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酔った勢いで買った少年奴隷は、元暗殺者でした。子供だと思って全力で甘やかしていたら、私にだけ執着する青年に育っていました

作者: 圧間 れぇ
掲載日:2026/10/26

その日私は、宮廷調合官として働いていた職場を、よく分からない濡れ衣を着せられてクビになった。


どうも、今まで私が手がけてきた新薬の開発は全て同僚がやったことにされていて、上司や他部署の人達からは無能扱いされていた────らしい。 『らしい』というのは、解雇宣告の時に初めて聞かされたのだ。研究に没頭していた私は、それまでの研究結果を同僚の手柄にされていたことも、薬学省のお荷物と呼ばれていたことも何も知らなかった。今思えば、それなりに貢献していたつもりだったのに、入省してから2年半、お給金が全く上がらなかったのは不思議だったのだ。だって同僚たちは遊んでばかりに見えるのに、どんどん昇給や報奨金を得ていたのだから。


まぁ、そんなこんなで私は腹が立ったので、退職金をその場で請求して新たに開発中の薬の研究資料を持ってそのまま研究所のドアを蹴破って辞めてやった。


研究所を出て十歩も歩いた頃には、不思議と胸がすっきりしていた。研究なんてどこでもできる。むしろ雑用を押しつけられない分、これからはもっと捗るかもしれない。

そう思ったら、お腹がグルルと鳴った。


よし、今日は自分で自分の退職祝いをしよう。


今まで忙しすぎて、呑んだことのないお酒をギルドの食堂で注文すると、なんだか色の黒いエールが出てきた。どうやら度数によって色の濃さが変わるらしい。私はそれを3杯呑んだ。

うん、ここまでは覚えている。


その後、なんだか気分が高揚してふらふらと歌いながら店を後にした。外は夜の帳が下りていた。


後はまっすぐに家路につけばシャワーを浴びて寝るだけだ。 なのに、初めてのお酒に慣れず、縺れた足は普段通らない路地裏に向かっていた。吸い寄せられるように奥へ歩いていくと、蔦の巻き付いた漆喰の建物から、何やらこの場には似つかわしくない貴族然とした男が出てきた。その後ろには、黒っぽい少し大きめの犬の様な何かが首に鎖を繋がれた状態で引きずられている。

うんうん、ここまでも覚えている。


それから────なんかそれを見てると、さっきまで研究所でこき使われていた自分を見ているような気持ちになって、気分が悪くなった。

そう、気分が悪くなって⋯⋯⋯なんだっけ?






で、今。


私は、住み慣れたアパルトマンのベッドで目が覚めた。頭がぐわんぐわん痛くて、ひたすら気持ち悪い。水、水が欲しい。

と、こめかみをもみながら手探りで水差しを探していると、その手で何かモサモサしたものを掴んだ。


(────え?)


ゆっくりと目を上げてその感触の方向に視線を向けると、そこには、私が寝ていたベッドの側に正座で上半身裸の男の子?が伏し目がちに座っていた。


モサモサはこの子の髪の毛で、いつから洗っていないのか、ベタついたその髪は肩まで雑に伸びていて本来の髪色が何なのかもわからない程に汚れている。


「ひぁっ、あ、あの、あなた、誰?」


思わず告げた私に、男の子はブルーパープルの瞳を戸惑うように見開いた。


「⋯⋯⋯っ」


えーっと。そらそうよね。おそらく、私が連れてきたんだろうことはなんとなく察せる。でもどうやって?

ゆ、誘拐⋯⋯じゃないわよね? どう考えても私より5~6歳は年下であろう少年が上半身裸で正座をしているのだ。って、なんで上半身裸なのよ!

私が命じたのかな?え?酔っ払って拾ってきて?ええ? 私が寝ている間ここで起きて、上を脱いで正座してろとか言ったの?は? 私の酒癖────っ!!


流石に自分の酒癖はわからない。なにせ初めて呑んだお酒で記憶を失う程には加減がわからない。



伏し目がちの少年の頭から、とりあえず手を離す。


「えっと、ごめんね、ちょっと覚えてなくて⋯⋯。私、どうやってあなたをここまで連れてきたのかな?」


申し訳なさでいっぱいで、怯えさせないように優しく問う。


「⋯っ、あ、あのっ。昨日はっ、そのっ、僕を買ってくださって」


「ん?」


「えっと、こういう時なんて言えばいいのか⋯⋯」

「ぼ、僕をお買い上げ頂き、ありがとうございます」


「んんん???」


なんだか不穏な単語が出てきたわ? 買う? 買った? 少年を、私が??


「ちょちょちょっ、ちょっと待って! 」


慌てて鞄を漁る。 研究資料と、あと、なあにコレ?


「奴隷売買⋯⋯契約書⋯⋯」


うえぇぇぇぇえええええ!?!?!?


退職金の小切手⋯⋯ないないないっ!!!


え、全額使って、この少年を、私が買ったの!?


