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婚約破棄された悪役令嬢、田舎でスローライフ満喫します  作者: 妙原奇天


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第6話 王子の後悔――揺らぐ過去と現在

 嵐は夜のうちに谷を洗い流し、朝にはきれいな水脈のような冷たい風だけを残して去っていた。

 屋根から滴る水の筋が一本ずつ細り、段々畑の土はしっとりと重く、ところどころに浅い水たまりが鏡を作っている。

 わたくしは玄関の敷居に膝をつき、濡れた靴を拭いた。庭のミントは倒れても葉を落とさず、逆に香りを強くしている。嵐のあとの匂いが好きだ――と、ようやく思えるようになったのだと気づく。


 扉の内側の壁には、帳面が吊ってある。

 一、朝は畑、昼は台所、夜は本。

 二、剣は週に二度、感を鈍らせない。

 三、お茶は日に一度、誰かと飲む。

 四、礼儀は子どもに教える。

 五、王都の噂とは距離を置く。

 六、怒りを持ち歩かない。

 七、谷を脅かすものには、知恵で立ち向かう。

 今朝、わたくしは八行目を加えた。

 八、過去は客として迎える――家主にはしない。


 頁を閉じる音に重なるように、柵の軋む気配がした。

 顔を上げると、紺の外套が朝の光で少しだけ色を薄めて立っていた。昨夜の使者――ではない。肩衣の刺繍は同じ王家の鷹だが、縁取りは控えめで、外套は雨の跡をまだ重く含んでいる。

 彼は兜を脇に抱え、数歩だけ中へ進んで立ち止まった。


「朝に伺う無作法を許せ。――エレナ」


 呼び方が古い。王城の一室の光が、ふいに瞼の裏に戻りかける。

 わたくしは靴布を畳み、落ち着いて立ち上がる。


「お早いお出ましですこと、殿下。……いいえ、もう“殿下”と呼ぶ立場にはございませんね。ここでは、谷の朝が先に立ちます」


 第一王子、アルベール。

 婚約破棄を告げた夜、聖女のような少女の手を取ってわたくしから視線を外し、拍手を背に受けて去っていった。その人が、嵐明けの田舎の庭に靴泥を載せて立っている。

 彼は息を飲みこみ、やや遅れて頭を垂れた。


「君の自由を取り上げに来たわけではない。……謝罪に来た」


 風がミントの葉を鳴らす。

 謝罪。王城で最も遠い言葉のひとつ。

 わたくしは庭の椅子を指し示し、ポットを取った。火はまだ熾っている。わたくしは湯を起こさず、水で葉を湿らせ、香りを立てる方法を選ぶ。熱い言葉より、冷たい香りのほうが今朝は似合う。


「どうぞ。まずは一杯。それからお話を」


 椅子は二脚。彼は少し迷ってから腰を下ろした。外套の裾が濡れた土に触れる。彼は気にしない。あるいは、気にしないふりをする。

 杯を渡すと、彼は昔の癖で指をそっと添え、目を伏せて香りを聴いた。社交の作法は体に刻まれているのだろう。

 口に含んだときの肩の落とし方まで、記憶の中の少年のままだった。


「……君の淹れるものは、いつも誤魔化しがない」

「葉と水と、器。それだけですから」


 短い沈黙。庭の端で、昨夜補強した柵の縄がわずかに締まって音を立てた。

 アルベールは杯を置き、胸に手を当てた。


「婚約破棄の夜――君に対してしたことは、王としてではなく、一人の男として卑怯だった。

 君の覚悟を試すように唆され、世論に背中を押され、君を“悪役”に仕立てた。それが、“王子と聖女”という物語の完成だと信じていた」


「……物語は、誰かに語られるために存在するわけではありませんのに」


 わたくしの声は静かだった。怒りは持ち歩かないと決めている。だが、それでも頬の奥にわずかな熱がこもるのは抑えられない。

 アルベールは視線を逸らさず、続けた。


「君がいなくなって、わかった。

 王都の均衡は、君が見えないところで整えてくれていた。社交の席次、諸侯の矜持、侍従の動線。君が“面倒”と笑って片付けていた無数の段差を、聖女は越えられない。彼女は祈りと希望を与えるが、段差の削り方は知らない」


「わたくしは削り、彼女は照らす。役割が違う。それだけのこと」


「それだけ、ではなかった。段差に躓いた者たちの痛みが、私の足元へ積もってくる。

 ……そして昨夜、近衛の報告を聞いた。嵐のなか、君が谷を守ったと。剣を抜かずに」


 彼の目に、わずかな光が戻る。目撃譚は人の自尊心を救うことがある。

 わたくしは微笑まず、ただ頷いた。


「ここでは、剣より畑が先ですから」


 アルベールは息を吐いた。

 指が卓を小さく叩く。癖だ。何か言いにくいことを言う前の、緊張の捌け口。


「……戻ってきてほしい、とは言わない。

 王都の聴取は、この谷で受けられるように段取りを整える。代わりに、年に三度だけ、王都か、あるいは国境の宿場まで出向いて、君の“段差の削り方”を十人に伝えてほしい。礼は支払う。君の名は出さない」


 庭に朝陽が伸び、二人の足元に重なって落ちる。

 わたくしは杯を両手で包み、湯気のない香りを胸に引き寄せた。

 過去は客として迎える。家主にはしない――今朝書いた八行目が、指先の内側で脈を打つ。


「殿下。……いいえ、アルベール。

 あなたが謝罪に来たこと、その重さは受け取りました。

 でも、わたくしがここで“先生”と呼ばれるのは、誰かの段差の名前を覚え、指で撫でて、時には一緒に転ぶからです。王都の十人に講義をするのが“削ること”になるのなら、わたくしはまだ、削り方を学んでいる最中」


