第7話 隣国からの使者――市場に“どうぞ”を
朝の空気は、谷を囲む山々の冷気を含んで澄んでいた。雨上がりの匂いがまだ地面に残っており、畑の土は黒く光っている。
わたくしは鍬を肩に担ぎ、畝に水路を作っていた。昨日の嵐でところどころに水が溜まり、根を腐らせぬよう道をつけねばならない。
額に汗をにじませたところで、村の広場から鐘の音が響いた。普段は昼や祭りにしか鳴らさぬ鐘――来客の合図だ。
「先生! お客さんが来た!」
駆けてきたのはロイだ。
「隣の国からだって! 偉そうな服着て、馬が三頭!」
隣国エルンからの使者。
アルベールが置いていった封書にあった“礼儀監”の件が、とうとう現実となったのだ。
広場には、村人たちが円を作るように立っていた。
中央に馬を降りたのは、赤茶の外套を羽織った使者たち。中年の男と若い女、それに随行の従者。外套の肩には、穂を抱いた手の紋章――エルンの商業ギルドの印。
「はじめまして。わたくしはエレナ・グランディール。この谷で暮らしております」
「グランディール……ああ、王都で名を聞いたことがある。今は谷に?」
「はい。谷の村人として」
男は少し目を細めたが、それ以上は何も言わず、深く礼をした。
彼らの目的ははっきりしていた。
国境の市場を拡げるにあたり、商人と農夫、役人が互いに衝突せずに物をやり取りする“作法”を求めているという。
物の値をめぐる争い、並ぶ順番をめぐる口論、顔立ちや身分で差別される不満――そうした“段差”を少しでも削りたい、と。
「ならば、ここで一度、試してみませんか」
わたくしは提案した。谷の小さな市場を臨時に開き、エルンの使者を交えて“どうぞ”の順番を運用してみるのだ。
翌日。
村の広場には臨時の露店が並んだ。
パンを焼いた台、野菜を山に積んだ籠、干し肉を吊るした竿。子どもたちが作った花の首飾りまである。
そして入口には一本の縄。縄の端に札を吊り下げ、来た人は順に札を取る。札の裏には番号と小さな言葉――“どうぞ”と書かれている。
「まずは、札を受け取ってください。番号順に、順番が来たら“どうぞ”と言って渡します。
渡された人は、受け取る時に必ず“ありがとう”と返してください」
人々は最初、不思議そうにしていた。だが、子どもたちが先に実演すると、笑い声が起きた。
ロイが「どうぞ!」と札を渡し、相手の少女が「ありがとう!」と受け取る。
それだけで場の空気が柔らかくなる。
エルンの使者も並び、野菜を買った。値付けの際、若い女の使者が値を少し間違えた。
本来より高く払おうとしたのだが、売り手の農夫は首を振った。
「札の順で“どうぞ”を受けた客には、正しい値で渡す。それがここでの約束です」
女は一瞬きょとんとしたあと、笑った。
「なるほど……客が優位に立つのでも、売り手が威張るのでもない。“どうぞ”が先にあるのですね」
わたくしは頷いた。
市場は大きな混乱もなく進んだ。値段交渉は短く、列の割り込みもなく、子どもたちまで参加して楽しんでいる。
ゲオルグのような頑固な男でさえ、最後には「悪くねえ」と口の端を上げた。
だが、すべてが順調ではなかった。
一人、旅装の商人風の男が列に加わり、札を取らずに直接品物を掴んだのだ。
「待ってください。順番を――」
わたくしが声をかけると、男は鼻で笑った。
「順番だの“どうぞ”だの、くだらぬ。力のある者が先に取る。それが商いだ」
場の空気が凍る。
子どもたちが不安そうに見上げ、農夫たちが手を止める。
わたくしはゆっくりと歩み寄った。
「ならば、こうしましょう。――あなたが取ったその品、ここに置いてください」
「断る」
「置く気がなければ、“どうぞ”を言って渡すのです。それができないなら、この市場では取引は成立しません」
男は一瞬、怒鳴ろうとしたが、周囲の視線に気づいた。
子どもも、大人も、エルンの使者も、皆が見ている。
結局、彼は舌打ちし、品を置いて去っていった。
使者の男は目を細め、深く頭を下げた。
「見事です。……作法は形だけではなく、人の心を映す鏡なのですね」
夕暮れ。
市場は無事に終わり、広場には焚き火が組まれた。
子どもたちが今日の出来事をまねて遊び、札を振りながら“どうぞ”の声を繰り返す。
エルンの使者は焚き火のそばで記録をまとめ、明日の朝には国へ戻ると告げた。
「この谷の“どうぞ”を、国境の市場に取り入れたい。あなたのお名前は出さず、方法だけを伝えます」
わたくしは静かに頷いた。
名前など要らない。大事なのは、人々が互いに少しでも軽く品をやり取りできること。
夜。
帳面に新しい行を書き加える。
十、“どうぞ”は、剣より強いことがある。
その瞬間、外で小さな音がした。
窓を開けると、庭の柵の影に人影が一つ。
闇に溶けたその姿は、野豚でも村人でもない。
王都からの――刺客。
第二の人生は、また新しい波を迎えようとしていた。
(※次回:第8話「騎士団の弟子入り志願――影と光の狭間で」へ続く)