「ご、ごめんなさい!!私、お酒呑んでてっ! その、覚えてないの!」


「⋯⋯はっ、で、ですよね」


「っあ、それに退職金全部使ってあなたを買ったみたいで────、仕事も辞めちゃって⋯⋯というかクビになったっていうか⋯⋯」


「⋯⋯⋯」


「あー⋯⋯、少しならあるから⋯っ、これ持ってお家に帰りなさい?」


私はキャビネットの奥に入れていた銀貨25枚を、少年の手を開いて渡した。

少年は、眉尻を垂らして瞳を伏せた。



「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯」



────────あ。


しまった、失言だ。


この少年は、奴隷なんだ。 帰れる家なんてない。

ああ、もう⋯⋯⋯⋯。とにかく、反省することは多々あるけど、これだけはわかる。


この子に、こんな顔をさせちゃ駄目だわ。


「えーっと、あなたの名前を、教えてくれないかな?」


びくっと肩を震わせると、すごすごと顔を上げた。


「な、名前は⋯⋯⋯⋯、前のご主人様が⋯⋯⋯ヴェルブと呼んでまし⋯⋯た」


(ヴェルブ────虫⋯⋯⋯⋯!?)


「あ、あの⋯⋯⋯⋯お気に召さなければ、ご主人様の好きにお呼びください。前のご主人様は、要らなくなったものはすぐに処分される方でしたので⋯⋯⋯その⋯」


「⋯⋯⋯⋯僕は、まだ、要りますか?」


「────────っ」


(処分って⋯⋯⋯⋯捨てられちゃうってこと?)


「いる!要るに決まってるでしょ!」


「あっ!えっと、ごめん。じゃあ名前のことは後で一緒に考えよう!まずは⋯⋯⋯⋯、お風呂ね」


「え?ご主人、さま?お風呂なんてそんな」


「あーやだやだ、やめて。堅苦しいわよ。私の名前はエルナシア・ジェストン。エルナシアでも、エルでも、呼びたいように呼んでね」


「⋯⋯⋯⋯える⋯⋯⋯⋯さま⋯⋯⋯⋯」


「ふふっ。様もいらないけど、今はそれでいいわ。じゃあ、タオルと着替えを用意するわね。いい?ちゃんと湯船に浸かるのよ」


そう言ってシェルフからタオルと、比較的シンプルなブラウスを少年に渡すと、何故か目を見開いて戸惑っている表情を見せた。


そりゃ、戸惑うわよね。でも、まずはこの子をお風呂に入れなきゃいけないのよ。だって、どれくらい洗ってないのか分からないくらい肌は黒ずんでいて、髪なんて一塊になってるんだもの。履いているズボンも生地がすり減って地肌が透けて見えそうだ。いくら子供とは言え、さすがに目のやり場に困る。


そのまま少年の背を優しく押してお風呂場まで案内し、魔石でお湯を沸かす。そしてシャワーの使い方を教えた。

私が作ったハーブ入りの石鹸を渡して、身体と頭の汚れが落ちるまで何度も洗うことを約束させてから私はお風呂場を後にした。



「さて。その間に朝食の準備をしなきゃ」




備え付けのキッチンの竈に火を付け、フライパンをしっかりと熱する。そこにバターを入れてじゅわっと溶けたら分厚く切ったパンを入れる。


「ん。いい匂い。パンは焼いてからバターを塗るより、バターで焼くほうがじゅわっとして美味しいのよね」


両面焼けたらお皿に乗せて、よく熟した甘いフルーツとちぎったクリームチーズ、窓辺で育てているハーブを和えてバタートーストの上に乗せる。最後にメイプルシロップをかけて⋯⋯⋯⋯完成!



「あのっ、お、お風呂ありがとうございますっ」


「ああ、丁度よかった。朝食の用意────────」


振り返ると、まぁ何ということでしょう。

白い肌に、朝の光に透けるミルクベージュの肩まで伸びた髪。同じ色味の長い睫毛に血色の良くなった薄い唇。 控えめに言って、美・少・年。


「可愛いわね。うん。今初めて会ったなら、きっと女の子と間違えていたでしょうね。うふふ」


一人で納得しつつ、やはり気になるのはブラウスから伸びた細い手足だ。 細すぎる。 なんにしてもまずは食べさせないと。


「とにかく座って。とっておきの贅沢スペシャルトーストと、こっちも、ハーブ入りのミルクスープよ。さあ、食べましょう」


「え、あのっ、ご主人様と同じテーブルに着くわけには⋯⋯⋯」

「はい、気にしない。 それと、エルでしょう?ご主人様なんて思わないで。ただの同居人、エルよ」


「⋯⋯⋯同居⋯⋯人⋯⋯⋯」


「そ。今日から一緒にここで暮らすの。うーん、そうねぇ。私のことは、姉だとでも思えばいいわ」

「そ、そんなっ」

「ふふ、いきなり姉だなんて思えないわよね。でも少しずつ、家族になっていきましょう」

「⋯⋯⋯⋯か、ぞく」


「さあ、まずは腹ごなし。どちらも胃腸の働きを促して、免疫力も上げるハーブが入ってるのよ」


まだ少し戸惑っている様に目を泳がせる少年は、スプーンを持ってスープを一匙口に運ぶ。


「⋯⋯⋯⋯────!」


(美味しいのね。ふふ、食後にリラックス効果のあるカモミールティーを淹れてあげよう)