「断る、のか」


「保留、ですわ。三度のうち一度は、谷の収穫とぶつかる。もう一度は、子どもたちの“香り当番”が一巡する頃。

 ――それでも、どうしても段差で転んでいる人がいて、あなたでは届かないなら、その時は呼びなさい。わたくしは谷の誰かに畑を一日任せ、出かけることを考える」


 アルベールは目を伏せ、ゆっくりと頷いた。

 彼の頷きは、王城でよく見た“承認”の頷きではない。届かなかった手を、別の伸ばし方で差し出す人間の頷きだ。


「もう一つ、伝えに来たことがある」

 彼は外套の内側から封書を取り出した。王家の紋――ではない。隣国エルンの使節印。

「エルンから“礼儀監”の相談が来ている。国境の市場を拡げるにあたって、商人と農夫と役人が互いに傷つけずに済む作法を設けたいと。王都は軍と税を差し出す代わりに、“運用の知恵”を求められた。……君の名は出していない。だが、誰より適任を私は知っている」


 隣国からの使者――プロットの遠雷が、現実の手紙に変わる。

 わたくしは封の蝋を指で確かめ、机の上に置いた。


「読みます。返事は、谷の集会所で纏めます。私一人の返事ではありません」


 アルベールは小さく笑った。

「“王子と聖女”の物語をやめたら、世界がこんなに面倒で楽しいものだったとは。……君といると、いつもそれを思い出す」


「物語をやめたわけではありません。配役を全員に配っただけ。

 主役でなくても、人は舞台に立てます」


 彼は立ち上がった。湿った土に踵を置き直し、外套を払う。

 門まで見送ると、柵の向こうでカイが控えていた。剣は帯びているが、鞘に深く収まっている。トマは道端の石を蹴りながら、わざと鼻歌を外している。

 谷は、わたくしが“客を迎える”あいだ、誰もがそれぞれの仕方で支えていたのだと気づく。


 アルベールは二人に軽く頭を下げ、鞍に手をかけた。

 そのとき、彼はふと振り返り、少年のような目をした。


「……君が幸せであるように。どこにいても」


 背中に風の音だけを残し、馬は走り出した。

 わたくしは柵越しに小さく手を上げ、庭へ戻る。ミントの葉を一枚摘み、指で捻ると、香りがぱっとはじけた。


 台所に戻ると、ロイが戸の隙間から顔を出した。

「王子、帰った?」

「ええ。たぶん、もう谷の外よ」

「なら、今日は“香り当番”できる! 蜜の匂いのやつ!」


 彼の声の勢いに、台所の影が揺れて明るくなる。

 わたくしは笑って頷いた。


「うんといい“どうぞ”を練習しましょう」


 昼前、集会所に顔を出すと、ゲオルグが腕組みを解いた。「王都の聴取はここで受けられる手筈が整った。書記がやる。

 それから、エルンの件――“礼儀監”ってやつは、谷のやり方がちょうどいい。市場の見取り図は俺が描く。あんたは“どうぞ”の順番を決めてくれ」


「順番は、並ぶ人ではなく、渡すものの順番で決めます。痛みが少ないから」

「なるほど。――おい、トマ! 杭と紐を持ってこい。線を引く」


 谷の男たちが動き、子どもたちが走り、女たちが布を広げる。

 “王命”という重たい言葉は、ここでは“段取り”という軽やかな手つきに翻訳される。

 翻訳は、わたくしの仕事でもある。


 夕方、畑に出ると、朝の水たまりが薄くなっていた。

 鍬を入れるたび、土の奥からミミズが顔を出し、折り返す。生き物の気配が、ここに暮らすことの保証になる。

 遠く、丘の向こうの街道に、二つの影が見えた。王都の使者だろう。彼らは振り返らない。振り返らない人の背は、なぜだか少し軽く見える。


 夜。

 火を弱くし、ポットに湯を差す。今日は温かいほうがいい。

 帳面を開く。八行目の横に、小さな丸を付けた。


 八、過去は客として迎える――家主にはしない。

 (本日、実施)


 頁の余白に、さらに小さく書き足す。

 九、呼ばれたら、行く準備をしておく。呼ばれなければ、ここで待つ。


 外では、虫の声が途切れ途切れに続き、井戸の綱が風に当たってかすかに鳴った。

 扉を開けると、庭のミントが夜露で光っている。

 わたくしは両手で杯を包み、庭に向かって短く頭を下げた。

 谷は、今日も無事だ。誰かの段差は、少し削れた。誰かの誇りは、少し守られた。

 明日は、子どもたちの“香り当番”が二巡目に入る。蜂蜜の匂いのあとに来るのは、きっと“雨上がりの匂い”。名もない葉の束が、そう告げている。


 カイが戸口に立って言う。「夜回りは薄く回る。嵐の後は、獣も疲れてる」

「わたくしは裏手を見ます。香り袋は新しくしたわ」


「先生」

 呼び止められて、振り返る。

「……王子がもし、もう一度来たら?」

「そのときは、庭先で一杯。――客として」


 カイは満足そうに頷き、闇に溶けた。

 わたくしは卓に戻り、最後の一口を飲み干す。

 温かい香りが喉を落ち、胸の奥で静かに息を広げた。


 第二の人生は、ますます忙しく、ますます軽い。


(※次回:第7話「隣国からの使者――市場に“どうぞ”を」へ続く)

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