第5話 初めての魔獣退治――そして“王命”の来訪
王都からの使者が庭に降り立ったとき、谷には重たい湿り気が漂っていた。
夕暮れの雲が厚みを増し、稲光が遠くで白くひび割れている。雨はまだ細いが、風の匂いはもう嵐の予告を含んでいた。
「繰り返します。王命により、エレナ・グランディール殿を迎えに参った」
先頭の男は、紺の外套に金糸の縁取り。肩には王家の鷹の紋章。近衛に準ずる騎士だろう。声には迷いがない。
その隣に控える若い騎士が、わたくしを観察するように視線を走らせた。
「こちらでの生活があるのであれば、王都に届け出を済ませていただきたい。加えて――」
言葉の続きを、稲妻が裂いた。轟音が谷にこだまし、馬が嘶く。
風が一層強まり、庭のハーブが葉を揺らす。その匂いに混じって、低い獣の唸り声が届いた。
「……まただ」
カイが剣に手をかける。
谷の端で黒い影が動き、雨に煙る草むらから三頭の野豚が姿を現した。昨日、一昨日の比ではない。背丈は人の胸に届き、牙は黄ばんで光っている。嵐に追われ、群れで入り込んできたのだ。
「子どもたちを家に! ロイ、婆ちゃんを頼んだわ」
わたくしは叫び、庭の柵を飛び越える。
王都の使者二人が馬を下り、剣を抜いた。金属音が雨を切り裂く。
「野豚ごとき、我らが討つ」
「待って」
わたくしは彼らの前に出た。剣は確かに頼りになる。けれど、この谷の畑を守るには刃だけでは足りない。
腰の袋から辛い実を取り出し、土に擦りつける。雨で匂いは薄れるが、風に乗せれば十分。
同時に、昨日の“香り当番”で残ったタイムを指で揉み、泥に混ぜて広げる。
「風下に誘導するわ。剣は背を向けた時だけ。真正面からは無駄に血を流すだけよ」
使者の男が眉をひそめた。だが、迷う暇はない。
最も大きな一頭が牙を振り上げて突進してきた。
わたくしは鈴を強く鳴らす。甲高い音が雨の中で際立ち、獣がわずかに首を傾けた隙に、泥へ擦りつけた辛味が鼻先に届く。
野豚は鼻を振り、足を乱す。そこへカイが横から体当たりのように剣の腹をぶつけ、畑から外へ追いやった。
二頭目、三頭目。
使者の若い騎士が剣で弾き、トマが松明を振って横へ走る。炎の匂いに獣が怯み、わたくしは石を投げて視線を逸らす。
やがて三頭は方向を変え、雨の中を森へ駆け戻っていった。
静寂。
荒い呼吸だけが残り、庭のハーブが雨に濡れて揺れていた。
「……見事だ」
若い使者が呟いた。
剣の煌めきより、土と香りと小さな工夫で獣を退けたことに、彼は驚いたのだろう。
「ここでは、刃より畑を守る知恵が必要なのです」
わたくしは泥だらけの裾を払った。
嵐が本格化する前に、人々は集会所に避難した。
大きな梁の下に子どもたちが寄り添い、母親たちが火を囲む。トマは道具箱を広げ、雨漏りを止める木片を配っている。
わたくしは濡れた髪を布でまとめ、井戸から汲んだ水で簡易の茶を用意した。
「どうぞ。温かいうちに」
子どもたちが笑顔を取り戻し、杯を両手で抱える。
その様子を見ていた使者の男が、口を開いた。
「エレナ殿。あなたが谷で人々を守っているのは理解しました。しかし王都としては――」
「理解など不要です。ここでのわたくしは“谷の村人”。それ以上でも以下でもありません」
言葉が重なり、しばし沈黙が落ちた。
雨音が屋根を叩き、火がぱちぱちと弾ける。
やがて使者は低く言った。
「……明朝、再び伺います。その時までに、ご自身の答えを」
そう言い残し、彼らは宿に案内されていった。
嵐の夜。
わたくしは畳んだ毛布に身を横たえながら、今日一日の記録を帳面に記した。
一、朝は畑、昼は台所、夜は本。
二、剣は週に二度。
三、お茶は日に一度、誰かと。
四、礼儀は子どもに。
五、王都の噂とは距離を。
六、怒りを持ち歩かない。
そこに、新しい一行を加えた。
七、谷を脅かすものには、知恵で立ち向かう。
雷鳴が遠ざかり、雨脚が緩んでいく。
眠りに落ちる直前、胸の奥で確信した。
わたくしの第二の人生は、王都に戻るためではなく、この谷を守るためにあるのだと。
(※次回:第6話「王子の後悔――揺らぐ過去と現在」へ続く)