食後のお茶を飲むと、少年はうとうとと船を漕ぎ始めた。

昨夜は私の隣でずっと起きていたみたいだからね。強制的に眠気を促したのだ。


「ベッドに行こ?寝室まで歩ける?」

「⋯⋯⋯そんな⋯寝るわけには⋯⋯⋯⋯」

「はいはい。子供は寝るのが仕事よ。たっぷり寝てね」


なんとか目を開けようとする少年を、無理やりベッドに連れて行って布団を被せると、とうとう抗えなくなったのか規則正しい寝息が聞こえてきた。


少年が寝ている間に買い出しに行って、彼の服と下着に食料品や日用品を買って戻ってきたのは夕方になった。


寝ていると思っていた少年は、酷く狼狽えたように部屋の真ん中で立ち竦んでいた。


「ただいま。起きてたの? よく眠れたかしら。今すぐ夕飯の支度するわね」


「────────っ、よかった⋯⋯僕を、置いて、何処かへ行ったのかと⋯⋯⋯⋯」


「うん?遅くなっちゃってごめんなさい。実はあなたの服を買ってきたのよ。ほら、いつまでも私のブラウス着てるわけにもいかないもの。あとは歯ブラシとか、コップとかね。つい買いすぎちゃったわ。ふふっ」


「⋯⋯⋯⋯、」


俯いてブラウスの裾をギュッと握りしめる少年の表情は、なにかに怯えているようにも見える。 この子を不安にさせてしまったんだ。


こういう時、どうすればいいのか。 どうしたら怯えるこの少年を安心させてあげられるのか。


(あ、そうだ)


「ね、あなたに名前をつける約束をしたよね」


「っ、はい」


「そうだなぁ⋯⋯⋯私の『エルナシア』からシアをあげる」


「シア、⋯⋯シュリア、ってどうかな?」


「シュリア」


「ええ。シュリア、これからもずっと一緒よ」


そう言うと、シュリアの頬がぽわっと赤くなって、何度も名前を呟いた。


「シュリア、僕は、シュリア。⋯⋯⋯エル様っ、ありがとうございます!」


うーん、可愛い。耳まで赤いよ。名前まで分けっこして、本当に姉弟みたいだわっ。


「ああっ、シュリア、シュリアぁぁっ」


思わずぎゅううと抱きしめると、初めはあわあわ戸惑っていたシュリアが、おずおずと私の背中に腕を回した。とっても控えめに。


「もう、ほんっとに可愛いんだから!」


ほっぺをスリスリ私の頬で擦り上げると、シュリアの肩がビクンと跳ね上がった。 いけない。いきなり距離を詰めすぎたわ。緊張するよね、昨日会ったばかりなんだもの。これからゆっくりと距離を縮めればいいわ。


「そうだ、シュリアっていくつ?」

「⋯⋯分かりません。数えたことがないので」


数えたことがない。その一言が、ちくりと胸に刺さった。


「じゃあ、15歳ってことにしましょ! 誕生日は今日。名前と一緒に、今日がシュリアの生まれた日よ」

「⋯⋯僕の、誕生日」


シュリアは、宝物でも受け取ったみたいに、その言葉を小さく繰り返した。


「さあ、夕飯作るから手伝ってくれる?」

「はいっ、勿論です」



こうしてシュリアとの生活が始まった。






────数日後。



そろそろ仕事を探さないといけない。

シュリアは食べ盛りだもの。もっと美味しいものを沢山食べさせてあげなきゃ。それに今は同じベッドで寝ているけど、いつまでも狭いベッドに二人というわけにもいかない。 とにかく、早く稼がなきゃ。


私が身支度をしていると、シュリアが気になったようで、そわそわとこちらを見ている。


「えっ、エル様っ。僕も一緒に付いていきます」


「え?」


そう言えば、シュリアがうちに来てからまだ一度も外へ行っていない。自由に外へ出て遊んできてもいいと言っても、何故か私の側から離れないのだ。

シュリアは料理を覚えたいなんて可愛いことを言い出したので、簡単なレシピを書いてあげると卵を焼いたり、ハーブを摘んでサラダを作ってくれたりするようになった。


(でも、そっか⋯⋯⋯。奴隷になっていた時の話は、シュリアが話したいと思った時に話してくれたら良いと思ってたけど、きっと外に出るのも辛いのかもしれない。それでも私と一緒なら、出たいと思うようになったのだとしたら⋯⋯⋯⋯)


「うん!そうね。一緒に行きましょう。町に出てお買い物の練習もしたいわね」


「! エル様と一緒に、お出かけ⋯⋯⋯っ!」


シュリアはキラキラの笑顔で私を上目遣いで見てくる。


(こ、これは、眩しいわ)


整った美少年が無防備にキラキラを放つ様は、目が潰れるかと思うくらいに眩しい。






✤✤✤


ギルドまでの道のりを、シュリアは私の一歩後ろをぴったりと付いて歩いた。


「シュリア、後ろじゃなくて隣を歩いていいのよ?」

「はい。⋯⋯僕はここで⋯⋯⋯エル様を害する者から守ります」


後半上手く聞き取れなかったけど、はいと言ってるのに半歩しか距離を詰めてこない。きっと私の後ろ姿を見ることで迷子にならないように気をつけてくれているのね。えらいわ。

それにしても、石畳を歩いているのに、シュリアの足音はちっとも聞こえない。軽いのね。もっと食べさせなきゃ。


すれ違う人たちが、ちらちらシュリアを振り返っていく。分かるわ。うちの子、可愛いもの。将来は美丈夫間違いなしだわ。




ギルドの扉をくぐると、昼間だというのに、お酒と焼いたお肉の匂いがした。受付の奥は食堂になっていて、冒険者たちがジョッキやフォークを片手に賑やかにしている。一人で来るにはちょっと勇気がいる場所よね。酔っ払いに絡まれないように、シュリアの腕を取って私の隣に誘導した。


