! 堪忍したってな」

 最後にもう一度頭を下げそう言うと、柚は小屋へと急いだ。


 小屋では男がぼんやりと土間に座り込んでいた。

「何をしとるのや! まだ寝とらなあかんやないか……!」

 言いながら近づき、その顔を覗き込む。眉を寄せ、額にはびっしりと脂汗が浮いている。

 男が柚を見た。

「誰や、おまえは……ここはどこや」

 男の表情は固く、気怠げな、かすれた声にも険がある。だが柚は気遣うように優しい表情を作り、答えた。

「おれは柚や。おまえは七日ほども前に、この先で行き倒れとったのやで。ここはおれの家や……」

 言いながら柚は男に手を差しのべ、横になるのを手助けた。男はこれを振り払ったりはせずおとなしく従ったが、どこぞかが痛むのか、動くたびにかすかに表情を歪めた。

「さっきのは誰や……」

 筵に横になったあと、再び男が訊ねた。

「あれは甚助というて、村のもんや。おまえを助けてくれたのや」

「…………」

 男は今度は応えず目を閉じた。眉根を寄せ荒い息をつき、口をきくのも億劫な様子である。

 柚はふう……っ、と、小さく息をつくと、

「粥でも作ったろう。甚助が何くれと持ってきてくれたからな」

 と言った。眼差しはその声と同じく、温かかった。

 囲炉裏で温めた粥を少しずつくくませてやりながら、柚が訊ねた。

「おまえ、名前は? どっから来たのや?」

 途端に、男の表情が頼りなく揺らいだ。だが手元に集中していた柚は気づかなかったようだ。

「えらい大怪我をしとったが……北の方で戦があったと聞いたが、おまえ、もしかして戦場から逃げてきたのか……?」

「……わしは……」

 短くない時間の後、男はうめくように言った。

「わからん……何も……」

「…………」

 柚は手を休め、まじまじと怪我人を見つめた。



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