第9話 村祭りの夜――炎と笑顔と影
谷に住むようになって、初めての大きな祭りの日がやってきた。
それは、収穫と火を祝う古い祭。昼は畑の実りを皆で分け、夜は広場で焚き火を囲んで踊る。嵐に耐えた作物を讃えると同時に、獣や災いを火で遠ざける意味があるという。
「先生、踊り見たことある?」
ロイが目を輝かせて聞いてくる。
「ええ、王都でも舞踏は習いましたけれど……こちらの踊りはきっと違うわね」
「うん! もっと跳ねるやつ!」
昼間、畑では皆が分け前を抱えて広場へ向かっていた。パンにチーズ、焼いた肉、蜂蜜漬けの果実。子どもたちは花冠を頭に載せ、老人たちは楽器を持ち出す。
谷全体がひとつの家族のように動く姿は、王都の晩餐会とは正反対だ。それでも、わたくしは胸が熱くなるのを抑えられなかった。
夜。
広場の中央には大きな焚き火が組まれ、炎が空高く昇った。橙色の光に照らされ、人々の顔は生き生きとしている。
子どもたちが輪になって歌い、大人たちがそれを追うように手を取り合って跳ねる。
ライナーも混じり、ぎこちない笑みを浮かべながら踊っていた。剣を振るときのような真剣さで足を踏み、子どもたちに笑われている。
わたくしは焚き火の脇に座り、ポットで紅茶を温めていた。
ハーブの香りが炎に混じり、夜気に漂う。谷の人々が順に寄ってきて、一杯ずつ受け取っていく。そのたびに「どうぞ」と「ありがとう」が交わされ、輪がさらに広がった。
そのときだった。
焚き火の影の外、森の方で枝の折れる音がした。
谷に住んで日が浅い者なら気づかぬ程度の小さな音。だが耳が慣れたわたくしには、宴の喧噪に混じってもはっきり届いた。
「……カイ」
広場の端に控えていた青年に目で合図すると、彼は頷いて剣の鞘に手を添えた。
ライナーも気配に気づき、輪から外れてこちらに寄る。
「獣じゃない。人だ」
焚き火の灯が届かぬ森の闇に、確かに影が動いた。
数は二、三。谷の祭を遠巻きに覗き、機を伺っている。王都からの刺客か、それとも流れ者の盗賊か。
わたくしは立ち上がり、ポットを火から下ろした。
紅茶を注ぐ代わりに、庭から摘んでおいた強い香草を火に投げ込む。煙が広がり、甘くも刺激的な匂いが夜気を覆った。
森の影が一歩、二歩と近づき、やがて足を止めた。匂いを嫌ったのだ。
彼らは低く舌打ちし、互いに合図を交わすと、踵を返して闇に消えた。
わたくしは息を整え、焚き火の光の中へ戻った。
人々は気づかぬまま歌い踊り続けている。谷の夜は守られた。だが影は確かにそこにあった。
ライナーが小声で言った。
「先生……俺がもっと早く気づけていれば」
「いいえ。あなたが輪の中にいたからこそ、人々は安心できたの。剣を抜くより、笑顔を見せるほうが、今夜は大事でした」
彼の頬に赤い炎の光が映り、少年のような笑みが浮かんだ。
祭りの終わり、焚き火が小さくなった頃、わたくしは帳面を広げた。
十一、笑顔もまた、谷を守る剣になる。
影は遠ざかったが、再び来るだろう。
しかし同時に、この祭の笑い声もまた、必ず戻ってくる。
光と影は交互に訪れる。大事なのは、そのたびに“どうぞ”と“ありがとう”を忘れぬこと。
わたくしは杯を掲げ、小さく呟いた。
「――どうぞ、この谷にまた明日も」
炎の残り火が、夜空に散った。
(※次回:第10話「旧友の来訪――羨望と嫉妬の狭間で」へ続く)