「すみません、お仕事を探しているんですけど」


カウンターの向こうで帳簿をめくっていた髭面の男性が顔を上げて、それから眉を上げた。


「おう、いらっしゃい。⋯⋯ん? あんた、この前の。黒エールを3杯空けて、歌いながら帰ってった姉ちゃんじゃねぇか」

「わわわ、忘れてください⋯⋯!」


むしろ私の方が記憶をなくしてシュリアを買っちゃったのよね。ああ、穴があったら入りたい。隣のシュリアの視線が痛い。


「えっと、私、調合師なんです。薬局に薬を納めるお仕事があればと思って。これ、見本です」


鞄から小瓶を取り出して、カウンターに置く。


「これは虫よけの香油です。肌に塗っておくと、蚊もノミも寄ってこないんですよ。虫が運んでくる病気って実はすごく多くて、刺されなければ病気にならずに済むことも────」

「虫よけぇ? 病気になってから飲む薬じゃなくてか?」

「なってからじゃなくて、なる前に防ぐんです!」


受付の男性は、分かったような分からないような顔で小瓶をつまみ上げた。

そう。これが私が薬学省を辞める直前まで一人で進めていた『予防薬』という研究だ。この世界では未だに、怪我はしてから対処する。病気はかかってから薬を飲む。という価値観が根付いている。

でも、ふと気づいたのだ。病気になってから対処するより、普段から病気になりにくくしていればいいんじゃない?と。怪我をしにくくなる薬、虫に刺されない薬、事前に対策をすれば大きな怪我や病気にかかることもないのでは。そう思って薬学省を辞めてから出来た時間をまずは虫よけの香油づくりに使った。


「とにかく!この香油があればですねっ────」


その時だった。ぶうん、と大きな羽虫が一匹、私の顔の前を横切った。


「きゃっ」


突然聞こえた羽音に、思わず身を引く。すると、次の瞬間。

ひゅっ、と耳元で風が鳴って、羽虫が消えた。


────違う。カウンター横の柱に、食堂のフォークが突き立っている。その先で、さっきの羽虫が綺麗に縫い止められていた。


さっきまでざわついていた私達の周囲にいる人達が、しん、と静まり返った。


「⋯⋯エル様は、虫がお嫌いですか?」


振り向くと、シュリアがいつもの伏し目がちな顔で、私を見上げていた。


「ご命令いただければ、邪魔な虫はすべて駆除します」


盆を持った給仕が、盆の上のカトラリーと柱のフォークを交互に見ている。⋯⋯⋯⋯えっ、今のってシュリアが?


(凄い手品みたいな特技だわ)


驚いて目を瞬かせる私を、シュリアは首を傾げて不思議そうに見上げている。


「凄いわ!ありがとうシュリア。私を虫から守ってくれたのね」


私は思わずシュリアの頭を撫でた。でも、これだけは言っておかないと。


「でもね、フォークは投げるものじゃなくて、食べる時に使うものよ」

「⋯⋯はい」


素直に頷くシュリアの向こうで、食堂の冒険者たちが、なぜか一斉にジョッキを置いていた。


「⋯⋯なあ、姉ちゃん」


受付の男性が、柱のフォークと、手の中の小瓶を見比べる。


「その⋯⋯虫よけ、要らなくねぇか?」

「要ります!」




────結局、下町の薬局が傷薬の品不足に困っているらしく、まずはそこを紹介してもらえることになった。虫よけの香油も、ひとまずその薬局に置いてもらえるらしい。うん、上出来だわ。


(それにしても、傷薬が品不足、ねぇ⋯⋯⋯⋯)


私が薬学省に勤めていた時には、新人の仕事としてまず傷薬を大量に作る。その中で、軽い傷用の薬から中級、上級の傷薬まで作れるようになれば昇給し、最終的に開発まで出来るようになると、一端の研究者として認められるのだ。

私は入省当時には既に上級傷薬が作れたので昇給するかと思いきや、ずっと初任給のままだった。 今思えばその頃から同僚や先輩に成果を奪われていたのね。

まぁ、今となってはどうでもいいことだわ。困っている人がいるなら、作らなきゃね。


「あの、エル様」


あれこれ考え事をしている帰り道、シュリアが私の袖を、ちょん、と引いた。


「僕にも、何か仕事をください」

「だーめ。子供は遊ぶのが仕事よ」

「⋯⋯遊ぶ、とは。何をすれば、いいのでしょうか」


本気で困った顔をしている。

そっか。この子は、遊び方も知らないんだ。おそらく今よりももっと小さい頃から奴隷として使われてきたんだ。


「それも、これから一緒に探していきましょ」


そう言って手を繋ぐと、シュリアは少し驚いた顔をして、それから、ぎゅっと握り返してきた。 弟がいたら、こんな感じなのかしら。


「そうだわ。お買い物の練習に行きましょ。今日のミッションは、おやつ用の焼き菓子を買う。シュリアの食べたい物を選んで頂戴」

「僕が、選んでいいんですか?」

「ええ、そうよ。あなたが食べたい物を選んで買うの」


シュリアの瞳がキラキラ揺れた。 こうやって少しずつ、自分の好きなものを知っていってほしい。


焼き菓子屋さんの硝子棚の前で、シュリアはたっぷり10分は固まっていた。


蜂蜜のケーキ、木の実のクッキー、干し果物のパイ。視線が行ったり来たりして、そのたびに私の顔をちらりと窺う。まるで初めて見た様に時々困った顔を見せる。


「どれでもいいのよ」

「⋯⋯どれでも、いい」


そうよね。自分で選ぶ(・・)ことって意外と難しい。やりたくもないことを、ずっとやらされていたなら尚更だ。

やがてシュリアは、おそるおそる指を伸ばして、一番小さな蜂蜜のケーキを指さした。


「⋯じゃあ⋯これが、いいです。エル様の頬みたいに、柔らかそうなので」

「え? ふふふっ。じゃあ、それにしましょう」


その夜、半分こしたケーキを一口食べたシュリアは、目をまん丸にして、それから、ふにゃりと笑った。


「甘い⋯」


初めて見る、シュリアの笑った顔だった。

うん。明日も焼き菓子屋さんに行こう。




✤✤✤


────それから、ひと月ほど経った夜のこと。


「⋯⋯っ、⋯⋯ぅ⋯⋯」


隣から聞こえる苦しげな声で、目が覚めた。

シュリアが、シーツを握りしめてうなされている。額にはびっしりと汗が浮かんでいた。


「⋯⋯はい⋯⋯命令、どおりに⋯⋯⋯始末、しました⋯⋯」


「シュリア、シュリア! 起きて、大丈夫よ」


肩を揺すると、シュリアはびくりと跳ね起きた。ブルーパープルの瞳が、暗がりの中で焦点を探すように揺れて、やがて私を映す。


「⋯⋯エル、さ、ま」

「ああ、怖い夢を見たのね。もう大丈夫よ。全部夢だからっ」


ギュッと抱きしめて汗に濡れた背中をさすると、シュリアはしばらく黙っていた。それから、まるで今日の天気でも話すみたいな、ひどく平らな声で言った。


「夢では、ありません。前のご主人様の命令で、僕は、⋯⋯⋯僕は沢山人を、殺していました」


────え。


頭の中で、ギルドの柱に突き立ったフォークが光った。足音のしない歩き方。毎晩、私より先に目を覚ましていること。


「⋯⋯悪いこと、だったのでしょうか。僕には、よく分かりません。言われたとおりにするのが、僕の仕事でしたので」


シュリアは抱きしめる私に身を委ねたまま、はっと息を呑んだ。それから私から逃れるように身体をそらす。


「⋯⋯エル様も、僕が、要らなくなりましたか」


顔を背けて目を合わせない、自信なさげなその双眸は初めて会った朝と、同じ瞳だった。

私は、考えるより先にシュリアの頬を両手で挟み、彼と視線を合わせた。


「要るわよ、シュリア。私はあなたが大好きよ」


ギュッと頭を抱え込むように抱きしめると、シュリアは緊張したように身体を固くした。


「シュリア。もう、誰も殺さなくていいの。これからは、嫌なことは嫌だって言っていいの。やりたいことも、やりたくないことも、全部あなたが決めていいの。全てシュリアの自由なんだから」

「⋯⋯決めていい?」

「そう。シュリアの人生なんだもの。なんだって自分で決めていいの」


シュリアは、しばらく私の胸に顔をうずめていた。やがて、小さく、小さく頷く。


「⋯⋯はい。自分で、決めます」


その夜、シュリアは私の寝間着の裾を握ったまま眠った。

私は朝まで、その寝顔を見ていた。


翌朝、私は鞄の底に入れっぱなしだった、あの奴隷売買契約書を取り出した。

シュリアはもう、奴隷じゃない。


「これも、もう要らないわね。あとで破り捨てちゃいましょ」


私は契約書を、ひとまずシェルフの本の間に挟んだ。




✤✤✤


それから、不思議なことが続くようになった。


ある日、シュリアと薬局に虫よけを卸しに来たら、ギルドで私に「いい匂いさせてんなぁ」と絡んできた赤ら顔の冒険者さんが、虫よけを10本も買いに来た。


「ね、姉ちゃん! あの時は、本っ当にすんませんでした!」

「え? 何のことですか?」

「何のことでもないです! すんませんでしたッ!」


真っ青な顔で、ガタガタ震えながら帰っていった。何故か後ろにピッタリ付いてきたシュリアとは、一度も視線を合わせようとしない。


そしてまたある日、私の香油を半値で買い叩こうとした商人さんは、翌日、なぜか倍の値で買い取らせてほしいと土下座してきた。

しつこく食事に誘ってきた薬局のお客さんは、ぱったり姿を見せなくなった。噂では、田舎の実家に帰ったらしい。


「最近、みんな親切ねぇ」


夕飯のスープをよそいながら言うと、向かいでパンを切っていたシュリアが、こくりと頷いた。


「はい。自分で決めて、動いてます」

「動く?」

「はい。誰も、もう誰も殺さないって決めましたから」

「? 当たり前でしょ?」


変なシュリア。でも、ちゃんと自分で決めて動けるようになったんだ。それに、いつも不安そうに俯いていたシュリアと、今はしっかり視線が合うようになった。

⋯⋯うん。きっとシュリアは、もう大丈夫だ。




✤✤✤


仕入れで帰りが遅くなる日も、シュリアは必ず玄関で待っていた。

「ただいま」と言うと、ほっとしたように小さく息を吐いて、「おかえりなさい」と返してくれる。私はそれが、ちょっとくすぐったくて、かなり嬉しい。


そんなある日、怪我をしにくくする予防薬が出来たので、薬局に納めに行った時のことだった。


「エルナシアちゃんにシュリア君。うちで卸してくれている傷薬が軽度用なのに上級傷薬並に効くって、あっという間に売り切れちゃったのよ~!」

「え、もう売り切れですか。今日は傷薬の持ち合わせがないんですけど、実は新商品を作ってきたんですよ! ダンジョンに潜る前にこのスプレーを吹きかけると、皮膚を強くして、傷がつきにくくなるんです」


「まぁ!凄いわ!こんなの出来たらもう傷薬もいらなくなっちゃうんじゃないの?」


そんなことを話していると、商品棚を見ていた二人組の男が突然私の肩を掴んだ。


「おい、お前かっ?最近妙な薬を売っているという調合師は」


「え?みょ、妙な? いえ、私はただ予防薬や傷薬を売っているだけですけど⋯⋯⋯」


「それだ!その『予防薬』っていう眉唾物の薬のお陰で、こっちは大層迷惑しているんだ。虫刺されの薬も、痒みに効く薬も全くと言っていい程売れなくなった!この時期に出るデビルビーに刺された時の解毒薬が売れなくなったのも、全部あんたの『虫よけ薬』のせいだ!」


つばを飛ばして興奮するこの男は、どうやら調合師のようだ。


「なるほど? つまり、蚊や蜂に刺されないと、貴方達の作る薬が売れないということなんですね」


「そう言っているだろう!病気や怪我がなくなれば、こっちは商売上がったりなんだよっ!」


(⋯⋯⋯余程困らせてしまったに違いないわ)


「それは、エル様の所為ではありませんよね」

「シュリアっ?」

「エル様の作る予防薬や薬が売れるのと、貴方がたが作った薬が売れないのとは全く別の問題です」


「な、なにぃ!?」


シュリアが私の前に立った。私を庇うようにして。


「勝手に嫉妬するのは筋違いだと言っています」


私からはシュリアの背中しか見えない。それでも、凄く怒っているのが分かる。私が責められたことに怒って、そして私に代わって怒ってくれた。

初めてだ。シュリアのこんな姿を見るのは。


「ひっ!な、なんなんだ一体!そんな人を殺しそうな顔をしてっ!」


(え、そうなの?)


「いえ、もう(・・)殺しませんよ?決めたので」


「ひぃぃぃぃっ!!」


男達は後退りをして、逃げるように店から出ていった。


「シュリア。あなた一体どういう顔をしてたのよ⋯⋯⋯」


「僕は、エル様に向ける感情は、好意しか許しません」


うーん。すっかり私に懐いちゃったわね。かなりのお姉ちゃん子だわ。



✤✤✤


────2年目。


虫よけの香油は、下町で驚くほど売れた。

夏になると決まって流行っていた熱病が、今年は少ないらしい。薬局のおばちゃんは「エルナシアちゃんの香油のおかげよぉ」と喜んでくれている。


ただ、あの日の調合師さん達のことは、ずっと気になっていた。

シュリアは怒ってくれたけれど、薬が売れなくて困っているのは本当なのだ。


だから、予防薬の作り方を教えて、調合師さん達にも作ってもらうことにした。私は売上の一部をもらうだけ。


半年後、あの日つばを飛ばしていた調合師さんが、菓子折りを持って店に来た。

「あんたのお陰で前より儲かってる。⋯⋯その、悪かったな」

今では、すっかり良い商売仲間だ。


ほどなくして、私は小さな店を構えた。2階に住める、2部屋ある家だ。


「シュリア、今日から自分のベッドがあるのよ!」

「⋯⋯はい」


なのにその夜、ふと目を覚ますと、シュリアはいつものように私の隣に寝ていた。


「へっ?シュリアっ!? どうしたの、自分のベッドがあるでしょう? ちゃんとベッドで寝なさい」

「はい」


翌朝、私のベッドの下からシュリアが出てきた。


「ベッドで、って言ったでしょ!?」

「ベッドの、下で⋯⋯⋯」

「上で! 自分の!」


それからも、気がついたら私の隣で寝ていたり、ベッドの隅で寝ていたり。

結局、自分のベッドで寝てもらうまでに1週間かかった。(今でも夜中に寝返りをうったら、シュリアが隣で寝ていることがある。でも何故か朝にはちゃんと自分のベッドで寝ているみたい)




シュリアは、薬草採りの名人になった。

森に入ると、気配がまるでなくなるのだ。鳥も鹿も逃げないから、人が近づけない崖の上の薬草まで、平気で摘んでくる。

刻むのも、異様に上手い。シュリアが刻んだ薬草は、断面がまるで鏡みたいにつるりとしている。

おまけに、私が肩こりで唸っていると、一か所ぐっと押すだけで、嘘みたいに楽になる。


「シュリア、なんでそんなにツボが分かるの?」

「⋯⋯人の身体の急所は、全部覚えていますので」

「すごいわ! 将来は按摩師にもなれるわね!」


それからは、頼んでもないのに毎日全身マッサージをしてくれる。肩以外はくすぐったいから止めてって言ってるのに止めてくれなくて、私もお返しにシュリアをくすぐっても全くくすぐったがらない。結局私だけ大笑いさせて、最後は私を怒らせるのよね。



服の仕立て直しは、もう追いつかない。

袖を出して、丈を出して、それでも半年もすれば足首が見えてしまう。祖母に習った裁縫がこんなに役立つなんて思わなかったわ。


ギルドの受付のおじさんが、腕利きの冒険者たちを連れて店に来たのもこの頃だ。


「坊主、うちのパーティに入らねえか。この前、絡んできたうちの一級剣士を木剣一本でのしたろう。お前ほどの腕なら、すぐに一級「入りません」


被せ気味に言った。


「⋯⋯僕がいない間に、エル様に悪い虫がついたら困りますので」


(虫? 今のって、虫の話だったかな?)


「シュリア? 虫よけなら沢山あるわよ?」


「だから、エル様のいない場所に用はありませんし、側を離れる気はありませんので」


(そこまで虫の心配を⋯)


冒険者さんたちは、シュリアの実力を店番で終わらせるのは勿体ないって言ってたけど、シュリアがやりたいと思わないことはしなくてもいいと思う。冒険者さん達は酷く落胆していたけど、シュリアはついでとばかりに新商品の疲れ目予防の目薬を勧めていて、その温度差に少し笑ってしまった。


丁度この頃、予防薬を買いに来た女性のお客さんから、シュリアに手紙を渡されるようになった。何の手紙かシュリアに聞いたら、「つまらない手紙ですよ」と言って内容は教えてくれなかった。


そうして2年目が終わる頃。

振り向いたら、シュリアの目線が、私と同じ高さにあった。


「⋯⋯あら。いつの間に」

「エル様が、たくさん食べさせてくださるので」


今日日(きょうび)の男の子は成長が早いのね。


✤✤✤


────3年目。


シュリアは、私の背をすっかり追い越した。

肩幅も広くなって、腕なんて私の倍くらいある。店に来る女の子たちが、きゃあきゃあ言いながらシュリアを遠巻きに眺めていくのが、最近の日常だ。分かるわ。うちの子、格好いいもの。


ただ、困ったことが一つある。

私が男の人のお客さんと話していると、シュリアがいつの間にか、私と相手の間に立っているのだ。何も言わずに。じっと相手を見下ろして。

大抵のお客さんは、青い顔をしてそそくさと品物を買って帰っていく。


「もう、シュリアったら。いつまでもお姉ちゃん子でいちゃ、あなたのファンが私にヤキモチを焼いちゃうわよ」

「⋯⋯」


それから、もう一つ。


「今日もお手伝いありがとうね」


頭を撫でようと手を伸ばすと、届かない。背伸びをして、ようやく指先が髪に触れる。

と、同時にシュリアの手が私の手首を掴んだ。


「⋯⋯エル様。子供扱いは、やめてください」


「えっ?」


手首を持つ手が、そのまま私の掌を包み込む。 シュリアの手は節くれだってゴツゴツしている。あれ?こんなに大きな手だったっけ?


なんだか居ても立っても居られない気持ちになる。指を絡めるようにして、握ってくるんだもの。時々こういうことをするシュリアに、心臓が妙に早くなっていく。


「シュ、シュリアっ? も、もうっ!シュリアは甘えん坊ねっ?」


そういう時は決まってシュリアは、深い溜息をつく。そうよね。男の子って急に大人の男の人として扱ってもらいたがるのよね。きっと、そう。思春期ってやつなのだわ。





「ねえ、シュリア。あの夜、私、何て言ってあなたを買ったの?」


ある晩、ふと気になって聞いてみた。酔っていた私は、何も覚えていない。

シュリアは少し目を細めて、それから、ふっと笑った。


「秘密です」

「えー、教えてくれてもいいじゃない。契約書もとっくに破り捨てちゃったし、確かめようがないのよ?」

「そんなに気になるなら、思い出してください」

「もう、思い出せないから聞いてるんじゃない」

「⋯⋯⋯⋯」


シュリアが私に隠しごとをするなんて、初めてだ。

⋯⋯なんだろう。ちょっと寂しくて、ちょっと嬉しい。




✤✤✤


その冬、私は熱を出して倒れた。調合師として予防薬を作っているのに不甲斐ない⋯⋯⋯⋯。


冬は熱冷ましと咳止めの注文が重なる。気づけば3日ほど、ろくに寝ていなかった。

店先でふらりと視界が傾いて、床が近づいてきたところまでは覚えている。


熱い。身体が重い。

父さんと母さんも、こんなふうに熱を出して、そのまま目を覚まさなかった。調合師だった両親の遺した薬草図鑑や調合についての本をひたすら読み漁って、寂しさを紛らわした。あの時、もしも予防薬が存在していたら。今でも時々そんなことを考える。



⋯⋯このまま一人で死ぬのは、怖いな。



ぼんやりと目を開けると、薄暗い部屋に、薬草を煎じる匂いが満ちていた。

額に、冷たい布が載っている。


「⋯⋯シュリ、ア?」

「起き上がらないでください。まだ熱が高いです」


ベッドの横で、シュリアが小鍋をかき混ぜていた。

解熱の葉を3枚、喉に効く根をひと欠片、刻んで、弱火で、色が変わるまで。私が料理のレシピと一緒に書いて渡した、薬草の覚え書き。その手順を、一つも間違えずになぞっている。


「はい、ゆっくり飲んでください」


背中を支えられて、木の匙で一口ずつ。

次に目を覚ました時も、その次も、シュリアはずっとベッドの横にいた。初めて会った夜と同じだ。でもあの時とは、きっと違う。

眠っている間に片付けてくれたのか、散らかっていた部屋も、すっかり綺麗になっていた。


人を殺すことしか教えてもらえなかった手が、今、私を生かしている。

宮廷で「役に立たない」と言われ続けた私の薬草の知識が、今、この子の手を通して、私に返ってきている。


「⋯⋯ねえ、シュリア。私のことより、ちゃんとご飯食べて、ちゃんと寝てくれないと心配だわ」

「ダメです、エル様がいなくなるのは、嫌です」


顔を背けて目を伏せる。いつか、よく見ていたシュリアの癖だ。


「嫌、です」


もう一度、絞り出すように。

シュリアが「嫌」と言うのを、その時私は初めて聞いた。


3日目の朝、熱が下がった。

窓から差し込む朝日の中で、ベッドの横の椅子に座ったまま眠るシュリアの寝顔は、初めて会った日より、ずっと、ずっと大人の顔をしていた。




✤✤✤


すっかり回復した日の朝。

台所に立とうとした私の前に、シュリアが一枚の紙を差し出した。


「エル様。そろそろ、子供扱いをやめていただきたいので」


見覚えがある。⋯⋯ある、気がする。


「奴隷売買⋯⋯契約書⋯⋯」

「看病の間に部屋を片付けていたら、シェルフの本の間に挟まっていました。エル様、破り捨てたって言ってましたよね」

「⋯⋯あれ?」


3年前、鞄の中から出てきた、あの紙だ。そういえば、あの時は題名しか見ていなかった。だって、インパクトが大きすぎたのだ。奴隷売買契約書って⋯⋯⋯⋯。


シュリアの指が、紙の一か所を、とん、と叩く。


『年齢 18』


「⋯⋯じゅう、はち?」

「はい。僕も、初めて知りました。⋯⋯なので、今は21です」

「にじゅう⋯⋯いち⋯⋯?」


え。待って。私、今、24。

3つ。3つしか違わない。


え、だって、18歳でしょ!? 私が決めたんだもの。どう考えても5~6歳は年下の子供で。子供は寝るのが仕事で、遊ぶのが仕事で。同じベッドで、一緒に⋯⋯寝て⋯⋯。


「ふぇっ、うそでしょぉぉぉぉ!?」


顔から火が出る。思わず両手で顔を覆って、指の隙間からシュリアを見上げる。


朝の薪割りを終えたばかりのシュリアは、シャツの袖をまくっていて、汗の滲んだ首筋と、逞しい腕がそこにあった。

⋯⋯あらやだ、なんだか目のやり場に困る。

初めて会った朝とは、全然違う意味で。


「エル様」


シュリアが、一歩近づいてくる。


「買っていただいたからでも、命令だからでもありません」


静かな声だった。でも、弟みたいな声じゃない。


「俺が、自分で選んで、エル様の傍にいたいんです。弟としてじゃなく、男として。これからもずっと」


────俺。

シュリアが自分のことを「俺」と言うのも、初めてだった。


「ちょ、ちょっと待って。考える時間を⋯⋯」

「待ちます」


シュリアは、ふわりと笑った。


「3年、待ちましたから」


そ、それはずるい。


結局、何て返したらいいのか分からないまま、私はくるりと背を向けた。


「と、とりあえず! 朝ごはんにしましょう!」


フライパンを火にかけて、バターを落とす。じゅわっと溶けたところに、分厚く切ったパンを2枚。

3年前と同じ、ちょっと贅沢なスペシャルトースト。

背中に、ふっと笑う気配がした。


なんだか余裕のある、大人な笑い方に、ちょっとだけドキッとした。ほんのちょっとだけよ。





✤✤✤


エル様の背中が、朝日の中で揺れている。耳まで赤い。


俺は、あの夜のことを、一日も忘れたことがない。


あの夜、俺は処分されるはずだった。邪魔な人間を消し終えたから、もう要らない。前のご主人様はそう言って、鎖を引いて暗い路地の奥へ向かっていた。

怖くはなかった。そういうものだと、思っていた。


そこへ、歌いながら、この人が現れたのだ。


ふらふらの足取りで鎖を掴んで、前のご主人様の胸に小切手を叩きつけて。


『今要らないって聞こえた!ねえ、要らないなら、私がもらうわ!』


呂律の回らない声で、そう言った。


翌朝、この人は何も覚えていなかった。だから、聞いた。僕は、まだ要りますか、と。

酔っていない声で、この人はもう一度言ってくれた。要るに決まってるでしょ、と。


あの時からずっと、俺の欲しいものは一つしかない。


「シュリア、お皿取ってくれる?」

「はい」


名前を呼ばれる。この人がくれた、俺の名前を。

焼きたてのパンの匂いがする、いつもの朝に、この人が欲しいと思う俺がいた。

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